第十四話『H2R』
夜明け前。三千メートルの滑走路は、まるで異世界へと続く回廊のように、静寂と暗闇の中に横たわっていた。
その起点に立つ男、雅宗(まさむね)は、自分の分身とも言える漆黒の怪物の隣で、昇り始めた太陽を待っていた。
カワサキ・Ninja H2R。
これは、公道を走ることを許されない、サーキット専用モデル。いや、もはやモーターサイクルという枠に収まらない、航空宇宙・ガスタービン・機械といった、川崎重工が持つ技術の粋を結集して生み出された、「走る」という概念の最終回答。
あらゆるスーパースポーツを乗り継ぎ、世界中のサーキットを走り尽くしてきた雅宗にとって、このH2Rは、最後に残された未踏の頂だった。
カーボンファイバー製のカウルに埋め込まれたウイングレットは、カワサキの航空宇宙カンパニーが設計した本物だ。銀鏡塗装と呼ばれる特殊なペイントが、朝焼けの僅かな光を捉え、ぬらりとした妖しい光沢を放つ。
そして、その心臓。自社開発された、遠心式のスーパーチャージャー。300馬力を超える、狂気のエンジン。
雅宗は、この怪物を完全に解き放つため、このプライベート滑走路を借り切った。今日、彼は、人間が二輪車で到達しうる、速度の絶対限界を目撃する。
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タイヤウォーマーを外し、レーシングスーツのジッパーを首元まで上げる。H2Rに跨ると、その過激なライディングポジションが、これから始まる儀式の苛烈さを物語っていた。
スターターボタンを押す。
キュルル、という始動音と共に、直列4気筒エンジンが目を覚ます。だが、その背後で、アイドリング中にもかかわらず、明らかに異質な音が鳴り響いていた。
「キィィィィン…」
スーパーチャージャーのインペラが、空気を切り裂く高周波音。それは、機械の作動音というより、獲物を前にした猛禽類が、喉を鳴らす音に近かった。
滑走路の端にバイクを止め、ローンチコントロールを起動させる。メーターの表示が切り替わり、発進準備が整ったことを示す。
目の前には、ただ真っ直ぐなアスファルトが、地平線の彼方まで伸びている。
風はない。気温、路面温度、すべてが完璧なコンディションだった。
雅宗は、ヘルメットの中で、深く、息を吸った。
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クラッチを繋いだ瞬間、世界は無になった。
電子制御が、後輪の空転を許容範囲ギリギリで抑え込み、H2Rは、まるで巨大な電磁カタパルトから射出されたかのように、前へ、ただ前へと突き進む。
1速、2速。
背中をシートストッパーに叩きつけられ、首はヘルメットの中で後ろに持っていかれそうになる。景色は、もはや「流れる」という生易しいものではない。視界に入った瞬間には、既に過去へと消え去っている。
そして、耳を支配するのは、エンジンの咆哮ではなかった。
キィィィィィィン!
回転数が上がるにつれて、甲高く、そして狂おしくなっていくスーパーチャージャーの絶叫。それが、雅宗の鼓膜と理性を、同時に麻痺させていく。
3速、4速。
メーターの数字は、もはや意味をなさない速度で駆け上がっていく。時速200、250、300キロ。
その領域から、H2Rは第二の覚醒を始めた。カーボン製のウイングレットが、強烈なダウンフォースを発生させ、車体をアスファルトに縫い付けていくのが分かる。空気は、もはや抵抗ではなく、粘性を持った壁となって、全身に圧し掛かってくる。
5速、6速。
タンクの上に、完全に身を伏せる。風切り音は、音ではない。それは、暴力的なまでの「圧力」だ。
350、360、370キロ…。
まだ、加速が止まらない。
これが、人が作り出した、二輪車の絶対的な頂点。雅宗は、恐怖と、それを遥かに凌駕する歓喜の狭間で、ほとんど神の領域に触れたような、万能感に包まれていた。
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滑走路の終端を示すマーカーが、視界の隅を掠める。
雅宗は、夢から覚めるようにスロットルを閉じ、ブレンボ製の巨大なブレーキに、全ての指と足の力を込めた。
加速と同等に、暴力的な減速Gが、彼を前へと引き剥がしにかかる。
やがて、H2Rは、何事もなかったかのように、静かに停止した。
エンジンを切る。
絶対的な静寂が、世界を支配した。耳の奥で、まだスーパーチャージャーの残響が鳴り響いている。
全身の筋肉は震え、呼吸は荒く、心臓は張り裂けそうだった。
彼は、勝ったのだ。速度という、抗いがたい魔物に。
雅宗は、ヘルメットを脱ぎ、振り返った。自分が越えてきた、遥か彼方のスタート地点を眺める。
だが、そこに、達成感はなかった。
ただ、圧倒的な虚無感だけが、広がっていた。
すべてを尽くし、絶対的な限界に、確かに触れた。そして、その先には、何もなかった。
王者の座は、これほどまでに孤独で、空虚なものだったのか。
彼は、静かに佇む漆黒の怪物に、そっと語りかけた。
「なあ、相棒。俺たちは、これからどこへ向かえばいい?」
H2Rは、答えない。ただ、冷え始めたエンジンが、「チッ」と、短く鳴いただけだった。
昇りきった太陽が、そのあまりにも美しい、そしてあまりにも物悲しい王者の姿を、静かに照らし出していた。
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