第2話:『灯をともす手紙』

「……夜明け前の空気って、好きなんだよな」




稲葉風真は、自転車のペダルをゆっくりと踏んだ。


郵便袋には、ひとつの封筒。


宛名は、墨で丁寧に書かれている。




『宵野灯火よいの ともしびさま』


差出人は、「白鷺町・御神灯屋みあかしや」。




宵野――聞き覚えのある名だ。


古くから“灯を守る家”と呼ばれ、夜の祠や神社に明かりを供える仕事をしている一族。




封筒の紙質は少しざらつき、ほのかに温かかった。


まるで、まだ火を宿しているかのように。




「……灯の気配、か。珍しい手紙だな」




風真は指先で封をなぞる。


そこから流れ込んでくるのは、淡い懐かしさと、少しの痛み。




――誰かを、照らしたい。


――届かぬ想いを、もう一度、灯したい。




そんな祈りが、手紙の奥に静かに眠っていた。




* * *




宵野家の屋敷は、山裾の外れ。


古びた灯籠が並ぶ庭の奥で、女性が火を灯していた。




「御免ください。宵野灯火さん、いらっしゃいますか」




声をかけると、女性は振り向いた。


髪を高く結い、袖口を焦がした跡が見える。


その目には、消えかけた炎のような揺らぎがあった。




「……あなたが、“神宿しの郵便屋さん”ですか?」




「ええ。稲葉風真といいます。こちらにお手紙をお届けに来ました」




差し出された封筒を、灯火は両手で受け取った。


そして、指先がふるえる。




「……この封の紙。兄が使っていたものです」


「お兄さん、ですか?」


「ええ。去年の冬に……灯籠の火と一緒に、還ってしまいました」




風がそっと揺れた。


庭の灯が一瞬だけ弱まり、またふわりと強くなる。




灯火は静かに封を切った。


中から、小さな灯芯と、焦げた手紙の切れ端が出てくる。




そこには、滲んだ文字がひとつだけ残っていた。




――“まだ、見ているよ。”




その言葉を見た瞬間、灯火の頬を涙が伝った。




「兄は、最後の火を守って逝きました。あの日から、私は……火を恐れていたんです」


「でも、火は怖がられることを、きっと悲しんでいますよ」




風真は、静かに言葉を落とす。


「火は、照らすためにある。


 兄さんの想いは、あなたの灯の中に、まだ燃えてると思う」




灯火は、涙の中で微笑んだ。


そして、小さく呟く。




「……じゃあ、灯してもいいですか? 兄の火を」


「ええ。郵便屋は、“想い”を届けるのが仕事ですから」




灯火は灯芯を手に取り、庭の灯籠へそっと置く。


次の瞬間、そこに淡い焔が宿った。


それは夜明けの光にも似た、やさしい橙色。




「……あたたかい」




風が吹く。


炎がふわりと揺れ、手紙の欠片が空へ舞い上がる。




風真は空を見上げながら、微笑んだ。




「きっと、届きましたね」




「ええ。――ありがとう、郵便屋さん」




その声とともに、庭の灯籠がひとつ、またひとつと点り始める。


まるで、忘れられていた祈りが、夜明けを迎えたかのように。




風真は、帽子のつばを押さえて歩き出した。


その背に、灯の光が、そっと寄り添っていた。




* * *




通りの向こうで、風が鳴いた。


耳の奥に、かすかな鈴の音が届く。




――チリン。




「……また、呼んでるな。風が」




稲葉風真は、次の手紙を取り出した。


宛名には、見慣れない文字が並んでいる。




『蒼ノ滝・祠ノ主 さまへ』




「……さて、次の配達先は“滝の神様”か」




彼の足元には、またやさしい風が吹いていた。

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