第2話『腹のむし』
フォーマルな服を纏った人が行き交う場所。
パンを二度焼きする光が差し込む時間帯。
今日も今日とて、僕はパン屋でアルバイト。
夕方なので焼き立てではないものの、店内はパンの香りに包まれており、いつも腹のむしが鳴りそうになる。
『カランカラ〜ン』
「──ぐぅ~」
これが神の悪戯というやつか。
そんなことを言っていたせいで、ドアベルより大きい腹のむしが鳴って……いや聞こえた?
「いらっしゃ──あ、今日も来てくれたんだ紅愛さん。……ん?」
いつものように、紅葉色の髪をした美少女──紅愛さんが来店する。でも、普段と比べてどこか様子がおかしい。
「どうしたの紅愛さん?」
「え、えっと……今のは……」
なぜか紅愛さんは出入口の前で立ち尽くしている。しかも頬を赤くしながら。まるで恥ずかしがっているみたいだ。
「今日はベリーの乗ったデニッシュがおすすめだよ」
「え!? あ、デニッシュだね。じゃあ今日はそれを食べようかな。あはは……」
紅愛さんは火照った身体を冷ますように手をパタパタさせ、パンをトレイに乗せていく。
「お、お会計お願いします!」
「どうしたの紅愛さん? 様子が凄いおかしいけど」
「そ、そうかな? 私はいつも通りだけど!」
紅愛は額に汗をかいている。
やっぱり様子がおかしい。
「あれ、今日はいつもよりいっぱい買って行くんだね」
「う、うん。家族の分も買って行こうかなって」
「──ぐぅ~」
するとまた、店内に腹のむしが鳴り響いた。
厨房に居る人を除いて、今店内に居るのは僕達だけだ。
そして僕の腹にはまだ昼に摂取した食べ物が残っている。
つまりこの腹のむしの音は……
「もしかして紅愛さん、ここに入って来た時もお腹鳴らした?」
「!? ななな何を言ってるの綾斗君! そそそそんな訳ないよ!」
先程より顔を真っ赤にさせる紅愛さん。
これは間違いないな。
「紅愛さんって、食いしん坊なんだね」
「!? 違うよ! これはね……えっとね……綾斗君のバカ!」
「なぜそうなる」
「だって私のこと、ぷっくらふとっちょ肉付きおデブちゃんって言ったから!」
「食いしん坊とは言ったけど、そんな悪口みたいなことは言ってないけど?」
「酷いよ綾斗君。私だって女の子なのに……シクシク」
紅愛さんは涙を拭うように両手で目を擦る。
「そんな嘘泣きしても意味ないよ紅愛さん」
「嘘泣きじゃないよ! 私、本当に傷ついたんだから!」
「パン包んでおいたから、それを食べて──」
え、嘘でしょ。
本当に泣いてるだけど!
マズイ、どうしよう。
言葉は相手の捉え方次第。いくら僕にその気がなくても、紅愛さんが傷ついたら、その言葉は悪口に変わってしまう。
「ひとまず落ち着いて紅愛さん! ハンカチ渡すから、それで涙拭いて!」
紅愛さんは僕のハンカチで涙を拭い、落ち着きを取り戻した。
「ごめん紅愛さん、あんなことを言って。お詫びとして、僕が奢るからもう一つ好きなパンを選んで良いよ」
「……分かった」
目線を下に落としながら紅愛さんは頷く。
本当に申し訳ないことをしたな。いっそ今日買ったパンを全部奢ろうかな。
「やっぱりここに売ってるものじゃなくて、非売品のものでも良いかな?」
「非売品? 良く分からないけど良いよ」
「じゃあ綾斗君。手のひらを私に向けながら、両手を前に出して」
「こう?」
紅愛さんの細かい指示のもと、僕は両手を前に出す。一体何をするんだ?
「うん。それから……えい!」
「!? ちょっと何してるの紅愛さん!」
紅愛さんはあむっと食べるように、僕の両手を握り指を絡めてくる。
「離してよ紅愛さん! すごい恥ずかしいんだけど!」
「だーめ。まだ完食してない」
「それに僕バイト中なんだけど!」
「今は2人しかいないから大丈夫だよ!」
羞恥心で心臓が張り裂けそうだ。
でも我慢するんだ綾斗! これは自分が犯した失態。しっかり罪を償え!
「ごちそうさま綾斗君。非売品なだけあって、とっても美味しかったよ!」
完食しきった紅愛さんは絡ませていた指を解き、満足げな表情を浮かべる。
「どうしたの綾斗君? すごい顔が赤いけど」
「誰のせいだと思ってるの!」
「いっしし~」
「お詫びはこれで良いよね?」
「うん、良いよ。……そうだ。ハンカチは家でしっかり堪能──洗って返すよ!」
「分かった」
まさかパン屋でバイトしてるだけで、こんなに恥ずかしい目に遭うとは……。
僕は包み終わったパンを渡し、精算する。
「綾斗君って……優しい人だよね」
お釣りを渡そうとすると、紅愛さんにそんなことを言われる。
「そんなことないよ。もし優しかったら、紅愛さんを泣かしたりしないよ」
「ほら、そういう所」
「どういう所?」
「私を気遣ってくれるところだよ。……実はね。さっきの涙、全部演技なんだよ」
「演技?」
僕は眉間にしわを寄せ、訝しげな表情をする。あれが演技な訳ない。きっとこれは強がっているだけだ。
「演技にしてはかなりリアルだったけど……」
「昔子役をやってたんだよ。だから泣くのは得意なんだ」
「じゃあ、本当は傷ついていないの?」
「そうだよ」
ダメだ。頭の整理が追い付かない。
泣かしてしまった事だけでも脳のリソースを持っていかれたのに、実は全部演技で、しかも昔は子役だった……。
もう訳が分からない。
「なら、どうして泣く演技をしたの?」
「それはね……綾斗君と恋人つなぎをしたかったからだよ!」
「!? な、なにを言ってるの紅愛さん! 冗談もほどほどにして!」
「冗談なのかな?」
「冗談……じゃないの?」
「それは綾斗君の捉え方次第だよ!」
謎を残したまま、紅愛さんは買ったパンを手に持ち駅に向かった。
「……あれ?」
よくよく考えたら、泣く演技も手を握ってきたのも、全部腹のむしが鳴ったのを誤魔化すためでは!?
クソッ! してやられた。
やっぱり恋人つなぎの件は冗談だったのか。
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