第2話 五枚の枯れ葉が落ちる頃。





 ガラスの割れる音。キーキーと耳をつんざく母親の奇声。

 寒くもないのにガタガタと、震える体。


「だから、異常だって言ってるのよ!」

「子供を可愛がって何が悪いんだ!陽向は俺の娘だから当たり前だろう」


 いつも温厚な父が、最近は扉の向こうで母と喧嘩をしていた。

 真っ暗な部屋の中。薄く扉を開け、静かにそれを見ていた。


 いつもは、明るいリビング。

 でも最近は、泣き声と怒声が響いてる。


 私の瞳に映るそこは、少しずつ違う空間に変わっていった。

 いつから、暗くて明るい奇妙な部屋になったんだろう。


「あの子が産まれる前は幸せだったのに、いっつもひなた!ひなたひなたって」


 母は酷く声を上げて泣いて、周りの物に当たり散らかして、部屋がぐっちゃぐちゃになっていた。


 その光景を見た瞬間に、体の奥底から湧いてくる不安。


 倒れた木の椅子、鉢が割れて散乱した土、放り出された観葉植物、亀裂が入った写真立て、粉々に散らばった食器の音がまだ床に残っていた。


 物が壊れる、壊れている。


 最近この言葉に恐怖を覚えた。それは、横断歩道に勢いよく飛び出した野良猫が、車に容赦なくひかれた時だった。


 その瞬間、脳に走った衝撃は言葉にできないくらい酷かった。私は、ただ理解できない衝撃に固まっていた。その時の感情は、母に拒絶される感情とはまた違ったものだったから。


 そしたら、感情のない声が聞こえて指先がピクリと動いた。


 「ああやって壊れたら、もう二度と動けないのよ。陽向も壊れないように気をつけないとね。あの猫みたいに死んでもひとりぼっち、なんて嫌でしょ?」

 

 猫から目を離せなかった私は、母がどんな表情をしていたのか見ていない。けれど、声は軽かった。

 

 なんとなく、母から伝わってくる感情に心が凍りついていくのを感じた。怖くて逃げたくて、気づけば猫のもとへ走っていた。


 横断歩道で脱力しきった猫を抱えようとした瞬間、涙が出てきた。それは、あまりにも頼りなく、そして、重たかったからだ。


 その、生々しい感触が――ちゃんとここにいるよ。


 そう、いってる気がした。


 重たい、温かい……のに、猫はここにいるのに。


 なんで痛そうにしないの?

 なんで動かないの?

 なんで逃げない?

 壊れるってなに。

 死ぬってなに。


 猫のつぶれた顔を見たらパニックになって、やっと近くに来た母に、直してと何度叫んでも、腕を引っ張り、離しなさい、と言うばかりで聞いてはくれなかった。

 

 “壊れる”とか“死”を、よく分かってなかった私は実際に体験して、死というものがどれだけ怖くて、悲しく、酷いものなのか教えられた。


 鳴り響くクラクションの音に、知らないおじさんが走ってきて、必死に私と猫を抱えて大丈夫だよと、安全な歩道に移動させた。

 

 すぐに、どこからやってきたのか分からない白猫が、壊れた茶トラ猫のそばに来て顔の辺りをなめていた。その白猫を見ると……もっと悲しかった。息が詰まるくらいつらかった。


 だから、嫌い。壊す人は嫌いだ。嫌いなのに……嫌いになれないんだ、おかあさんのこと。

 

 

「やめてくれ、陽向が起きるから」

「いやよ。あなたに残されてる時間が少ないのに、あの子に向ける愛情ばかりで私は……私はどうしたらいいのよ」


 あの頃に戻りたいと何度も言う母。その小さく懇願する声に父は、息を詰まらせたように目を伏せた。


「ごめんな、俺には到底理解してやれない。俺も一杯一杯で、苦しくて辛いんだよ……それでも時間は待ってはくれない。産んだら終わりなのか? 産んだから感謝しろって?」


 私は、泣いて怒る父の姿をこの時初めて見た。


「“生”を与えると同時に俺たちは子供に“死”を与えてるんだぞ? 俺は、怯えながら過ごすより、陽向に少しでも楽しく幸せな思い出を残していきたいんだよ」

 

 涙を拭いながら、震える力強い声で必死に何かを訴えていた。そして気づけば私も泣いていた。


「産まれてきて良かったって思ってもらえるように。俺は、陽向にそう思ってほしい。だけど、お前は違う。もう離婚しよう、陽向は俺が引き取って母さんに」

「いやっ、そんなことなら死ぬわ、みんな死ねばいいっ!」


 暴れ狂う母に対して、父は疲れきった様子で見ていた。


 私は、足元からぐわっと上がってくるヒヤヒヤとした感覚が嫌で、早まる鼓動に、二人の言葉の意味を幼いながらに理解していた。


 まだ治っていない、左にある肋骨の傷をそっと撫でる。

 震える手でグッと握り、押して、痛みを感じた。


 痛みで、自分に罰を与えた気でいた。


 私も、私が、嫌いだ。

 それでも“死”というものが怖かった。


 ごめんなさいと心の中で叫んだ。

 傷を掻きむしるように、指先を動かした。 

 私も、痛いから許してほしい。 


 心の奥底で、何度も“生きたい”と叫んだ。





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