未公開作品

佐藤大翔

第一話 雨下にて

 映画や小説の世界というのは、現実世界と案外地続きになっていて、もしかすると俺が生きている世界線の方が綺麗なのかもしれない。そんな、柄にもなくロマンチックなことを思ってしまった。




 教室の窓ガラスを打ちつける雨音。細く開いた隙間から、冷たく湿った風がカーテンを揺らす。六限終了のチャイムが鳴ってから、もうしばらく時間が経っている。廊下も教室も、薄ぼんやりと無機質に並んでいるはずだった。声なんて聞こえるはずがなかった。


 窓際、最後列。机上の原稿用紙に伸びたのは男の手。


「見つからない。見つけてほしい。ただ、そう願うことの何がいけないのさ? 僕はいつだってお前にはなれないんだ」


 知っている台詞が音になる。長い手が伸びて、開け放たれた扉越しに視線が交わる。熱かった。鈍色の教室で、彼の瞳の中の光だけが煌々として見えた。


「……だから、僕は見つけてほしいだけなんだ」


 苦しそうに綺麗な眉根を寄せて、顔が歪む。切羽詰まって、息遣いも声音も揺れる。文学に色が付いた。温度があって、呼吸をしていた。ワンシーンが生きていた。


 原稿用紙は音もなく机に置かれ、スイッチが切れたように男――月山つきやま瀬名せなは、にへら、とだらしなく眉を下げて笑った。


「バレちゃった」


「や、それ、俺の……だよな?」


 月山が立っている席は、日中は俺――松平まつだいらあおいが座っている席だ。ほんの数分、書きかけの原稿用紙をそのままに、放課後の教室を離れた。そのわずかな間に、物語に息が吹き込まれていた。


 ワイシャツの第二ボタンを緩めながら、耳に髪をかける。ピアスが覗いた。細く、骨ばった指先で月山は原稿用紙をめくる。


「忘れられてたから、読んじゃった」


 陽の当たる教室で、いつも聞いていたおちゃらけた声。友達に囲まれた時のような楽しげな笑顔を向けられてしまえば、俺は言葉を飲み込むしかなかった。


「んで、松平、どうだった?」


「……どうって?」


「オレのセリフ」


 月山は笑っていた。だが、目にこもる熱は冗談ではなかった。

 問いかけの答えを、ゆっくり目を閉じて考える。声が耳に残っている。雄弁な瞳に触れたら最後、熱かった。


「月山の口から出た言葉が、生きてるって思った」


 心外だと言いたげに目を見開いた月山は、くふくふと喉の奥で可愛らしく笑った。「ありがとぉ」と頭の悪そうな緩い感謝の後、ふと空気が変わる。


「お前、いい話書けるんだな」


 口の端でニヒルに笑い、「またな」と月山は爽やかに教室を出ていった。

 スポットライトが消えた窓際には、梅雨の湿った生ぬるい空気だけが残る。打ちつける雨音も、月山瀬名の声を聞いた後では無音同然。席の主として、俺は原稿用紙を前に長く息を吐いた。


「何者だよ……」


 完璧だった。俺の書いた小説の一節。そのまま、フィクションの世界の住人として彼は生きていた。

 同じ高校生。しかもクラスメイト。こんなこと、できるはずがない。意外な一面? そんな馬鹿な。演技というのは生ぬるい。あまりにも上手すぎた。しかも、よりによって、あの月山瀬名だ。


「気になって続き書けねぇよ」


 無造作に重ねた原稿用紙を手に取り、斜め前の空っぽの月山の席を見る。

 人がいない教室でも、彼の席からは笑い声が聞こえてきそうだ。明るい茶色に染められた毛先は、居眠りが多いせいで癖がつきがち。いつも誰かに囲まれていて、そう、人気者なのだ。

 自分と違ってスクールカースト最上位に君臨する月山に、「なんなんだお前は」と心の中で悪態をついた。握っていた黒色のシャープペンシルを片付ける。外は、やっぱり雨だった。

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