第2話 残業代3,650円

 ―― 閉店後の清掃と締めが終わったら店長室に来て。

 今居は、店長からの申し渡しのせいで、この日全く集中できなかった。加工途中の本の山を崩してしまったり、買取不可本を買い取ってしまったり、接客用のマニュアルトークをかみまくったり、とにかく凡ミスの限りを尽くしまくった。深刻なものはなかったので助かったが、あまりの惨状にバイトリーダーからは注意されるどころか励まされた。情けないことこの上ない。底抜けに気は重いのだが、早く真相を明かして欲しくてたまらなかった。閉店がこんなに待ち遠しいと思ったことはない。


 深夜、じりじりしながら閉店作業を終えた今居は、挨拶もそこそこに猛然とバックヤードへダッシュした。ユニフォームのエプロンもそのままに、彼は脇目も降らず店長室を目指す。狭い店なので到着まで五秒足らず。部屋前へ滑り込んだ勢いのまま高速ノックを繰り出せば、中から頓狂な声が上がった。

「ふぉえあああ! なんやなんや借金取りか?すんませんボク色男なんでお金ないですううう!」

「今居です! 入っていいですか!」

「えーどーしよっかなあーウフフ! て、いやいやいや、言うとる間に入っとる入っとるよマイマイ! ボクがお着換え中やったらどないすんねんコラッ! 待て待て待て、確かに呼んだけど! 呼んだけどやな! 少しはみんなとキャッキャしてきてもええねんで! 若いんやからスマホチェックとかもあるやん! ボクなんて、五分に一回はスマホチラチラ……」

「お話ってなんですか」

「やだもう聞いてへん、全然聞いてへんこの子! はあ、ちょっと待ち。そこ座って深呼吸三回や」

 伏見は呆れ顔で今居に言い聞かせたかと思うと、さっさと背を向けてパソコンに向かった。事務作業の途中だったのだろう、しばらくすると店長室へキーボードを叩く音とマウスのクリック音が響きだした。

 一方、今居はすぐに本題へ入ってもらえないことが至極不満げだった。こんな時に深呼吸なんてする余裕はないのだが、これを突っぱねて最悪の結果になっては困る。


 ――そう、解雇という世界から見放されるような


 神妙な面持ちでこっそり深呼吸をしている今居を背に、伏見は手を動かしながらそっと微笑んだ。

「マイマイ、何年目やっけ」

「七年目です」

「もうそないに経つんか、早いなあ」

「そうですね」

「ちゃんと食うとるか?家賃とか払えとる?ここ最低賃金スタートやから、昇格してもしんどいやろ」

「大丈夫です」

「昼間のもっと割のええところで正社員やったらどや」

 その時、淡々と投げ返されていた今居の返答が乱れた。静止する気配。しばしの沈黙。伏見は黄ばんだキーボードに視線を落としたまま、彼の返答を待っている。

「大丈夫、です」

 それは小さな声だったが、決して迷いを隠している揺れたものではなかった。むしろ、縋りつくようでもあった。

「俺、辞めさせられるんですか」

 振り返った伏見に、今居は表情もなく続けた。

「終わりですか」

「今居君」

「―― 今度こそ」

 伏見は言葉もなく今居を見つめる。単なるアルバイトの話だ、時給1,533円、どこにでもある夜間バイト。だというのに、二人の空気は驚くほどに緊張していた。

 やがて、伏見が閉ざしていた口を開こうとした時だった。突然、扉の向こうから元気のいい聞きなれた声が投げかけられた。

「店長ー! みんな帰りまーす! お疲れさまでしたー! あ、今居君も!」

 止まっていた時間が動き始めた気分だった。二人はいつの間にか詰めていた息を吸い込み、慌ててそれに返す。

「はい! お疲れ様です!」

「お、おお! 気ぃつけてな! 男子は駅まで女子送ったりよ! 明日もよろしく、お疲れサンターアンダギー!」

「店長それサーターアンダギーじゃないの?」

「男子女子ウケる! 学校か! ばいばーい」

「あんまり今居君叱ったらだめですよ、頑張ってるんですから! おつかれしたー」

 陽気な笑い声が遠ざかって行き、通用口の閉まる音でふつりと消えた。伏見は呆けた顔で扉を眺めた後、どこか気の抜けた声を漏らした。

「そおか……サーターアンダギーか……」

「ふぐっ」

 くぐもった声に視線を移せば、今居が拳を口に当てて肩を揺らしている。このハプニングで肩の力が抜けたようだ。伏見は一度俯き、うん、うん、と何かを確かめるように頷いた後、床を踏み鳴らし勢いをつけて席を立った。

「そなわけないやん」

 ファイルで軽く今居の頭を叩く。驚いて見上げてきた彼へ、伏見は穏やかに笑った。

「さっきの話や。ボクはあの日マイマイを「拾た」責任がある。大丈夫や言うなら働いたらええやんか。さっきのは、ちょっと確かめただけやて」

「あ……ありがとう、ございます」

 伏見はパイプ椅子を引き寄せ、今居と長机を挟んで向かい合わせに座った。

「―― とは言うても」

「は?」

「マイマイの返答次第ではそうもいかへん」

「ちょ、ちょっと」

「まあ聞き、話はそれからや」

 伏見は近くに置いてあった黒いファイルを手に取り、静かに話を切り出した。

「これから『今居君』に契約変更のご相談があります」

 本題だ。それも恐らくかなり深刻な。今居は姿勢を正す。伏見は続けた。

「まず言うておきますけど、これはあくまで『相談』であって、決定事項ではありません。今居君が決めたことなら、今すぐにでも返答は可能です。そこまではええ?」

「はい」

 よし。伏見はひとつ頷き、今居の前に指を三本立てて見せた。

「今居君は、三つの選択ができます。相談を受け入れて新しい契約をするか、拒否して今の契約で働くか、ここを辞めるか。なお、仮に拒否したとしても、それによって今後君の給与が下がったり、待遇が悪くなり働き辛くなるようなことは一切ありません。そのように感じられた時は、エリアマネージャーか、本社のハラスメント窓口へ通報してください」

 よくある三択と諸注意。しかし今居にとっては実質二択でしかない。悩む素振りもなく即座に言葉を返した。

「受け入れるかどうかは、内容によります。でも辞める選択はありません」

「そうですね、さっきも聞きましたし。ほな三つめはなしで」

 今居の強い意志を聞いても、伏見は表情を変えずファイルに何かを書き付けている。いつもなら茶化したり大げさに褒めたりしてくるのに、ひどく素っ気ない。

 事務的に話を進めたいのだろうか、それとも、この『契約変更』が彼にとって不満なのか ―― なんにせよ、話を聞かなければ。今居が落ち着かなく組んだ手を揺らしていると、伏見がファイルから顔を上げた。

「今居君は現在アルバイトでは上から二番目のグレードでサブリーダー、担当は書籍、メイン作業は加工と品出し、十七時から二十四時までの夜シフトで間違いないですか」

「そうです」

「新しい契約では、現在のグレードから三段階降格、『ホープ』からのスタートになります」

「ホープって……採用されたばかりの新人じゃないですか」

 今居は愕然とした。

 BOOKS101は勤続年数や能力などに沿って六段階に等級が分かれている。アルバイトだと、新人が属する『ホープ』からスタートし、スタッフを取りまとめる主任の権限がある『リーダー』が上限だ。そこから先は伏見のように正社員の領域となる。

 アルバイトは長期間働く者が少ない中、今居はかれこれ七年も働いている。自分の担当部署以外の仕事も問題なくできる。今や彼は新人教育をする方の立場なのだ。今更何を学べというのだろうか。

 それとも、やはり自分でも知らないうちに何か問題を起こしたか?戸惑う今居を、伏見は更に混乱させていく。

「シフトは午前一時から五時までの深夜です」

「はああああ? し、深夜⁉ 」

「今話せるのはそこまでです」

「終わった!」

「どうしますか」

「どうもこうも!」

 今居はついに机を叩いた。社会人のマナーだのなんだの構ってられなかった。何から何まで意味がわからない。

「情報量少なすぎます、説明してください。大体うちに深夜なんてないじゃないですか、現にもう施錠してレジ締め作業して店内真っ暗ですよ。もしかしてこれからこの店二十四時間営業にでもなるんですか?それでも俺がホープ降格なのは納得できません」

「自分の技量にプライドを持つのはいいことです」

「話を逸らさないでください。これで決めろって言う方が無茶な話だって言ってるんです!」

「では契約変更はしないということで」

「説明! してください! と! 言って! ます!」

 今居が目一杯机に身を乗り出せば、伏見はゆったり身を引いて椅子に体を預ける。パイプ椅子が、低く鈍い音を立てた。静かな室内に、近くの幹線道路を走る救急車両のサイレンが、不吉な響きを残して消えていった。

 ふざけた新契約を拒否するのは簡単だ。今居は机の上で拳を握りしめる。こんな滅茶苦茶な状況にあっても彼がそれをしないのは、相手が他ならぬ伏見だからだ。

 伏見は悪ふざけの好きな男だが、仕事に対しては真摯で人の和を重んじている。特にスタッフには気を配り、的確な指示やフォローをしてくれる頼もしい店長なのだ。 

 彼に限って、今居の契約を玩具にして楽しんでいるとは思えない。きっと何かやむにやまれぬ理由があるはず、と思うのは深読みが過ぎるだろうか。

 諸事情で、今居にとって伏見は何かと恩のある男だ。今、自分が問題解決の力になれるのなら、いくらだって無理も聞くし、協力だってしようというものである。なのに何故、伏見は打ち明けてくれないのだろう。それが今居には悔しくてならないのだ。やり場のない思いを、古ぼけた長机の傷を睨みつける事で堪えた。

「だってえ」

 不意にぐにゃりとした声が向かい側から零れる。思わず今居が顔を上げた先、伏見はファイルで肩を叩きながら溜息をついた。

「それ以上は言うたらあかーん、て、言われとんのやもの」

「は……?」

「上の上……とにかくえらい人からあ」

 伏見が指差した先をなんとなく追ってしまうが、そこには煤けた天井と端の黒ずんだ蛍光灯があるだけ。

 えらいひと ―― マネージャーとか、統括とか、支社長?会ったこともない雲の上の人間だ。そんな人が、この小さな支店にいるただのアルバイトに、一体何をさせようと言うのだろうか。答えの出ない疑問が、今居の頭に飽和していた。

「断った方がええ」

「……店長」

「人生、普通が一番!」

 伏見は膝の上へ立てたファイルに顎を乗せ、笑っている。さっきまでの真面目な表情はどこへやら、すっかりいつもの軽薄な表情だ。今居は眉を寄せる。

 言えばいいじゃないか。たった一言。もう少し残業して欲しい時のように、一日多く出勤して欲しい時のように ―― 初めて出会った時のように。たった一言。


 ―― ちょっと手伝ってくれへんかなあ

 ―― ちょっとだけなら


 脳裏に、あの日の会話が蘇って、霧散する。今居は大きく息を吸い込み、引き結んでいた口を開いた。

「俺、できません」

「ん、そか」

 納得いく結論だったのだろう。伏美は何度か頷く。が、今居は彼が何か言おうとする前に、間髪入れず言葉を続けた。

「今の時給のままじゃ安すぎるんで」

「ほあ?」

「昇給するならやります」

「うそん! マイマイ唐突な金の亡者化⁉ どないしよめちゃショック!」

「深夜なら1,600円くらいですか?あ、でも新入り扱いですから1,550円くらいですかね……」

「案外堅実やった! 妥当な金額設定やあああ!」

「1円でも上げてくれて、店長が一言くれたら、やります」

「ひとこと」

 伏美は細い目を軽く見開く。今居は俯いていた顔を少し上げ、長い前髪の隙間からちらりと視線を送った。

「『力を貸してくださいお願いします』って」

 上司へ要求するには勇気のいるセリフ。しかし今居は臆することなく待つ。目の前にいる信頼すべき男の返答を。

「……っは!」

 突然、伏見は深く俯き短く声を発す。彼は戸惑う今居の前で小気味良く手を叩き、口の橋を吊り上げた。今居が初めて見る、どこか荒々しさを滲ませた笑みだった。

「この頭一つで一寸先の闇に飛び込むか!ただのバイトが、何も持たん人間が、後先考えんド阿呆が!ええやろ、こっちもハラくくったろやないか!承知、承知、委細悉く承知!後悔すなよ、ボクのお願いはたっかいでえ!」

 朗々とまくし立てた伏美は勢いよく立ち上がったかと思うと、机に両手を叩きつけた。派手な音と共に、黒いファイルが床へ落下していく。やがてそれが床へ辿り着いた時、彼は戸惑う今居に深々と頭を下げた。

「力を貸してください、お願いします!」

「あ……」

 一言一句違わぬ、今居が口にしたセリフだった。まさか本当にそのまま言うなんて思わなかった。今居は驚きを隠せない。

 その一方で、伏見の『お願い』に落胆を感じてしまっている自分もいる。確かにそう言えと言ったのは自分だが、自分はもっと違う ―― 返答をためらう今居の耳に先程より幾分柔らかな声が滑り込んできた。

「ちょっと手伝ってくれへんかなあ」

 上目遣いに覗き込んでくる伏見は、初めて出会った時と同じ笑顔。それだ、それが聞きたかったのだ。覚えてくれていた。今居は短い沈黙の後、わざとらしく溜息をついて見せた。

「ちょっとだけなら」

 これも、あの日と同じ。伏見は高らかに笑い、今居の頭を乱暴に撫でた。

「ほんっま、ええ子やなあマイマイは!」

「やめてくださいよいい大人に恥ずかしい」

 照れ隠しに手を払いのける今居を懐かしそうに眺め、伏見は腕を組んだ。

「ほな契約変更でええ?」

「はい」

「それにあたって」

「はい」

「君にはお店辞めてもらうから」

「はああああ⁉」

「あと」

「ちょ、ちょっと! なにさらっと流してるんですか! さっきの大事なことですよ!」

「君の時給な」

「話す順番おかしいでしょ⁉ 辞めるのに時給⁉ 1,533円が一気に 0 ――」

「1,800円からスタートね」

「ジャンプアップうううう!」

「しかもスタートでっせお兄さん~、頑張りさえすりゃガッポガポの札束風呂! 成果を出せば幹部も夢じゃおまへんで! 儲かりまっかバチバチでんな! アットホームな職場ですう~!」

「うさんくさあああああ! 絶対関わっちゃいけないタイプのやつううう!」

 二人の間に少し前までの張り詰めた空気など欠片もなかった。むしろ、どこか解放されたような安堵感が滲んでいた。

 賑やかに言葉が行き交う店長室の床に、黒いファイルがぽつんと横たわっている。開いたままのページには、ビニールポケットに乱雑な字の並んだ今居の履歴書が入っていた。

 履歴書に貼られた写真は、今の彼より少しあどけない。その横には、太い線で四角に囲われた判が押してあった。


『無能採用』


 鮮やかな朱色のそれは、わずかに光を放っているように見えた。

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