4話 『ラズリ──あの胸にもう一度』
2017年、クリスマスイブの朝
その若い男は、ひと月前に競売で落札した土地を確認するため横浜へ来ていた。
横浜市金沢区との境──
間口5.5m、奥行き18m。“北東角地”──いわゆる鬼門の方角。
99平米、ほぼ30坪弱。
水道・下水・電気・ガス。
必要なライフラインはすべて揃っている。
北側の道路の先には、冬の光を鈍く反射する小さな湾。
周囲には自衛隊官舎が立ち並ぶ。
ロケーションだけ見れば悪くはない──はずだ。
落札価格、350万円。
理由は明白だった。
かつて医療系産業廃棄物の置き場。
近隣には「江戸期の刑場跡」という噂。
前所有者は放置されていたキャンピングカー内で死亡。
長らく塩漬けにされていた、曰くつきの土地。
そんな物件を迷わず落札したのが、いま目の前に立つ若い男だった。
潮風に乾いた枯れ草がざらりと鳴る。
ユンボで掘り返した跡が残る地面を見渡し、
手にしたアメリカ製の
電磁場測定器を覗き込みながら小さく呟く。
「……“結界”が剥がれた、そろそろだな。」
言葉を終えると、古いBMWへ戻った。
ドアを開け、運転席に滑り込む。
キーを回す。
低い振動。
鋭く噴き上がる直列4気筒。
――四ドアのE30型。
かつて “六本木のカローラ” と呼ばれた気取らないBMW。
だがホイールの隙間に覗く赤いブレンボ。
回転数に応じて乾く金属音を吐くM20の咆哮が、この車の“本性”を語っていた。
見れば分かる者には分かる。
これは“普通じゃない男”の、“普通じゃない320is”だ。
⸻
男は湾岸道路を南へ走り、横須賀市のボートパークへ向かった。
そこには、最近手に入れた12mのセイリングヨットが眠っている。
横須賀市営のこのハーバーでは、12m艇が最大クラスで桟橋に係留できる。
男のヨットは“センターコクピット”仕様。
操舵室が船体中央にあるため、居住性が異常に高い。
ロシア赴任から戻った直後──
破格の値段で売りに出ていたのを見かけ、そのまま反射的に購入した。
ロシアで広いアパート暮らしをしていた反動。
帰国後の官舎生活の窮屈さに馴染めず、
「週末に帰る場所」が欲しくなっただけだ。
売買は代理人を通しただけで、前オーナーの顔すら知らない。
営業時間は夕方5時半まで。
それ以降は施設のトイレも施錠される。
普通なら、夜間はヨットの個室トイレを使うしかない。
……はずだった。
男は、このボートパークの トイレの合鍵 を持っていた。
職員でも常連でもないのに。
その理由を知る者は誰もいない。
⸻
その男の名は──
佐反 晄人(さそり・あぎと)。
海上保安庁所属。
現在は公安調査庁へ出向中。
彼が闇に潜るときは、いつもこうした“無風の日常”から始まる。
だが裏では、すでに国家規模の“作戦”が静かに動き出していた。
⸻
役所が仕事納めを迎える日の明け方。
曰くつきの土地に、古いエアストリームのトラベルトレーラーを上手く
旋回させて、後部を海側に向けてそのまま設置・固定された。
後部の大きなウィンドウには可動式のバイザー。
反対側のキャリアにはエアコンの室外機。
前面には黒いラバーシートを敷き詰め、即席の駐車スペース。
都内の合同官舎は“倉庫代わり”に残した。
都心に月6,000円で駐車場を持ち続けられる利点は大きい。
アギトは、それだけの理由で官舎を保持しながら、
迷いなくこの曰くつきの土地を“自分の巣”に変えていく。
闇に潜る者の拠点として、これほど都合のいい物件も珍しい。
⸻
引越しといっても、荷物は少ない。
ポルトローナ・フラウの一人掛けソファ。
パソコンとワイン。
小型冷蔵庫。そして一匹の猫。
エアストリームの内装はすでにリフォームされ、
内部はすべてツガ材の板張り。
猫の爪対策の為でクッションを除けば布系の内装材は一切ない。
足元では、一匹の白い猫が
アギトの足首に小さく尾を巻きつける。
ラピス。
アギトが勝手にそう名づけた猫だ。
「ほら、カニかま。」
小皿に乗せてやると、猫は嬉しそうに喉を鳴らす。
アギトは特に深い意味もなく微笑むだけだった。
ダンボール箱からワインを冷蔵庫へ移し始める。
ワインボトルを持ち上げた瞬間、
液体の揺れが、微かな“色”のように見える気がした。
音や振動が、
香りや味の“前触れ”として脳に届く。
女も同じだ。肌に触れずとも、
声、脈、わずかな体温の乱れ──
その“周波数”だけで、
女の体調と欲望の輪郭が分かる。
ワインと女、そして猫。
どちらも“波”として彼の中に立ち上がる。
──ずいぶんと前からだ。
だが、それが側から見れば異常だという事を本人は自覚しておらず
ただの特技か癖だと本人は思っている。
その異常な共感覚こそが、
アギトという男の本質だった。
その時、外で単気筒バイクの乾いた排気音が止まった。
トレーラーの前に停まったのは、黒いヤマハSR400のサイドカー。
「あの胸にもう一度」のマリアンヌ・フェイスフルを彷彿とさせる様な
黒いツナギ越しにも分かる、しなやかな体つきの女が降りてくる。
ジェットヘルを外し、サイドカーにそっと置く。
ナチュラルブロンドのショートが風にほどけた。
その顔は、ベビーフェイスではない。
むしろシャープで、どこか哀しみを抱え込んだような美しさだった。
アギトは半歩だけ近づき、低く言う。
「ラズリ──サイドカーで来たってことは。
兄貴の場所に……ようやく俺を乗せてくれる気になったのか?」
ラズリの動きが、一瞬だけ止まった。
風が吹き抜け、髪が揺れる。
彼女は視線を落とし、サイドカーの黒いシートを指先でなぞる。
「……あれから、ずっと空席だったのよ。
“ここ”は、誰にも触らせなかった。」
アギトは黙ったまま見つめた。
ラズリは呼吸を整え、顔を上げる。
「でも……あなたなら、いい。
ラピスが最後に呼んだ名前は“アギト”だったから。」
その瞳は強く、しかし泣き出しそうな色をしていた。
彼女はサイドカーから黒い防水ケースを取り出し、投げるように渡す。
「今日の案件。開ければ分かる。
……あんたと私で、やるわよ。」
冬の湾岸の空気が、二人の沈黙を冷たく締めつける。
アギトはケースを軽く持ち上げ、微笑んだ。
「了解した。
──じゃあ、今日は“二人乗り”でいいんだな。」
ラズリは、小さく頷く。
「ラピスがいた頃みたいにね。」
ラズリはアギトの肩越しに、足元の猫に気づいた。
「……その子、名前は?」
「ラピスだ。」
ラズリの瞳が、一瞬だけ刃のように細く震えた。
風が吹き抜け、
彼女の金のショートカットが揺れる。
「……そう。ラピス、ね。」
声が掠れ、
胸の奥で何かが崩れ落ちるような響きを帯びていた。
アギトはその意味を理解しないまま、
ただ猫が足にすり寄る気配を感じていた。
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