『CUTE AGGRESSION -trace of scent-(記憶の匂い)』
ありにあるく
第1話 三枚の葉。
ある日の記憶の断片。
歩行器で走っていたら突然、後ろから蹴飛ばされた。
気づけば透明でキラキラと舞う鋭いガラス破片と玄関にいた。
また、ある日は。
四足歩行で家中駆け巡った。すると、床にある物が落ちていた。それは、ピンクの桜印がついたよくわからないものだった。
好奇心で無防備に握った。手のひらが真っ赤に染まった。
痛みよりも先に、綺麗な赤に目を奪われた記憶。
そして、イヤイヤと食べ物を吹き飛ばし、纏わりつく服が不愉快で、感情と向き合い始めた頃。
お父さんお母さんと呼ばれている人の表情を観察し始める。その違いに違和感を覚え始め、温もりと冷たさを肌身で感じた頃。
笑って優しくおっとりとした口調で、何がだめで、何がいいのか。何故、何故。と、問う前に正しく教えてくれるひと。
怒って冷たく声を張り上げて腕を振り下ろし、
だめ。するな。やめろ。
否定的な言葉だけを言って、理由を説明しないひと。
そんなふうに、二人の声を聞き分けていた。
あれをしよう、これをしてみよう、ここに行こう。
好奇心を湧かせて、喜、楽を教えてくれたお父さん。
鬱陶しい、汚い、騒ぐな、大人しくしろ、あっち行け。
怒、哀を教えてくれたお母さん。
自然とお父さんに毎日ひっついて、守られていた頃の記憶。
今日、おとうさんは仕事でいない。
おかあさんは、お昼前に友達とランチに出掛けるらしい。
「いい子にして、余計なことは言わないの。変な事言ったら、もう連れて行かないからね」
おかあさんは、荒々しく靴を履かせた。
わかった?と私の目をキッと睨んでいた。
お外にいる、おかあさんの事は好きだから、静かに頷いた。
手を繋いでもらってうまく歩けない中、必死に足を動かしてその歩幅に追いついた。
お店の前で、優しい喋り方をする女の人が手を降って出迎えてくれた。この人が、おかあさんの友達なんだ。
背の足りないソファに、よじ登ろうと手をついていたら優しい匂いに包まれた。そして、軽々と持ち上げたまま私を隣に座らせた。
「一生懸命な所が本当にいじらしくて、たまらないね」
目線を合わせて笑顔で話しかけてくれる女の人。
「私、と、う、か、っていうの。よろしくね、ひなちゃん」
「……とーか?」
私が小さな声で名前を口にすると、可愛いと褒めて頭を優しく撫でてくれた。ふと、テーブルの向こう側に座っているおかあさんを見ると、いつもと違う表情で私を見ていた。
その顔は、とーかが私を見ている時だけ、スッと、いつもの真顔に戻るから不思議に思った。
この頃には、人の表情を観察する癖がついていた。
違いを見つけるごとに疑問が尽きない。
だから、黙って考えることが増えていった。
「桃花の娘さんもすごく可愛いじゃない、将来有望ね」
「そうなの。でも、愛おしくて可愛くて仕方ないのに会えないから、辛くて苦しくて、やっと会えたかと思えば楽しい時間はあっという間で。その瞬間が一番胸を引き裂かれる痛みが走るの。だから離れる時にいつも泣いてしまって……笑顔でいなきゃいけないのにね」
「あー、確かにそれは辛いわよね」
「だから、ひなちゃんとえみちゃんが純粋に羨ましいよ」
隣で、ただじっと座っている私の頭を、サラサラと前髪をかきあげるようにずっと優しく撫でてくれる。心地良く、安心する触れ方だった。
「いつでも陽向と遊んであげて。慰めになるかわからないけど、気を少しでも紛らわせなきゃ」
おかあさんは調子よく言って飲み物を飲んだ。
「ひなちゃんは、お母さんといつもなにしてるの?」
ちらっとおかあさんを見ると、一瞬目を見開き、キッと何かを訴えるように合図を出す。私は、何を答えれば良いのか、分からなくて黙ってしまう。
「陽向は今パンケーキにハマってて、たまに一緒に作ったりするのよ。これが中々大変でね〜片付けするだけで、どっと疲れちゃう」
「へぇー!ひなちゃん、パンケーキすきなの?そっかぁ。おままごととか興味津々な年頃だもんね」
なんて笑顔で言われるが、パンケーキはおとうさんが一緒に作ってくれるし、おかあさんと一緒に楽しく何かをした記憶は今の所ない。
おままごとってなに。
「子どもは手がかかるから大変よね。まぁうちの子はあまり喋らないし、他のこと比べても大人しいほうだけど」
「そうなんだ、ひなちゃん緊張してる?おばさん、遊んでほしいなぁ。ひなちゃんくらいの子が何に興味あるのか、おばさん気になるなぁ」
この人は娘と遊ぶ参考にするらしく、楽しそうに話していた。
結局、私はあまり喋ることなく、おかあさんとお店を出た。
「陽向、愛想よくしてっていったよね?答える時はハキハキ答えて。言葉わかるんだから、お母さんに合わせてくれないと困るでしょ」
帰り道、強く手を握られた。
地面を蹴るたびに腕が軋み、体が浮いた。
私は、ただ「ごめんなさい」と泣いていた。
とーかは、優しい匂い。
少しだけ、この人がおかあさんならいいのに。
そう思ってしまった。
母は、鋭く鼻につくような、香水の匂いだった。
そして、記憶にあった儚い香りは本当に消えてしまった。
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