深夜アルバイト時給1,800円 なお勤務先は
かららん
第1話 時給1,533円
夏が重い腰を上げようとしていた。帰宅時間の人通りに逆らいながら、Tシャツにジーンズ姿の青年がゆっくりと歩いていく。気温はまだまだ半袖推奨だが、気が付けば日の暮れが早くなっていることに気付く。顔を上げれば『
BOOKS101は、どこにでもある、ありふれた新古書店である。屋号は『
古書店と聞けば、薄暗い店舗、難解で価値の高い山積みの本、静かな店主が奥から目を光らせている。というようなイメージをする人もまだいるかもしれない。しかし、新古書店はそれらと対極にある。基本的に書籍の状態によって査定が行われ、買取価格もチェーン全店共通。また、店内は明るく清潔に保たれ、新刊書店と間違われることもあるほどだ。
遠目にも目立つ原色の看板が、更に藍の濃くなった空を背負っている。青年にとっては何年も見てきた、月を背に佇むいつもの光景 ―― と、思ったのだが、今夜は違った。ささやかな異変を見つけた青年は、わずかに顎を引く。スポット照明の左から四番目が切れていた。
「店長に言っとこ」
独り言を秋風に残し、青年は店舗脇の『関係者以外立ち入り禁止』とプレートがついた扉に入っていった。この『BOOKS101 尾花店』は彼のアルバイト先であり、同時に、この世でたった一つの居場所だ。
「お疲れ様でーす」
扉の向こうは店舗のバックヤードとつながっている。本の加工や清掃を行うエリアになっているため、常にスタッフが何人か作業をしているのだが、人手が足りないのか皆売り場へ出払っているようだ。いつも加工機械音で活気に満ちている空間はひっそりとしており、店内用BGMだけが天井と本棚の間から零れ落ちていた。
「まいどまいど、
薄暗いバックヤードの静寂が軽薄に破られた。奥のスタッフルームへ向かおうとした足を止め、今居と呼びかけられた青年は振り返る。その先には、店長室のドアから黒いエプロン姿の男が顔を覗かせていた。柳の葉のような細い目を更に細め、ゴキゲンに微笑むのは店長の
「まいどです」
「ノッてくれて嬉しっ! マイマイはええ子やねえ、今夜もお仕事シクヨロちゃん! あっ、シクヨロって知っとる?知らんかあ、ややわあボク歳バレるやん~ンッフフ!」
「バレるどころか、絶対言わないじゃないですか店長」
「それは、ほれ、個人情報やからな。スリーサイズなら」
「いいんですか」
「や、セクハラやからアカンよ」
「でしょうね」
「かんにんなあ、マイマイ。いくら勤続七年の古参スタッフでも、その頼みだけは聞けへんねんかあ。そな食いつかへんの、あんま困らせんといてえ」
「やめてください。俺が店長のスリーサイズを執拗に知りたがった挙句、さも残念がってる方向に話を捻じ曲げないでください」
慣れた様子で淡々とツッコミを入れる今居を、伏見は甲高く笑った。行儀悪く指までさして。普通の人なら気分を悪くするところだが、この人はどうにも憎めない。今居は大きく息を吐き、少し長めの前髪を乱暴にかき上げた。
伏見はオープン時から尾花店の店長として、日々の営業を取り仕切っている。こんなちゃらんぽらんな言動に反して、仕事は早く接客も丁寧。「黙っていると美形」とスタッフに評される容姿もあって、客の評価も上々だ。
ただ、このゆるだら敏腕店長には謎が多い。本が好き、という以外、出身地、学歴、家族構成、生年月日すら店の誰も知らない。特に年齢。会話の断片をつなぎ合わせた結果、今居よりかなり年上だろうということはわかったが(それも今居の推理でしかないが)、明るい茶色の髪やシワ一つない肌のせいか、ともすれば同年代にも見える。十年以上勤めているスタッフが言うには、入店当時からビジュアルに変化がないのだという。アンチエイジングにも程があると思う。
ちなみに、今まで好奇心に駆られた何人ものスタッフが、直球、または変化球で伏見の真実を探ってきた。しかしながらこの男、「ややわあ。十歳超えたら年齢なんて数えんのやでえ」だの「男はな、いつだって十代やねんて……」だの「ボクが産まれた時に丁度ビッグバンが起きてんなあ、懐かしなあ、あの大爆発」だのとまともに答えやしなかった。そのせいで、新人以外店長の年齢に全く触れなくなった。
今居が最後にそれを尋ねたのは、数か月前の親睦会だった。会話が途切れた沈黙を埋めるつもりで伏見に質問してみたのだ。すると案の定、焼酎を大ジョッキへだぶだぶ注ぎながら「永遠の十七歳やで」なんて、偉そうに言い放つものだから「十代なら飲酒禁止ですよ」とジョッキを奪ってやった。伏見は空っぽになった手をしばらく眺めていたが、わざとらしくきょろきょろ辺りを見回し、今居へ囁いた。
「しゃあないなあ、誰にも言わんといてや……実はボク3594歳やねん」
無言で見合わせたのは、食えない笑顔と、眉を寄せた苦い顔。無論、今居は後者だ。
「店長、三国志(3594)好きでしょ」
「好きいうかあ、昔観戦ツアー行ったから懐かしいねん。ほら、ようあるやん。そな興味なかったアーティストでも、ライブに行ったらなんや応援してまうカンジ!」
「興味ないアーティストのライブになんて行きませんよお金もったいない」
「あー! あーあ! あーかーんーでー! せやからイマイマイはCD並べる時、どっちがアーティスト名や言うてモタつくんやでえ。本ばっか読んでたらあかんで!この世は君の知らんことばっかりなんやから!」
「もっともらしいお説教でごまかされませんよ。人の苗字を回文にしないでください」
「ほんまやな! 上から読んでも下から読んでもイマイマイマイマイ! おもろ!」
増えてるじゃないか。そして面白くない。酔いの回り始めた頭に、伏見の陽気な笑い声がうるさかった。結局真相は藪の中だった。
「ほな今日もおきばりやす~」
軽くからかって気が済んだのか、伏見は手を振って店長室へ顔を引っ込める。ようやく解放された。今居がそっと息を吐いた時、閉まりかけた店長室の扉がふと止まった。
「『今居君』仕事終わった後、時間ある?」
今居の表情がわずか緊張する。普段スタッフをふざけたあだ名でしか呼ばない伏見が正しく名前を呼ぶ時、それはほとんどの場合が良い話ではないからだ。
考えられる限りの『良くない話』といえば、急なシフト変更、深刻なミス、問題ある勤務態度、名指しのクレーム、犯罪行為の発覚 ―― 解雇。
犯罪だけは絶対ないと自信を持って言えるが、考えるだけで心臓を軽く絞られる感覚がした。
「あります」
少し乾いた喉から声を押し出す。伏見の表情は、彼のいる場所から窺えない。ただ、店長室から零れる明かりを舐めるように伸びた影が、ゆらりと揺れた。
「閉店後の清掃と締めが終わったら店長室に来て。少し長めに仕事の話するから、退勤は切らんでええよ」
指示だけを残し、今度こそ店長室の扉が完全に閉ざされた。バックヤードが暗転し、再び静寂に包まれる。数分前出勤した時と同じ空間なのに、今はより暗く感じられた。
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