3(回想・作曲家ツキジについて)

 作曲は高校時代、入学祝いに買ってもらったパソコンに搭載されていた楽曲制作ソフトから始まる。そこから実に20年以上、機材や音源を変えたり増やしたりしながら楽曲制作を続けている。国内大手動画サイトが立ち上がると同時に『ツキジ』という名義で当時流行っていた同人ゲームのリミックスを流してみたり、あるいは自分で編曲したもの、作詞とボーカルだけ友人に頼んだ曲などをあげるようになった。デジタルアイドルとして象徴化されていく合成音声ソフトの人気が出始めると、それ用のポップ・ミュージックも作るようになった。俗に言うボカロPというやつである。

 ボカロPとしての活動では、知人ツテで国文科で現代詩作を研究している院生に歌詞製作を頼んだものなどで、専門学校在籍中に制作した数曲は1ヶ月で100万再生を越えた。その曲達は歌い手と呼ばれる歌唱特化のアカウントによるカバー動画を含めれば累計で10億再生は達しているのではないだろうか。

 そして就職活動においては、こうしたヒット曲たちをブラッシュアップしたものをポートフォリオに収めて作曲家の所属事務所にエントリーした。結果、数社から内定が掛かり、東京に本社を置く一社を選んだ。

 実家の子供部屋で音楽づくりを続けるより、東京に出たかったのだ。

 それから約10年間、平均睡眠時間2時間で毎日いろんな曲を作っては、大手事務所のアイドルや声優の楽曲提供コンペに応募し、100回の応募で1回選出されるくらいの頻度で作編曲家としてのキャリアを築き上げてきた。

 ツキジというボカロP時代から使い続けている名前の知名度もオタク界隈ではそれなりに評価され続けていた。

 業界内でもそこそこ売れ始めて、アニメのオープニング・エンディング曲の楽曲提供なども年に1度程度の頻度で請け負うようになってくると、今度はSNSを中心に悪名も広まり始めた。

 コメント付き動画などでは自分の楽曲に対して、『ツキジは若手声優を食っている』『ツキジ中出し市場』などというコメントがよく流れるようになったし、もちろんこれを『事実無根やめ』など否定してくれる楽曲ファンもいた。

 だが本人としては悪名は無名に勝ると思っていたし、酷い冗談として仕事仲間と笑いあっていた。

 実際、そんなことなどありえなかった。まず、太陽にはこの年まで恋愛経験がなかったし、興味もなかった。いわゆる性欲も感じたことがないのだ。試しにいわゆる自慰行為をしたこともあったが、感想としては創作意欲の減退を感じる程度で、さほど気持ちいいとも思わなかった。

 だがそれ以上に、時間的に体力的にそんなことをしている余裕がなかった、というのもあるかもしれない。

 その頃の太陽は、3日に1度4時間眠れればよく寝た方、というほど忙しい暮らしをしていた。食事も大抵は総合栄養食品とパッケージされているような防災用非常食に近い食感のものを頬張りながら防音処理されたマンションの部屋で機材とモニターに向き合い曲を作る日々だ。

 またゴシップの相手として自然発火の山火事的な炎上を被っている若手声優側も、たまたま作曲編曲の仕事が続くというだけで、お互いちゃんと睡眠時間が取れているか心配になるほど忙しく働いている人だ。当然事務所も売出中の金の卵を生む鶏のようなものだから、収録ブースを一歩出るとマネージャーが常にびったりとそばについている。

 一方で、たまに来るアイドルキャラクターの音楽ゲームの楽曲仕事で、比較的忙しさの安定している雰囲気の声優さんのレコーディングに立ち会うようなときでも、その後流れで食事会などで話を聞く限りは、公にしていないだけで特定の交際相手が居たりする。

 そういう人たちの、真剣な交際の弾除けになるのなら、自分のネット上での実在しない浮名など安いものだった。

 そういう感覚で30近くまで馬車馬のように働き続けたある日、突然に馬車馬としてのが折れた。

 ……最初は、実家からの電話だった。

 母がステージ3のガンだと診断されたというのだ。その知らせを聞いた時は収録立ち会いの仕事を無理を言ってキャンセルして母の病室まで様子を見に行った。

 母はまだ笑顔を見せる余裕がある程度には元気だった。だが、父の話を聞くには、他臓器への軽度の転移が認められるほどに悪化しており、場合によっては余命は短いかもしれないという話だった。

 幸い、この時点で太陽自身は働き盛りである一方で遊ぶ暇はないかったため、経済的余裕は大いにあった。

 太陽は息子として、母親に保険適用外の最先端医療を勧めたが、母はこれを断った。

 そして「音楽なんて安定しない仕事してるんだから、将来のための備えに使いなさい」と言われた。

 この言葉を受けて、せめて両親の老後を支える経済的基盤を作るくらいのつもりで、地元の柏原台にある大手冷凍食品の加工工場の近くの老朽化した空き家を数軒まとめて買い、更地にしてアパートを建てた。これは両親の老後を支えるためというつもりだった。

 音楽家という職業上、ローンは組めない。その時の貯蓄の大半と過去のヒット曲の印税収入の権利を担保にして、どうにか1年半で建築にこぎつけた。

 大きな労働地区のそばの新築アパートということですぐに部屋は埋まったし、仮に空いたとしても翌月には新しい入居者が入った。

 むろん、この間も太陽は東京の売出中の若手作編曲家として仕事を続けていた。それでもどうにか月に1度は2,3時間帰省できる日をつくって、母の見舞いに通っていた。

 母は、会うたびに痩せていた。抗がん剤治療の影響が出ていた頃はすでにウィッグも作っていて、いわゆる髪の薄い姿というものを見ることはなかった。

「ちゃんと食べてる?」

 と聞くと、

「あんたこそ、ちゃんと寝てるの?」

 と言い返されて、苦笑いするしかなかった。

 そうして、アパートが建って1年足らずで、母は他臓器ガンで亡くなった。

 喪失感は大きかった。だが奇妙なもので、まるで心が乖離したようにそんな精神状態でも明るいキラキラしたノれるアイドルソングは作ることができた。

 ただ、一方で食事は固形の完全栄養食を胃が受け付けなくなった。やむをえず、ゼリーパック型の流動食とエナジードリンクに切り替えた。レコーディング後の食事会も、肉や油分の多いドレッシングのサラダは受け付けず、カロリーのある日本酒やワインとジュースばかり飲んでいた。

 仕事がない時は酒を多く飲むようになっていた。そうしなければ、母の死を思い出して悲しくなるからだ。

 そんな生活を続けて1年足らずで、今度は自分が倒れた。ちょうど30の誕生日の半月後だった。

 大手レコード会社のアニメ音楽部門の合同スタジアムライブのリハーサル中、心臓発作を起こしたのだ。

 まるで長距離走の後のように心臓が騒がしく感じるほどうるさくなり、胸が痛くなり、鼓動がまるで休符を挟むように音飛びするのを感じた。そして、ついには眼の前が暗くなった。

 気がついたときには服の前を破かれてAEDのパッドを胸に貼られたまま、顔には酸素マスクで、天井が流れるように動いていた。救急車のストレッチャーで運ばれている最中に意識を取り戻したのだ。

 ……心臓の異常はそれ以前にも何度かあった。母が死んだ後、たとえば風呂に入っていたら急に胸が痛くなり、呼吸が浅くなったりした。このまま死ぬのかと思ったが、風呂からあがって洗面所で裸でしばらくうつ伏せで動かずにいると、毎度おちついた。

 念の為に循環器系の病院に行った結果、不整脈が出ていると言われていた。過労と睡眠不足、そして母親が亡くなったことに関する心因的なストレスが原因だろうと言われ、薬も半月分処方された。

 その最初の処方はきちんと飲みきった。ただ、それで治ったと思い込んで、それきり病院には行っていなかった。知らなかったのだ、不整脈とはウィルス風邪のように薬を飲んで寝ていれば治るものではなく、経過観察が必要なものだとは……。

 ライブリハーサル中に倒れてからの入院は2週間近くに及んだ。休んでいられないからと病室にノートパソコンとヘッドフォンを持ち込んで仕事をしていたら叱られたが、納期の迫っているものもあったから消灯時間後に隠れてそれらはこなした。

 退院する最後の最後まで、担当医からは「仕事を減らしてでも睡眠時間を作って、カフェインとアルコールの摂取量を抑えて、可能な限りきちんとした食生活をしてください」と言われた。

 復帰してみると、事務所の長期的な予定表は空白が目立つようになっていた。

 担当マネージャーに聞くと、参加予定だったレコーディングの立ち会いは全てキャンセル、タイアップ楽曲の事務所内コンペの参加予定も全て消したと言われた。

 かろうじて既に予定納品曲数の半分以上を作り上げていた新作ソーシャルゲームのBGMの仕事だけは残してもらったが、これもゲーム自体が不振に終われば実入りは多くはならない仕事だ。

 マネージャーからは「ちゃんと寝てください」と言われた。そして社長からも、「今後はしばらく、控えめにいこう」と言われた。

 ……事実上、人気作曲家としての路線からの離脱宣告も同然だった。

 コンペが無くなった分、作曲はアーティスト側からの依頼曲のみとなり、音楽イベントも「体調を優先してください」と関係者席入りや収録立ち合いは最低限に控えるように言われた。

 事務所としては体を気遣っての方針だったのだろうが、太陽本人としては、どんどんと音楽の現場から引き離されるように感じられた。

 自分の作ったトラックが目の前で生楽器や肉声により組み直されていく臨場感や、ライブに湧くアーティストとファンの交流を傍観することは、仕事をするうえで大きなモチベーションとなっていたのだ。

 いや、モチベーションというより、脳内麻薬に近かったかもしれない。その感覚を楽しむためだけに、クライアントのウケのいい曲を、より求められているアレンジに対して敏感にと、自分自身に求め続けていた。

 安全第一の事務所の方針と現場に立ち会いたい欲求がうまく噛み合わず、結論として契約更新はしないことにした。そして期間満了をもって退所した。

 幸い、それでも東京に居る間はローカルアイドルのプロデューサーに楽曲作成や、サウンドトラックを手掛けたソーシャルゲームの2・5次元舞台の劇伴などの仕事を振ってもらえた。

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