第四節 月光の森

月光が編んだ金の糸が、木々の梢を静かに撫でていた。

 空に浮かぶ満月は、まるで森を導く灯火のように、淡く、優しく、地上を照らしている。


 「キレイな満月ですね」

 

 「えぇ、そうね……」


 「何か不思議な力を感じませんか?」


 「うん。そうだね……」


 アーヤはミラにそっけない受け答えしかできない。

 ミラとの満月の話しは、いまのアーヤにとっては少し重たい気持ちになるものだった。


 ーー紅い満月


 アーヤは夢の中のそれを思い出してしまう。

 森の奥へと続く道に歩みを進めながら、高鳴る鼓動を抑えるように何度も深く息を吸い込んだ。


 ミラはアーヤの気持ちを察したのか、少しバツの悪い感じで言った。


 「ほんとうに……ここが、“ルーナ・グローヴ”なんですね」


 湿り気を含んだ冷たい空気には、土と草……

 そして、いつもとは違う、特別な夜の香りが混じっていた。


 「……月光の森なんて、昔話でしか聞いたことなかったのに」


 「俺も実際に足を踏み入れるのは初めてだ」


 アーヤの言葉にグレイが低く応えた。

    

 「何がでてきてもおかしくないところだな」


 「えぇ、注意したほうがよさそうですね」


 グレイは、神殿に伝わる神の力が宿ると言われる聖剣の柄にそっと手を添えながら、警戒心を隠さずに森の奥を睨んでいる。


 神殿の巫女服の裾を押さえながら、ちょこちょこと小走りでついてくるミラは、その好奇心旺盛な性格のせいか、目を輝かせながら辺りを見回している。


 「ちょっと、これ見てくださいよぉ……ほらこの植物。夜なのにこんなに花が咲いている!」


 「ホントね。不思議だわ」


 「それは、夜光草。満月の夜にだけ咲くと言われる植物だ。花は薬草としても使われるらしいぞ」


 「へぇーー。さすが副長は物知りですね」


 「何かの本で読んだことがあるだけだ。本の受け売りだよ」


 「しかし、この森は静かすぎるわ。音がどこかに吸い込まれているよう……」


 アーヤは、二人の会話を気にしながらも、森の静けさに不安を感じていた。


 風の音、虫の声、葉のさざめき……

 すべてがどこかに集音されていくかのような感覚。

 

 辺りを照らす月の光と自分自身の鼓動だけが世界に残されたような、奇妙な錯覚に陥るのだった。


 「でも、怖くはないです」


 ミラがふわりと微笑んだ。


 「むしろ、あたたかい。見えない誰かが……ずっとここにいるみたいな」


 その瞬間だった。


 3人の後ろ側から、突然風が吹き抜けた。

 

 これまで静かだった木々の枝葉が音を立ててざわめく。


 (バサバサッ!)


 3人の視界の先にモヤのような白い塊が浮かび、森の奥、木々の間から、ひとすじの光がこちらを誘うように流れていた。


 「……見えるか?」


 「えぇ……」


 アーヤが頷くと、ミラもそっと彼女の腕を掴んだ。


 「……何?あれ……」


 すると、モヤのほうから何か囁きのような声が聞こえ、差し込む光の先にひとりの“少女”のような姿が現れた。


 「うふふ……あなたたち、森の夢を踏みに来たのね」


 その声は水音のようにクリアで、耳元に直接触れてくるようなミステリアスかつ不思議な響きを持っていた。


 「だれ?誰なの!?」


 アーヤは咄嗟に叫んだ。


 「気をつけろ。少し距離をとるんだ!」


 そういってグレイはアーヤとミラとの距離とった。


 「オレが前に出る!お前らは後ろに下がってろ!」


 「……副長」


 アーヤは声にならないまま、ただモヤを見つめていた。


 「アレ、浮いてるわ」


 枝葉を編んだような薄緑色の衣は、まるで森そのものがモヤの一部であるかのように自然で、ふわりと浮かび上がらせている。


 ーーとても神秘的だった

 

 はっきりとしない半透明の髪は、夜の霧のようにゆらゆらと揺れている。

 うっすらと見える瞳には、無数の星の輝きが閉じ込められているようで、瞬きをするたびに、微かな月の光と合わさって降り注いだ。


 「キレイ……妖…精?」


 ミラはその美しさに見惚れ、つい心の声が漏れてしまった。

 

 少女のようなモヤはふと首をかしげると、ゆるりとした笑みを浮かべた。


 「なにか、懐かしい匂いがするわ……静かに乾いた月の花の香り……それとも……焼いた栗の皮、かしら?」


 「……え?」


 ミラがぽかんとした顔で小声を漏らした。


 「え、いま……栗の皮って……?」


 グレイが半眼でそっとミラに「黙っておけ」と言いたげに目配せをするが、モヤはそのまま言葉を続けた。


 「あなた、面白い心をしてるのね。少し眺めさせて……。まるで、星の落し物みたい」


 それは奇妙で、美しくて、どこか少し可笑しい――

 まさに“月と森”が生んだ精霊リューネの名にふさわしい、最初の出会いだった。


気がつくとあたりが霧に包まれていた。

 幻想的な森は、金色の月光が銀色に輝く霧によって、より一層その雰囲気を漂わせていた。


 「真っ白だわ」


 「月の光がなかったら足元も見えやしない」


 「見て!アレ!」


 ミラが前方を指さして叫んだ。


 風が葉を揺らし、花が弾けたように小さな光がほころび、広がっていた霧がゆるやかに円を描くように渦巻いていく。


 「巻き上がっていく……」


 アーヤが小さく口を開いた瞬間、一瞬にして霧が晴れた。


 霧の中に、きらりと光る何かが、氷のように透き通った“結晶”のようなものが、宙に浮かんでいた。


 「……何?、あれ?……」


 ミラの声が震えていた。


 月光を吸い込んだそれは、まるで命を宿したかのように脈動しながら、甲高い音とともに結晶から光が飛び出した。

 

 結晶から飛び出した光は、アーヤたちの後方に勢いよく移動した。


 「ひと粒で五感が目覚める、森の極上スパイスよ〜。あれ?違ったかしら?」


 「!?」


 三人は後ろからきこえた声に反応して振り返る。

 そこには長い茶色の髪にキラキラ輝く瞳の、穏やかな雰囲気を纏った少女が立っていた。


 ーー月と森の精霊"リューネ"


 その姿は人のようでありながら、どこか儚げで現実離れしている。


 「だれ?」


 「さっきのモヤの人?」


 「油断するな!くるぞ!」


 三人は得体のしれない浮遊物を警戒した。

 さっきは薄れていたその姿が、今度ははっきりと見える。


 「わたしはリューネ。月と森の精霊。」


 「精霊だと!」


 「副長!ちょっと待って!」


 アーヤは今にも飛びかからんとするグレイを止めた。

 

 「悪い気は感じないわ。彼女には何か安らぎを感じる。少し様子をみましょう」


 リューネはくるりと宙で回りながら、手を振っている。


 「あなたを月の記憶に連れてゆくわ……たぶん。うん?……きっと。間違ってなければ……たぶん?」


 「何を言っるんだ?自分で言ってることがわからないのか?」


 グレイは少しイライラしながら小声で言った。


 リューネの衣は月光を織ったように光を反射し、揺れる髪からは淡い光の粒子がこぼれていた。


 「月の記憶……それって……」


 アーヤが声をかけると、精霊はくるりと一回転して微笑んだ。


 「うしろを振り返ってみて」


 リューネがアーヤにやさしく囁く。


 「後ろ?」


 アーヤがリューネに促され、後ろを振り返ると、さっきまで少し離れていた結晶が、アーヤのすぐ目の前まで迫っていた。


 アーヤの額へ結晶が触れた瞬間、視界が反転した。


 三人が見てる空間はまるで別世界だった。


*****


 目の前に広がるのは、記憶の断片。

 月光に照らされた神殿。風に揺れる衣。

 そして、ひとりの巫女が、封印の石の前で静かに歌を口ずさんでいた。


 「……まるで……あの壁画に似てる……」


 ミラが呟くように言った声は、これまで聞いたことのない響きでこだましていた。


 「壁画の祈り……“月が満ちゆく夜、封印が揺らぐ”……そんな一節があったような……」


 ミラは懸命に思い出そうとする。その横顔には、いつもと少し違う無垢な誠実さが浮かんでいた。


 巫女の唇が震え、声なき歌がアーヤの心に流れ込んでくる。


 (♫〜♪〜♫♪〜)


 どこか懐かしく聞き覚えのあるその旋律はアーヤの中に深く眠る記憶を呼び覚まそうとしている――


 「何か……何かが……誰なの……」


 アーヤは、温かさの中に優しさと強さを感じる旋律にそっと包まれた。


 (♪♪〜♫〜♪〜♫〜)


 アーヤの頬を冷たい涙が伝っていた。


*****


 「……ァ-ャ……アーヤ!」


 突然現実に戻された三人は、それぞれの生存を確認する。


 「みんな、大丈夫か?」


 「はい!……でもアーヤ様が!」


 「……わたし……わたし……わたしは…誰なの…」


 「アーヤ!しっかりしろ!」


 アーヤの肩にグレイの手がそっと触れた。


 「……副長……わたしは誰なんですか?」


 アーヤの問いは届かないまま、グレイは視線を森の奥へ向けた。

 その沈黙の奥には、確かな動揺があった。彼の瞳は何かを探すように揺れていた。


 「行こう。森の奥へ」


 グレイは何かを振り払うかのように言った。


 彼の言葉には、微かに翳りかげりがあった。

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