第三節 封印の書

ーー神殿の書庫ーー


 「ほら!こっちよ。気をつけて!」


 「アーヤ様、待ってください……」


 アーヤは急ぎ足で、神殿を出た右手にある、ひっそりと佇む書庫に向かう。


 「あったわ。この下ね。」


 アーヤが階段を数段降りたところで、ようやくミラが追いついてきた。


 「ミラ!階段よ、気をつけて!」


 地下に降りる階段を進むと、神殿の限られた人しか入ることのできない、鍵のかかった扉があった。


 「はぁ…はぁ……アーヤ様、これを……」


 ミラは、グレイから預かった古びた鍵をアーヤに手渡した。


 鍵穴に突っ込んだ鍵を、右に一回転半回したところで、扉は「カチャ」っという音がした。

 

 「……開いたわ」


 扉を開けると古から保管されている書物が並び、少しカビくさい本の香りが漂う。


 「いつから開けてないのかしら。埃がすごいわね」


 「なかなか入ることのできない部屋で、ちょっと緊張します」


 ミラは自分の緊張を紛らすため小声で言った。


 「……神殿は広いけど、ここだけ空気が違うみたいだわ」


 アーヤも緊張気味で返す。


 アーヤとミラは一歩ずつゆっくりと、書棚へと近づいた。


 「かなり埃っぽい……」


 「誰も入ってないんですかね」


 「この中に"封印"に関するヒントがあるかもしれない」


 長年触れられていない書物の背表紙は、薄く埃が積もり、時の流れを物語っている。


 ミラは眉を寄せてアーヤを見た。


 「……封印の件ですけど、やっぱり……ただの揺らぎじゃないんですかね?」


 アーヤはわずかに頷く。


 「“何か”が動いてるのは間違いないわ。封印の綻びは偶然じゃない……。それに、夢で見たことも気になってるの」


 「……夢って、あの……魔王の?」


 アーヤは黙って目を伏せた。


 あの夜、赤く染まった空と碧い瞳をした男……


 あれがただの夢だと言い聞かせるには、あまりにも鮮明で、あまりにも現実的だった。


 (夢の中で見たあの瞳……言葉……。それは、私の中の何かを呼び覚まそうとしていた)


 「とにかく、“紅い月”や“封印”に関する文献を探してみましょう」


 「はい」


 「ミラはそっちを探して、わたしはこっちを探すわ」


 アーヤは気を取り直し、指先で古びた書の背を撫でるように辿った。


 ミラもそれに倣い、棚の反対側へと移動して本を探し始める。


 二人の歩く音だけが響く静寂な時間。


 だがその沈黙は、やがて一冊の本の存在によって、破られることとなる。


 「……アーヤ様、これ……見てください」


 ミラの声が、わずかに震えていた。


 手にしていたのは、革張りの重厚な書物。装丁には刻まれたアルディナ紋章の下に、かすれた金文字で何か書かれている。


 アーヤはミラから本を受け取ると、金文字のほこりを手でかるくはたいた。


 《ー封印の書ー》


 「これは……」


 「アーヤ様、開いてみてください」


 アーヤがミラに促され、そっとページを開いた瞬間、彼女の中で、何かが軋むように揺れた。


 (ーートクンーー)


 アーヤの心臓が鳴る。


 それはまるで、長く閉ざされていた“記憶の扉”が、いま静かに開き始めた合図のようだった。


 「あの碧い瞳の男が魔王だとしたら、何かそれにつながる手がかりがあるはず……」


 アーヤがそっとページをめくるたびに、乾いた紙の音が微かに響く。


 「情報がありすぎて、しかも古代語って……」


 その本の文字はすべて古代語で記され、一見すると意味が取りづらい。


 「ちょっと時間かかりますかね……」


 「そうね、古代語はちょっと……」


 アーヤは、持っている能力を駆使しながらも、どこかで見覚えがあるような、不思議な既視感が頭の中に広がっていた。


 「これは!?」


 華奢で繊細な彼女の指が、一つの文に止まる。


 《紅月……現れし…時……封ぜられし者……目覚めん》


 「“封ぜられし者”……って、まさか……」


 ミラが小さく声を漏らす。


 アーヤはだまって唇を噛みしめながらページをめくり続ける。


 その先には、封印に使われた“神の力”と、儀式と思われる構図、さらには魔族の王に関する記述が続いていた。


 「神は、紅月の魔王を星鎖にて縛め、永き眠りへと追いやれり」


 「これって……」


 そこに描かれた絵は、神殿の奥にある封印の間そのものだった。


 しかしアーヤはひとつの文章に注目したあと、落胆したかのような声で言った。


 「この“封印”……完全なものじゃなかったみたい」


 「どういうことですか?」


 「ここに書かれてる。“封印の術は完全ではない。紅月の力が満ちるとき、封ぜられし者は再び目覚めるだろう”……」


 ミラは少し間をおいて、アーヤの言葉を飲み込んだ。そして驚きとともに息をのむ。


 「じゃあ、あの震えも、封印の綻びじゃなくて――目覚めの兆し……?」


 アーヤはゆっくり頷いた。


 「きっとそうだと思うわ。何かが目覚めようとしているんだわ。そんな気がするの。」


 アーヤの胸はざわめきでいっぱいになった。自分が見た夢、あの紅い月と碧い瞳――すべてが繋がり始めている。


 読み進めた先には、古びた図案が描かれていた。

 それは円環を中心に、印が刻まれた六芒星。そして、中央には一つの名が、ぼんやりと薄れて読み取れない文字で刻まれている。


 「この中央の名……カ…ザ……?」


 アーヤは無意識にその名に触れそうになった瞬間、ページがふいに風もないのに捲られ、バサリと最後のページが開かれる。


 そこには、真っ赤な文字で、こう記されていた。


 《鍵は“契り”にあり》


 「……“契り”?」


 その言葉が、アーヤの奥にある記憶を呼び覚ます鍵なのかもしれない。

 アーヤはふとそう感じた。


アーヤの頭から「契り」という言葉がはなれない。そして、思考の海に沈み、暗く深いところから抜け出せずにいるような感覚にとらわれていた。


 焦点があっていないような視界がふわりと揺れ、意識の奥底に沈んでいた記憶が、サイダーの泡のように浮かび上がってくる。


*****


 ……どこか……遠く……光も届かない深い闇の中。

 けれど、その闇の中には、わずかな温もりを感じる。


 誰かが自分の名を呼ぶ声。

 低く、優しく、心の奥に直接語りかけてくるような…


 『……我が名を忘れても、我は忘れぬ。』


 紅い月が、空いっぱいに満ちていた。

 そしてその月の下、碧い瞳の男が、アーヤの前に立っていた。


 彼の姿はボヤけて曖昧だった。だがその目だけは、鋭く、深く、まるでアーヤの魂の奥を見つめるように銀色に光っていた。


 『そなたが選んだ道は……我を封ずるための“契り”』


 『だが、そなたの心が、そなたの愛が……我を、閉じ込めてはおけぬ』


 アーヤの手が、彼の手に重ねられる。

その手は大きく、そして温かく、どこか哀しみに濡れていた。


 『いずれ時は巡る。紅月の下、再び巡り合う時……』


 『我らの契りは、運命にさえ抗う。』


*****


 「はっ……!?」


 アーヤははっと息を呑んで目を見開いた。


 ミラが心配そうに覗き込んでいた。


 「アーヤ様、大丈夫ですか?」


 「……ええ、ごめんなさい。少し……記憶が」


 自分でも信じられなかった。

今のは夢?幻? それとも、封印とともに眠っていた過去の記憶……?


 アーヤは胸のあたりをそっと押さえた。まだ、その声の温もりが残っている気がした。


 ミラがそっと言う。


 「“契り”って、もしかして……封印の儀式と、関係があるんでしょうか?」


 アーヤは答えず、代わりに視線を封印の書に戻した。


 書かれているのは


 「紅月のもと、封ぜられし者は再び目覚める」


 そして、契り。


 何かがつながりかけている。

 けれどそれはまだ、深い霧の向こう側だった。


 すると、その静けさを破るように、重い足音が書庫の階段を下りてきた。


 「……見つけたか、《封印の書》を」


 現れたのは、グレイだった。


 「……副長。これは……ただの封印じゃないわ。夢で見たこととも重なってるの。」


 アーヤの言葉に、グレイはしばらく黙って書を見つめていた 

 そして、低くつぶやく。


 「やはり、“時”が近づいているのか……」


 「何か知っているんですか!知っているなら教えてください!」


 アーヤが興奮した様子で鋭く問うと、グレイは目を細め、しばらくの沈黙のあとに静かに口を開いた。


 「神殿の外れに、“月光の森(ルーナ・グローヴ)”と呼ばれる地がある。かつて封印の補助に使われた聖域……その森の中心に、“鍵”の眠る場所があると伝えられている」


 「…鍵……」


 「君が見たその夢。そして“契り”という言葉。おそらく、すべてはそこに通じている」


 グレイの言葉には、確信と、そして何かを恐れるような気配が混じっていた。


 「……行ってみるわ。そこに真実があるのなら」


 アーヤの目に、迷いはなかった。


 その瞳の奥で、碧い輝きがわずかに揺れた。

 まるで、誰かの記憶を映し返すかのように。

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