第15話 それぞれの思惑 — 前篇
■ 朝の通勤電車
月曜日の朝。
天野は吊革につかまりながら、胸の奥の重い気持ちを吐き出すように
ゆっくりと息を吐いた。
――あ……月曜日が来てしまった。あと四回も会社に行かなきゃいけない。
――早く金曜日にならないかな。
先週金曜の電車騒動など、まるで他人事のように、日常は何事もなかったかのように流れていく。
車内モニターには、涼しい顔のアナウンサーが映っていた。
「まだ夏の始まりなのですが、本日は30度を超える予報です。熱中症対策を――」
電車が駅に滑り込み、乗客たちは流れ作業のようにホームへ吐き出される。
いつもの通勤路を歩くと、先のビルのガラス面が朝日を跳ね返す。
正面に高橋ビルが姿を現した瞬間、心臓がわずかに跳ねた。
――そういえば、あの“天上人”はここから出てきたんだよな……。
ほんの一瞬の躊躇。
天野は反射的に道を曲がって、別ルートへ逸れる。
「流石にもう会わないだろ。でも会ったら気まずいし……いや、ストーカーと思われるのも嫌だし」
ぶつぶつと自分に言い訳しながら歩いていく。
足取りは自然と少し早くなり、掌に汗が滲むのを感じた。
ほとんど同じ時刻、高橋ビルのエントランスから由依が姿を見せた。
彼女は朝の空気を吸い込みながら周囲を軽く見回す――しかし見つけたかった“誰か”はいない。
目元に、ほんのわずかな落胆が浮かぶ。
「やっぱりそうそう会わないよね……残念」
⸻
■ 天野の職場
出社して缶コーヒーを置いた瞬間、隣の席から桐生が滑りこむように顔をのぞかせた。
「おはようございます、天野さん。先週の電車……大丈夫でした?」
「え? 何が?」
一口飲んだコーヒーを吹きかけそうになり、慌てて飲み込む。
天野の狼狽に、桐生はスマホを差し出した。
「これ。SNSで拡散してるんですけど……この“暴漢を押さえつけてる人”、天野さんじゃないですか?」
画面の写真はぼかしが入っているが、体格も服装も、どう見ても自分に似ている。
社内でも噂になっているらしい。
「マジか……恥ずかし……」
そこへタイミング悪く、上野がヌッと現れた。
「天野君。噂を聞いたよ。ケガしてない? 困るよ、通勤途中にケガされると。労災になって私の評価が下がるからね。余計なことに関わらないように」
言いたいことだけ言って立ち去る上野。
その背中を見送りながら、天野は眉をひそめ小声で呟く。
「……上野さんが襲われてたら、俺は絶対助けないけどな」
「僕も同じです。むしろおとりに差し出して逃げますね」
二人は真顔でうなずき合って、お互いの拳を突き合せた。
小さな連帯感が、朝の重苦しい空気に、ほんの少しだけ温かさをもたらす。
そのとき――
天野のスマホに「金曜の出来事まとめ」というニュース通知が上がる。
“電車内での暴行事件、警視庁は男を拘束。事情聴取を進め、刑事責任の有無を慎重に判断する方針”
――あ、一応捕まってるんだ。
そう安堵する天野であった。
肩の力が少しだけ抜ける。
⸻
■ 首相官邸
一方その頃。
首相官邸の奥、一般職員は立ち入れない静かな通路を、後藤官房長官が歩いていた。
低く抑えた声で電話をしながら。
「……ええ、助かります。おかげで手が打てる。お礼は精神的、ということで。・・・・・はは手厳しいな。ではまたゆっくりと」
通話を切ると、鋭い目つきのまま総理執務室に入る。
「失礼します」
室内の応接テーブルには、
高橋総理、
西川修造・幹事長、
黒田秀一・財務大臣
の三人が座っていた。
部屋の空気は、抜き身の刃のように張り詰めていた。
後藤「おはようございます。いやいや、皆さんお揃いのようで、遅れてすみません」
三人「……おはよう」「おはようございます」
後藤「先週の“例の事件”の件、ですね」
西川は深く息を吐く。
西川「……すまん。ウチの三男だ。武だ。精神が弱っていてな、問題を起こした」
高橋総理が苦い表情で頷く。
総理「法務大臣から報告がありました。幹事長のご子息が電車内で暴行に及んだ、という話です」
黒田「公安委員長からも連絡がありました。ただ今は情勢が良くない。世論も不安定ですし、刺激すべきではない。こちらで止めています」
後藤「うちのスタッフも巻き込まれたようで、念のため報道管制は即座に敷いていますが……いやぁ、困りますね」
西川「……すまん。本当に西川家の恥さらしだ。あいつは精神病棟にでもぶち込んで、二度と世間には出さない」
黒田は軽く手を振って笑う。
黒田「まぁまぁ、検察には私の同期がいます。ここは政権全体のために穏便にやりましょうよ。
――ついでにお願いですが、『スパイ規制法』と『外国人管理政策』は前倒しで進めたいんです」
西川「……またそれか。他の手はないのか? 若者へのスマホ支給でもやったらどうだ。リンゴかオレンジか名前を忘れたが、人気のメーカーがあるんだろ?
あと、ある程度の通信料を無料にしてやれば喜ぶだろう。
あいつらはスマホを触るのが至福の時間なんだ。なら与えればいい。その分税金を上げても気づかんよ。
ついでに政治に興味を向けないよう、シビリアンコントロールしてやれば――」
総理「幹事長、それは少し極端すぎます」
後藤は苦笑しながら、にやりとした。
後藤「いや、発想としては面白いですよ。国民にはほどほどの娯楽を与え、生かさず殺さず――これは昔からの政治の鉄則です。
ただ、今回は交換条件です。黒田大臣の顔も立てなきゃ。幹事長、飲まないとまずいでしょう?」
西川は不満そうに肩を落とす。
西川「……わかったよ。党内の調整はする……」
黒田は穏やかに微笑んだ。
黒田「ありがとうございます、幹事長。
総理、これでまた一歩前に進みますね。お互い頑張りましょう」
黒田「では私は次がありますので、これで失礼します。関係各省庁には連絡をしておきます」
そう言って立ち上がり、静かに退室した。
次回予告 それぞれの思惑 — 後編
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