第51話
自宅に戻ると、セバスチャンがノクスの好物を用意して待ってくれていた。ダイニングテーブルの上には芋もちをメインに、ノクスの好きな野菜のスープやセバスチャンお手製のパンなどが並んでいる。当たり前のことだが、一つも焦げていない。
「おかえりなさいませ、ノクス様。お腹が空いたでしょう」
「……そうだな」
ノクスは頷き、セバスチャンが引いた椅子に浅く腰掛けてから手を合わせ、フォークを手に取った。
大好物である芋もちはいつも通りの味だった。イスカが作った時とは違って、芋は舌触りが滑らかになるまですり潰され、もちもちとした食感だ。タレも濃すぎずまろやかな味わいで、ノクスの知るセバスチャンの味そのものである。
セバスチャンが作ったのだから、馴染みのある味になることは当たり前なのだが。
ふと、フォークを持つ手が止まった。
「……ノクス様? お口に合わなかったですかな?」
「そんなことはない。いつも通り美味しいが……なんだか静かだと思ったんだ」
「それはそうでしょう。イスカーチェリ様がおられないのですから」
セバスチャンが小さく笑う。
ノクスは水が入ったグラスを手に取り、透明なそれを軽く揺らした。
「……そうか。彼女がいることが当たり前になっていたんだな」
「お寂しいのですかな?」
「わからない」
ノクスは水を一口喉に流し込んだ。
向かいに座るセバスチャンの椅子には、ついこの間までイスカが座っていた。彼女がこの邸にいたのは一月あまりだが、ほとんど毎日朝夕の食事を共にしていた。
別れ際、彼女は何を食べても味がしないと言っていた。けれど彼女はいつだって美味しそうに食べていた。両の手では数えきれないくらいに食卓を囲んだというのに、ノクスはそのことに気づかなかった。
いや、気づけなかったのだ。彼女があまりにも幸せそうに笑っていたから。
「ノクス様は……イスカーチェリ様のことを、どう思われておいでなのですか?」
「難しい質問だな。好きか嫌いかと訊かれたら、嫌いではないのだと思う。視界に入っても触れられても、嫌な気持ちにはならなかった」
セドリック・オールヴェニスが視界に入った時、不快感に似た何かを抱いていた。次いで、ハルメルス領での調印式の夜にイスカがエクウォルの男に絡まれていた時、その男だけに苛立ちを覚えた。隣にいたイスカにはそういった嫌な感情は抱かなかった。寧ろ、自分の視界に入らないところで何をしていたんだと、小言を贈りたくなったくらいだ。
つまり、何が言いたいのだろうか。
「嫌いではないのなら好き、という考えは──ノクス様はお嫌いでしたな」
「そうだな。僕は物事を好き嫌いで分別することを好まない」
「でしたら、一緒に居たいか、居たくないかと訊かれたら、どちらですかな?」
「……居たくないと言うのは、嘘になる、と思う」
ノクスはもぞもぞと口を動かした。
考え込む間もなく答えを出したノクスを見て、セバスチャンは嬉しそうに微笑んでいた。
「そう、それが答えなのですな」
だけど、とノクスは呟く。
「ずっとここにいないのは、僕も彼女も分かっていたことだ。だけどいなくなった途端にさびしさのようなもの感じたのは、彼女がここにいることが当たり前になっていたからだろう」
自宅に戻った時。扉を開けて、おかえりという彼女の声が聞こえないことに、変な感じがした。あるはずのものがなくなってしまったような──心にぽっかりと穴が空いたような心地だった。
元の生活に戻ったのだと分かってはいても、違和感を拭えない。
「……普通だったんだな、これが」
ノクスは胸の中から最後の空気を吐き出すように呟いた。
その日の夜、ノクスはひとり庭へ出た。濃紺色の寝間着の脇にはあの子が持っていた本が挟まっている。
眠れないから読書をしようと思い、結局最後まで読めずしまいだった本を手に取った。だがいざ読み始めようとした時、何かに誘われるようにして外に出てきてしまったのだ。
見上げた夜空に星は浮かんでいない。月すら見えない真っ暗な空を仰ぎながら、ノクスは無音のため息を吐いた。
(──貴女はどこにいるのだろうか)
同じ空の下、どこかで息をしているであろう彼女に、雨は降り注いでいないだろうか。光の音に怯え、独り頬を濡らしていたりしないだろうか。
もう婚約者でなくなった自分に、彼女を心配する権利はない。だが、自分ではない誰かが彼女の手に触れ、彼女の耳を塞ぎ、ぎゅうっと腕の中に閉じ込めるのを想像した時──とても耐えがたい気持ちになった。
この感情は、ローリエが彼女に触れていたのを見た時に抱いたものによく似ている。
ノクスは長い息を吐いて目を閉じた。
まぶしい笑顔の裏に隠されていた秘密を知った今、彼女と会って話がしたいという気持ちがより一層強くなった。
首都を出た彼女の行方を追い、もう一度逢うことが叶ったら、先ずは不甲斐ない婚約者だったことを詫び、それからどうして恋をしたい相手がノクスであるのか、その理由を訊ねたいと思う。
答えてくれるかは、分からないけれど。
ノクスは彼女が最後に植えた花のそばへ寄り、白い手を伸ばした。
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