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 それからというもの、私は展覧会で見たいくつもの絵が頭を離れなかった。授業どころか、友人との会話すらもほとんど頭に入ってこなかった。そして友人も、私のその異変を感じ取っていたようだった。

「茜、最近ずっとぼーっとしてるけど、何か悩みでもあるの?」

「いや、別に。」

「嘘だ。何か隠してるでしょ。」

 余計なお世話だった。

「そんなことないよ。」

「ふーん。もしかして、『恋』してるんでしょ。」

 女子の勘とは実に鋭いものだ。私は冷静である振りをしようとしたが、目が泳いでいたのかおそらく動揺を隠しきれていなかった。

「ふふっ。」

 友人はそのわずかな目線の動きを見逃していなかったようで、核心をついたことからか笑みを浮かべていた。

「私はあなたのこと、応援してるわよ。でもね、一つ忠告よ。あまり溺れすぎないようにしなよ。まあ、あなたのことだから大丈夫だと思うけど。」

 そう、私のことをあたかも分かりきったように言ってきた。でも彼は違うのだ。相手は絵なのだから、裏切られることもない。いつまでも純粋なのだ。彼女は何も分かっていないくせに。そう思いながらも、

「そうね。」とだけ答えた。

 それから少し経ち、朝晩はまだ春の余韻が感じられたが、昼にはすっかり光が夏めいていた。その頃、私は一つの問題を感じ取っていた。そう、お金が無いのだ。別に一円もない無一文という訳ではないが、また展覧会が開催された時には、とてもじゃないが心許ない金額だった。このままでは、良いグッズの一つも買えない。私の欲しいポスターにはとても手が届かないし、なんと言っても彼にお金を貢ぐことすらできないのだ。私は日々、焦りに苛まれながら、どうしたらお金を貯められるか、どうしたらより多くのお金を得られるか。そんなことばかりを考えていた。

 そして、まずは出費を抑えることを徹底して行った。洋服など欲しいものはとことん我慢した。そして、友人との遊びや部活動でのご飯なども、ほとんど断った。多少人間関係が悪くなっても良い。それよりも、彼は私にとって大事な存在だったのだ。彼の為にお金を使いたかった。彼のためなら多少の犠牲など、私にとってもはや、かすり傷にも満たない程だった。

 やがて、外の世界には蝉の合唱が鳴り響いていた。いつも歩く道を陽炎が歪ませ、通り過ぎる風までも熱を帯びていた。相変わらず節約生活は続けており、多少貯金も貯まり始めていた。夏休みに入り、時間ができたので、私は短期のアルバイトに応募することにした。しかし、高校生を夏休みという短い期間だけ雇ってくれるような場所は、そう簡単には見つからなかった。そんな中、引越し業者だけはなんとか応募することができた。

 面接当日。少し明るめのブラウス、膝が隠れる丈の黒いスカート、シンプルなスニーカーという、清潔感が伝わるようなありきたりな服装に、書類が入るほどの大きめのバッグに自分の履歴書、筆記用具を入れ面接会場へと向かった。その日は歩くだけで全身が汗ばみ、直接照りつける日光とアスファルトからの燃えるような熱気が、さらに体を芯から焼き付け、頭を揺らすようだった。緊張などもはやどうでも良い程だった。

 面接会場は、二階建ての営業所で、その横の倉庫は壁一面シャッターの壁だった。その前には白い複数の大型トラックが出入りしており、出入り口には『安全第一』と書かれた黄色い看板が遠くからでもわかるほどに大々的に掲げられていた。

「すみません。アルバイトの面接で来た佐藤です。」

 事務所の扉を開けた瞬間、冷房の人工的な冷気が溢れ出して来ると同時に、ほのかにダンボールの紙の匂いも混じっていた。その冷気は、体をまとわりつく熱気と汗を一瞬にして冷やした。

「ああ。面接の子ね。奥の部屋でやるから。」

「あっ、はい。」

 私は、およそ四十歳前後と思われる眼鏡をかけ夏に染まった褐色の肌をした男性の背中を追うように少し薄暗い奥の部屋へと足を運んだ。

「じゃあ、早速面接始めます。私が、一応この営業所の所長の山本です。」

「さ、佐藤です。よろしくお願いします。」

 つい三分前まではあまりの暑さに参っていたが、今では淡々と面接が始まり、私はまだ気持ちの切り替えができていなかった。

「はい、よろしくお願いします。それでは早速履歴書、見せてもらえるかな。」

「は、はい。」

 山本さんはかけている眼鏡を額にかけ、私の余白の目立つ履歴書に目を通した。やはり、顔は褐色に日焼けしており、その顔に白い眼鏡の後がうっすらと見えた。まるで白い眼鏡をかけているようだった。

「うちの仕事は結構力仕事が多いけど、そのあたりは大丈夫?特に今の時期はこの暑さもあるから特にしんどいかもだけど......」

「はい、大丈夫です!」

 私は、元気とやる気だけはあることを伝える為に、はっきりとした声で少し食い気味に返事をした。山本さんは一瞬驚いたような表情を浮かべたが、すぐに真顔に戻り控えめに頷いた。しかし、私は力仕事には少しも自信が無かった。体力も無ければ筋肉も無い。暑さにもそれほど強くない。しかし、今それを伝えてしまうときっと採用してくれないだろう。そう思い私は、はっきりと嘘をついた。

「それじゃあ、入れるシフトを教えてくれる?」

 嘘をついて良かった。私は、夏休みを全て返上する勢いで働くつもりだった。それほどにどうしてもお金が必要だったのだ。彼の為に働くのだ。

 そして、契約書などの書類一式を受け取り、約二十分ほどで面接を終えた。薄暗い部屋から眩しい光を放っている事務所へと戻った。そこにはおそらく昼休憩を迎えたであろう五人程の中年の男性達が、目を閉じ生気を取り戻すように涼んでいた。少し汗臭かった。

「......お疲れ様です。」

 なんと声をかけて良いかわからず、とりあえず挨拶だけはしておいた。

「ん?......おお、アルバイトの子か!ここ最近、女子高生のアルバイトの子が来るって話題で持ち越しやったんやで。」

「そ、そうなんですか。」

 声がでかいなと思った。別にそこまで離れていないのに、三十メートル離れた位置から話しかけているような声量に耳が痛かった。

「お嬢ちゃん、まだ若いのに力仕事なんかいけんのかいな。」

「アホか、若いからいけんのやがな。」

「それもそうか。」

 陽気な笑い声が事務所の隅々まで響き渡った。私も、軽く苦笑いを浮かべておいた。早くここから出たかった。涼しいはずなのになんだか暑苦しかった。

「まあ、頑張りよ。」

「は、はい。頑張ります。」

 ほんの少ししか話していないはずだが、なぜか長距離を歩いた後のような疲労感があった。しかし、話した感じアットホームな職場で、人間関係などには困らなさそうだと思い安心した。まあ、おそらく女子高生という珍しいアルバイトがきたので、おじさんたちのテンションが上がっていたのもあるだろうが、それでもなんだか一安心した。

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