第9話 下々の反省会
午後四時過ぎ。
天野はデスクでディスプレイに向かって淡々とレポートを作成していた。
蛍光灯の光が白く滲む午後。クーラーの音だけが静かに響く。
そんな時、上野が足早に近づいてきた。スーツの裾を揺らしながら、やや声をひそめて言う。
「天野君、ちょっと小野寺部長のところへ一緒に行ってくれないか?」
近づいてきた瞬間、胸の奥で嫌な予感がしていた。
――また面倒なことになったな、と思った。
⸻
情報システム部の部長室に入ると、
小野寺隆部長が書類を抱え、眉間に皺を寄せていた。
「……朝のクライアントとの打ち合わせの件でね、少し気になる話がありまして。まあ、具体的には言えませんが、お客様とのやり取りで……」
曖昧に濁された言葉の裏に、“圧力”の影がちらつく。
上野がすかさず言葉を続けた。
「要するに――口は慎むように、ということだよ」
沈黙の空気。
天野は深呼吸して、視線を落とす。
「あ、……わかりました。あの案件、担当者を変えてもらえませんか?」
つい、また言葉にした瞬間、二人の顔がわずかに曇る。
「それは困るんだよ、天野君」
上野の声には、どこか慌てたような現実の重さがにじんでいた。
「私のボーナス査定にも関わるから、自重してくれ、頼むよ」
軽く引きつり笑いを交えながら、上野は天野の肩に手を置く。
「まあ、君の気持ちは分かるんだけど、ここは“大人の判断”でな、な」
天野は小さく頷いた。
「……わかりました。努力してみます。」
その笑みは薄く、どこか疲れていた。
胸の奥で、形のない苛立ちがじりじりと音を立てる。
⸻
夜。
職場の空気を振り切るように、天野は桐生を誘い、駅前の居酒屋に入った。
暖簾をくぐると、油の匂いと笑い声が混じる。
「お疲れ〜」「お疲れ様です」
ジョッキの重なる音。泡が弾け、
お互いビールを一口飲む。
「いやぁ、でも天野さん、マジですごいっすよ。あんな会議でズバッと言えるなんて、俺には無理です!」
桐生がジョッキを掲げ、泡をこぼしながら笑う。
天野は苦笑して、グラスを軽く揺らした。
「良いことじゃない。あとさき何も考えてないから、言えるんだよ。守らなきゃいけない家庭も持ってないしな。結局さっきみたいに説教部屋に呼ばれる。
長谷川みたいに上手く立ち回れるのが、本当の“賢い人”だ。その方がお客さんも喜ぶ」
桐生は照れたように頭をかいた。
「……でも、スカッとしました。俺、天野さんが言ってくれて嬉しかったです」
その一言に、天野はわずかに目を細める。
心の奥で、何かが少しだけ軽くなった気がした。
⸻
グラスが空になる頃、話題は仕事の現実へと戻る。
「でもなんで部長にクレームがいったんですかね?」
「それは部長が元・東亜重工からの天下りだからさ」
「え? 東亜重工?」
「そう。東亜エレクトロニクスになる前にウチの会社に来たんだ。噂では部長レースで負けたとか、何か失敗したとか、真実はわからないけど色々あったらしい。
まぁウチの会社としては一人受け入れて仕事がもらえるなら、それで良かったんだろう。」
「そういうことですか。てことは、部長も村田と同じ帝大出身ですか?」
「いや、違ったはず。どこかは覚えてないけど。まぁ正確に言うと、東亜エレクトロニクスは帝大卒じゃないと、上級役職にはつけないらしい。それもあって小野寺部長はウチにきたのかもな」
「そうですか……結局、“俺たち下請けって負け組”なんすかね」
桐生の声は小さく、どこか弱かった。
「……負けかどうかは、他人が決めるもんじゃない」
天野の声は静かだったが、芯のある響きを持っていた。
「希望くらいは、自分で持ってろ」
桐生は少し笑い、泡の消えかけたジョッキを見つめた。
「……そういえば長谷川さんのサービスの人たちって、毎日定時でいいですよね」
「サービスはサービスで、別のしんどさがあるぞ。まぁ隣の芝は青く見えるもんさ。サービスはサービスで“開発部は良いよな”と思ってるよ。」
その一言に、桐生はふっと肩の力を抜いた。
⸻
桐生が少し間を置いて、照れたように聞いてきた。
「……そういえば、子どもの頃の夢って覚えてます?」
天野は眉を動かした。
「夢?」
「ええ。俺、小さい頃は“でっかい会社でバリバリ働く”のが夢でした。
でも今は……会社とか出世とか、もういいです。
せめて旅行とか、遊びとか、そういう“楽しい夢”は持ってたいです」
天野は少しだけ笑い、グラスの底を見つめた。
「夢か……この歳になると、もうないな。
あるとすれば――平穏に、毎日が終わることくらいかな」
桐生はその言葉を聞いて、静かに頷いた。
「……なんか、そういう考えでも良いんですよね。」
「小さい頃はさ、誰だってアニメの主人公になりたかっただろ?」
天野がふと笑みを浮かべる。
「で、主人公になれない人間は脇役になる。
でも気づくと、もう脇役にもなれなくてさ。歳をとって現実が見えてくると、自分がモブキャラですらないことに気づくんだ。
そしていつの間にか、“その他大勢”の一人になってる」
桐生は小さく笑った。
「……でも、そういう“その他”の人たちが、ちゃんと生きてる世界のほうが、
本当はいいんですよね」
「そうだな。その他大勢にも、ちゃんと希望はあるからな」
⸻
桐生は肩の力を抜き、満足そうに笑った。
「ま、今日は金曜ですし。明日は休みだし」
「そうだな。ちなみには明日はなにするんだ?」
「ラブリンクで遊びます」
「…そうか、頑張ってね」
「天野さんも試してくださいよ」
「絶対しない!!」
笑いながら、天野は立ち上がった。
「さあ、そろそろ帰るか」
二人は外に出る。夜風が心地よく、街の灯りが遠くに滲んでいた。
週末の静けさが、少しだけやさしく胸に沁みた。
⸻
同じ時間。
大和守護システム・オペレーションルーム。
巨大ディスプレイの端のほうに、注意表示が明滅する。
CAUTION:LOVELINK – User ID TN@19990405
Domestic Violence Pattern Detected.
赤い文字が瞬き、室内の照明が一瞬だけ暗転した。
当直のオペレーターの誰かが息を呑む。
――週末の街の片隅で、新たな異常が始まろうとしていた。
《To be continued》
次回 第一章クライマックス篇〈中篇〉
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