第5話 尿道に魔貫光殺砲
「へー、ピースって、ヤリツィンの家に住んでんのー?」
バイト先でラブは滑舌のわるいアニメ声をのばした。
兄は仲間うちで「ヤリツィン」と呼ばれてるらしい。おもしろい。わたしも今度から、そう呼んでやろう。ヤリツィン、勃ったついでに麦茶とってきて。
せまい町だし、ラブと兄あらためヤリツィンは同い年だから、知り合いかもと思って話を振ってみたら、おなじ中学、どころか、幼稚園のまえからの(いわく「ほくろの数も知ってる」)幼馴染ということらしかった。
ラブの家は戦前からあるという、木の看板に空襲で焼けた跡があるなど、かなり年季と気合の入った古書店で、わたしは夏休みのあいだ、そこでバイトをさせてもらえることになった。一冊売れるごとにその一割をもらえるその日払いの歩合制である。めずらしい初版のサイン本などもかたむいた本棚に交じっており、単価が高いので、一冊売れたときの実入りは出前そばに天ぷらを一品足したくなるぐらい多い。とはいえネットで売れ線の本がいくらでも買える昨今、空にしか取り柄がなくってソレーネと呼びたいほどしょぼくれた片田舎の片隅の古本屋に来る客なんか物好きしかいないので、さんかくの目をした蒐集家がつどう土日でも売れてせいぜい一万円ぐらい。日給にして千円、11~16時で入っているので時給ならわずか二百円。子どもの肩たたきでももっと多い。とにかく、食費は兄もといヤリツィンが出してくれているし、ここに来るまえに両親がまあまあのお金を持たせてくれたし、ゆうちょも中学生にしては少ないほうではないから、お金には困ってない。それにソレーネには遊ぶ場所がパチンコとカラオケとゲームセンターとホームセンターとオートバックスとラブホテルと性病のうわさがかまびすしい風呂屋と夜のグッズばかり充実した雑貨屋ぐらいしかないから(まえはゴールデンボールというどうかという名前のボウリング場もあったらしい)、お金をつかう機会もほぼない。バイトは暇だったし、いつもラブが付き合ってくれて、しょうもないおしゃべりで盛り上がったから、それでよかった。
ラブはヤリツィンと違って、煙草を吸わない。酒も飲まないらしい。代わり、土みたいなしめっぽい匂いがして、嗅いでいると頭がぼんやりするのが、とてもいい。
とはいえ、恋人になり、そういうこともあるかと会う日は勝負下着を履くなど、緊張していたけれど、二回目のキスどころか手をつなぐのすらおあずけ状態だった。好きとかかわいいとかも言ってくれないし、おたまじゃくしみたいにひくいトーンで「前髪、切りすぎ」と言われたぐらい。バイトが終わるとわたしは、二階にあるらしいラブの部屋に呼ばれることもなく、熱いコーヒーを飲み終えラブが有線のからまったイヤフォンを耳にはめたタイミングで、追い出されたみたいに帰る。そんな日はどうにも手持無沙汰で、かえるのかたちの石ころを蹴飛ばせば、青色ストライプのJRバスに追い抜かれ、ひえた風にスカートがあおられて、凪いだ瀬戸の海にしずむ夕焼けはとりわけ赤く見えた。帰りみちにある蠅取り紙がのれん代わりの駄菓子屋でどぎつい緑色のグミを買って食べた。
性欲がないのかな? 女の子との付き合い方が分からない。男の子との付き合い方も知らないけど、ジャスト・ドゥー・イットなそれと違って、女の子とのほうがややこしい気がする。
「だいじょうぶ? ヤリツィンに手とか出されてない?」
ラブがそう尋ねてきた。なんだそのコアラのマーチをスライダーの握りでほおばりながらの、どうでもよさそうな口調は。
「いちおう妹だし、大丈夫じゃない?」
わたしもフリスビーでも投げるみたいに、素っ気なく返す。
妹というかなんというか、分かるんだよね。ヤリツィンはわたしに性的欲求をまったく感じてない。そういう部族なのか、部屋ではへいきに裸で過ごしてるし、そのままバナナ食べてるし、ラブには言えないけど、わたしも風呂あがりは乳輪の大きさがコンプレックスな乳首が透けるのも気にせず、ヤリツィンのだぶだぶの白ティーだけ着てたりする。で、YOASOBIのYouTubeをのぞきこんでるときの距離感は、兄妹ともちょっと違う気がするけど、ほっぺがくっついたときの反応とか、わたしを女としてぜったい見てない。「夜に駆ける」いいよねー、じゃねーよ。その咥えてるポッキー折ったろか。しかし肝心のあっちはビレバンのハリボーみたいにふにゃふにゃなのだ。
「でもヤリツィンさあ、ポリアモリーでしょ。見境ないんじゃない?」
ラブがおなじ声色で返す。幼馴染だけあって、やっぱり知ってたのか。それからラブはわたしの口にさいごのコアラのマーチを放りこみ、そのまま突き出していた下くちびるを親指で撫でて、こうつづけた。
「誰でも愛するってのがポリアモリーだよね。だからノンバイナリーの、アセクシャルの人とか多いんだってさ。相手が男だろうと女だろうと、性的関係を誰とも持たない。だから問題にならないってわけ」
ラブは何が言いたいんだろう? どうでもよさそうな口調なんかじゃない。DVしたあとの男がやさしいみたいに、そう装っているだけだ。
ラブの言うとおりなら、ヤリツィンはポリアモリーじゃないし、わたしはアセクシャルじゃない。じゃあなにものなんだ。ふいに、ヤリツィンのイクときみたいな顔が思い出された。口がかたむすびされた蛍光ピンクのコンドームがふくらんでいる。そんなさびしいもの、見たはずもないのに。
「ラブはさ、わたしがヤリツィンと寝たら、怒る?」
話を変えるようだけれど、そう尋ねてみた。昼下がり、ここだけ世界から無視されたみたいに、客が来ない。おそすぎる朝刊をリアにつっこんだ電動ジャイロキャノピーが音も立てず正面のほそい道を駆けていった。ヘルメットをしてないと思ったら、ナンバープレートは空のいろだった。
「相手がヤリツィンなら怒らないかな。ほかの男なら尿道に魔貫光殺砲だが」
そう言ってラブは、ながい中指を人差し指とそろえて額に当てた。目の虹彩がぎゅっと小さくなり、はじけかけの超新星みたく、光を帯びていない。そのままペニスごと嚙み切ってしまいそう。
浮気されたとき、恋人にキレるのが男性で、浮気相手にキレるのが女性だという。その点でラブは女性っぽい。けど、ラブがレズビアンで恋愛対象が女性なら、女性との浮気のほうに怒りそうなものだけれど(そして男性となにかあっても見逃してくれそうなものだけれど)よく分からない。なにより、なんで相手がヤリツィンなら大丈夫なのか、もっと分からない。
「あたし、男、嫌いなんだよね」
割れた太陽みたいな目のまま、ラブは物分かりのわるい子に訓(おし)えるみたいなやわらかい声で言った。
「でも、ヤリツィンはいいんだ?」
そう尋ねてみて、わたしとヤリツィンが同居してることを教えても、ラブはアーモンド形の目をアイプチでととのえるのに夢中で、まったくうろたえなかったことを思い出す。
ラブは目を泳がせ、言葉を探すように、す、と息を吸った。がらがら、と、引き戸がひらく音がして、目線を上げれば、杖の老人が入ってきて、ねずみ色のキャスケットをしきりに直しながら、純文学の棚のまえで立ち止まった。あーそこ、ちょっと性的描写がきつめのヤングアダルト寄りなんだよな。もうちょっと左に山崎豊子があるんだけどなあ。あーそっちは、山崎は山崎でもナオコーラだよ。とうぜん、伝わるはずもないので、老人は、ぱあん、と音をならしてあえての「人のセックスを笑うな」をけしからんといったぐあいに閉じると、入ってきたときよりも早足で、杖を蹴とばすように、店を出ていった。引き戸が開けっ放しだったので、風が入りこみ、きんぎょのかたちの風鈴が、しゃららん、と鳴るととともに、老人と海のまじったみたいな匂いが漂った。
「ヤリツィンの初めての彼女は、あたしの親友だったから」
しぼりだすように、ラブは言った。言ってから、ふわっと笑った。ラブが笑うとき、いつも皮肉っぽい笑い方だったから、こんなふうに笑うのだとおどろいた。
「どんな子だったの?」
嫉妬でもないけど、うらやましくて、そう訊いてみた。それに、ヤリツィンがさいしょにどういう子と付き合っていたのかは、ふつうに興味があった。その関係性と、彼がポリアモリーであることは、つながっているような気がしたし。
ラブはみじかい金髪をがしがし搔き乱しつつ、スマホをカウンターのうえから取り上げて、ネイルがきらびやかな指でカメラロールをスクロールした。女の子のあられもないエロ画像をいくつも通り過ぎていくと、だんだんモザイクが増えて、着衣が厚くなっていき、さいご、しゃちほこばった男子ひとりをあごに裏ピースを乗せた女子ふたりがはさんでいる画像にいきついた。わらっちゃうぐらい面影がないけど、男子はヤリツィンで、おどろいたことに黒髪でみつあみに瓶底メガネなのが、ラブと思われる。でも、ぎゃくに整形したのかってぐらい、純朴でかわいらしい。ヤリツィンの制服はぶかぶかだけど、部屋に吊るされているものとおなじだから、これは中学の、一年生だろうか。二年ぐらいまえだ。で、ヤリツィンの初彼女と思われる女の子は、なかなか、お世辞にも、かわいくない。あきらかに太ってるし、いろあせた茶髪は品がないし、じみな黒のワンピースで、肌はしろいけど、紅潮した頬は月面みたいににきびだらけ。目じりにセロテープを張ったみたいな吊り目で、こんなごっつあんな力士が十両にいたような気がする。とかいえば、ルッキズムといって怒られそうだが、それでいえばよっぽどヤリツィンのほうがルッキズムの奴隷だ。頼んでもないのに歴代の「ヤッた相手コレクション」を「こいつは数の子天井のぐあいが85点」と点数をつけられながら見せられたことがある。いわく年上好きで「下は二十歳、上は閉経までいける守備範囲の広さは、『矢野と双璧』と称されるほど定評がある」らしい。矢野って誰だよ。まあいやらしいといおうか、みんな上半身裸でベッドに入った姿のもので、ハメ撮りまがいのものもあった。事後なんだろう、女の子の化粧は汗で剥がれていたりもしたが、みんなインスタなら万のフォロワーがつくぐらい、かわいかった。そんなちからいっぱいルッキストのヤリツィンがこんな子を選ぶのは、初彼女とはいえ、かなり不思議。
「このころのヤリツィン、すごく一途だったんだよね。さいご、フラれちゃったけど」
ラブはそう言って、なにがおかしいのか、また笑った。いつも土みたいな匂いをただよわせているのだけど、店番の日だけはなぜか歯みがきをするので、ミントのさわやかな匂いに胸がきゅんとした。
そうかこのころヤリツィンは、まだポリアモリーじゃなかったのか。ずいぶんひどいフラれ方をしたんだろう。そう思えば、よっぽど釈然とするというか、フラれて自暴自棄になるというのはベタなところがあるヤリツィンらしいといおうか、ラノベでも食傷気味なぐらいよくあることだから、ありていな話のつづきに興味を失ってしまった。
バイトの時間が終わったので、ワインレッドに白抜きの店名が書かれたのれんをY字の棒でおろしてから、外に出している百均の箱を荷台ごと仕舞い、棚にはたきをかけて、床をほうきで掃く。簡易水洗トイレの洋便器を「流せる紙」でていねいに磨き、半透明の袋に空き缶や汁を捨てた弁当ガラをまとめたゴミを出してから、手書きのスリップをデスクライトのしたに並べて帳簿をつけた。この日の売り上げは、いちばん人気の百均本のほか、太宰治の単行本を射止める目利きがいて、1600円だった。平日で少ない日ならまあこんなもんだ。わたしの取り分の160円を抜いてから、ジップロックに詰めた売り上げを手提げ金庫に入れ、鍵を掛ける。帰りの自販機できんきんのGokuriでも買って帰ろうか。
いつもどおりラブは見送ってはくれず、ママチャリに乗って(ふだんヤリツィンが通学に使ってるもので、足がつかず、変速機がないうえ、ペダルが漬物石みたいに重い)、海沿いのだだっぴろい道を走った。野良猫が多い集落を突っ切ったほうが早いのだけれど、登り坂だし、時間をもてあましたくて、そうした。海には粉のオレンジジュースを溶かしたみたいに太陽がしずんでいた。わたしの故郷では夕陽が見られない。そのかわり、朝陽が見られるのだ。ほそながい墨のいろの影をひく漁船とか、かなしくなったわけじゃないけど、わたしの故郷ではいまも漁の通常操業がはじまってないので、なにかできることをしないといけないことに気づき、来た道を立ちこぎで戻った。ママチャリがぎいぎいと悲鳴みたいな声でないた。
「わっ、びっくりした!」
ラブの古書店の明かりはまだ点いていて、いっぽう周囲は暗くなっているから、アスファルトのうえにはちみつ色の格子の影を引いていた。ガシャンと音を鳴らしてママチャリを倒し、引き戸を開け、息も整わないまま飛び込むと、ラブは大きな丸メガネを着けて、村上春樹の文庫本を開いていた。蚊取り線香のけむりがらせんを描く。彼女は男嫌いなくせ、初期の村上春樹作品がカラフルな付箋を生やすぐらい好きだという。
「どうしたの、ピース?」
ラブはスパッツのひざのうえに乗せていたバーバリーの膝掛けを払うと(暑がりなので冷房をきつく掛けたがるくせ、おなかが弱いらしい)、三和土で靴を履かないままわたしに歩み寄ると、ぎゅっと抱きしめてくれた。泣きたくなるぐらい胸がやわらかい。ほっぺが火傷しそうなぐらい冷たかった。
けど、泣くのはダサいから、くちびるをぐっと堪え、ラブの形のいい耳に口をちかづけて、噛みつくように言った。
「わたし、ヤリツィンと、したことあるの!」
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