第二十話『CB750 Four』
古びたシャッターが、錆びた音を立てて上がっていく。
中にいたのは、六十八歳の元・整備士、吾郎(ごろう)と、一台の赤いオートバイだった。1969年式、ホンダ・ドリーム CB750 Four。その、量産車として世界で初めて並列4気筒エンジンを搭載した「K0(ケーゼロ)」と呼ばれる最初期型。砂型鋳造で作られた、ざらつきのあるエンジンが、その歴史的な価値を静かに主張している。
半世紀近く、吾郎はこの小さなバイク屋「遠藤モータース」を一人で切り盛りしてきた。そして、今日が、その最後の日だった。後継者はいない。都市開発の波に押され、この土地も、来月には真新しいマンションの基礎に埋もれてしまう。
このCBは、吾郎が若い頃、初めて新車で手に入れた、彼の青春そのものだった。
それまでのバイク乗りが憧れていた英国製の2気筒エンジンとは、まったく違う。モーターのように滑らかに、そしてどこまでも吹け上がっていく、並列4気筒エンジン。4本出しの、勇壮なマフラーが奏でる咆哮。セルボタン一つで目覚める手軽さ。そして、雨の日でも安心して握り込める、油圧式のディスクブレーキ。
乗った瞬間、吾郎は「時代が変わった」と肌で感じた。古い常識が、遠い過去へと吹き飛ばされていく、その瞬間の中心に、自分とこのCBはいた。
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最後の仕事として、吾郎は、このCBのエンジンに、もう一度だけ火を入れることにした。
埃を払い、新しいガソリンを注ぎ、バッテリーを繋ぐ。チョークを引き、セルボタンを押す。
キュルルル…。
一瞬の間を置いて、空冷4気筒エンジンは、まるで昨日まで走っていたかのように、あっさりと目を覚ました。
フォン、フォンフォーン!
4本のマフラーが、ユニゾンの取れた、深く、そして猛々しい咆哮を奏でる。若い頃、何度も聞いた、彼の心を震わせた音。だが、今の吾郎の耳には、その音は、まるで自分だけが過去に取り残されてしまったと告げる、鎮魂歌のように聞こえた。
時代は、変わった。
今のバイクは、電子制御で武装し、スマートフォンと繋がり、中にはモーターで走るものまである。それに比べて、このCBは、あまりにも無骨で、アナログで、不器用な鉄の塊だ。
まるで、今の自分自身を見ているようだった。
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日が落ち、店の片付けもすべて終わった。
ガランとした空間に、CBと吾郎だけが残される。
このバイクは、どうするべきか。一緒に、新しいマンションに連れて行くか?いや、そこに、このバイクを整備する場所も、走らせる道もない。旧車として、高く買い取ってくれる業者に売るか?見ず知らずの人間の手に、自分の魂の半分を、委ねることができるだろうか。
結論は、出なかった。
その時、店の入り口に、一台の最新スーパースポーツが停まった。ヘルメットを脱いだのは、二十代前半の、見知らぬ青年だった。
「…あの、まだ、やってますか?」
「…もう、閉店だよ。うちは、今日で終わりなんだ」
吾郎は、ぶっきらぼうに答えた。青年は、それでも店の中に入ってくると、CBの前に立ち、まるで美術品でも見るかのように、その姿に見入っていた。
「…すげえ。本物のK0だ。しかも、こんなに綺麗に…」
青年は、自分のバイクを指差して言った。
「俺のバイク、ご先祖様は、こいつなんですよね。このバイクがなかったら、俺たちが今乗ってるバイクは、生まれなかったかもしれないって、親父が言ってました」
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親父も、昔、CBに乗ってたんです。そう言って、青年は、楽しそうに自分の父親の話を始めた。
吾郎は、ただ黙って、その話を聞いていた。
青年の言葉を聞いているうちに、吾郎の心に、ある感情が、ゆっくりと蘇ってきた。
そうだ。俺たちは、終わったんじゃない。俺たちが愛したこのCBは、今のバイクの中に、その魂を受け継がせ、生き続けているんだ。
俺の、この小さなバイク屋も、そうだ。ここでバイクを買い、修理していった若者たちが、今も、どこかでバイクに乗り続け、その楽しさを、次の世代に伝えてくれているかもしれない。
俺の仕事は、決して、無駄じゃなかった。
吾郎は、顔を上げ、青年に向かって、自分でも驚くほど、穏やかな声で言った。
「…小僧、コーヒーでも飲むか。お前の親父さんの話、もう少し、聞かせてくれや」
青年は、一瞬驚いた顔をしたが、すぐに、満面の笑みで頷いた。
ガレージの片隅で、二人は、インスタントコーヒーをすすりながら、世代を超えて、バイクの話を始めた。
その二人と一台を、CB750 Fourのエンブレムが、まるで誇らしげに、静かに見守っていた。
時代は、確かに変わる。だが、受け継がれていく魂は、決して、消えたりはしないのだ。
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