2. 敗北を知らない敗北者
名将レグナ・ヴァルドラ。
その名を知らぬ者は、この大陸にはいない。
帝国軍第三師団長、歳は三十八。
副官が記した戦歴には、百二十七戦百二十七勝とある。
王都の吟遊詩人は彼を「必勝の戦神(いくさがみ)」と歌い、隣国の子どもですら木剣を振りかざして「ヴァルドラ将軍だ!」と叫んだ。
だが、当の本人はその呼び名を最も嫌った。
神と呼ばれるのは、血の匂いを知らぬ者の奢りだ──彼はそう思っていた。
レグナには、生まれつき一つのスキルが備わっている。
【戦慧(せんけい)】
戦場における情報(地勢、魔力流、風向、兵科配置、士気、補給線、指揮系統の脆弱点)を一呼吸で統合し、勝率最大化の行動列を導出する。
発動中、思考は千倍速に近づき、敵味方の“次の手”が確率分布として視える。
このスキルは、敗北の可能性を限りなく零に近づける。
彼の視界には、味方の歩調や騎兵の蹄の揺れすら数式に変換され、丘の勾配は等高線ではなく「突破に最適な角度」として浮かび上がる。
魔術師が詠唱で雨を、工兵が杭で壁を、弓兵が矢で空を支配するあいだ、彼はただ静かに“最短で勝つ道”を辿るだけでよかった。
だが、その道は常に誰かの血を踏む道でもある。
最後の大戦は、北境の
敵軍十万。
魔導砲列の轟音が山脈を震わせ、蒼鋼の巨兵〈ゴーレム〉が雪原を割って進む。
対する帝国軍は三万。
陣幕の中、参謀たちは口角泡を飛ばして進言した。
魔力嵐が来るまで耐えれば、と。
雪解けを待って転進すれば、と。
レグナは黙っていた。
沈黙の裏で、【戦慧】がひたすらに計算を続けていたからだ。
やがて一つだけ、確率が跳ね上がる経路が示された。
──“親友の部隊を囮にする”。
ガルド・アーレン。
少年の頃から共に剣を学び、初陣では同じ焚き火の煙を吸い、寒さに震えながら干し肉を割って分け合った男。
粗野で、口は悪いが、誰よりも味方の背を守る戦士だった。
「戦が終わったら港町に小さな酒場を作ろう。
お前が勲章で客を引き、俺が鍋を回す。
──それで毎晩、負けた日も酔って笑うんだ」
そう言って、何度も肩をぶつけ合って笑った。
ガルド、お前の命が鍵だというのか……。
スキルの“最適解”は冷酷だ。
ガルドの重歩兵二千を敵中に突入させ、魔導砲の照準を意図的に吸い寄せ、十五分耐えさせる。
敵の砲列が過熱で一斉整備に入る瞬間、右翼騎兵を雪崖に沿って回し、砲兵の背を断つ。
中央は偽装退却、左翼は踏みとどまり、魔導師団は風向の転じる刻に合わせて煙幕を増幅させる。
勝率、百パーセント。
味方損耗率、最小。
民間被害、最小。
そして、ガルドの帰還率、零。
胃の底に熱い鉛が落ちたようだった。
レグナは幕舎の布を押し開け、外の夜気を吸い込んだ。
雪解け水の匂い。
遠い雷鳴。
兵の寝息が波のように寄せては返すその真ん中で、ただ一人、彼はじっと立ち尽くした。
夜明け前、レグナはガルドを呼んだ。
焚き火の端で、友は無造作に兜を指先で回し、火花を見ていた。
すべてを告げると、ガルドは笑った。
あっけらかんと、いつもの調子で。
「囮か、いいさ。
お前が“勝つ”って言うなら、やる。
どうせ俺は、お前より先に酒場の鍋を焦がすタイプだ」
冗談めかして肩を叩き、背を向ける。
レグナはその手首を掴んだ。
言葉が出ない。
ガルドは振り向かず、手だけを強く握り返した。
あの、大きくて温かい手。
次の瞬間には離れて、彼は歩き出していた。
暁が、雪解けの谷に薄桃の光を落とす。
角笛が三度鳴った。
重歩兵の波が、敵陣めがけて雪を蹴り裂いていく。
盾が打ち鳴らされ、武具が歌い、喉が裂ける声が空を震わせる。
グランデリアの砲列に灯が走り、白い吐息の先で炎が花開いた。
轟音。
空気が弾け、地面が跳ね上がる。
重厚な盾が砕け、列が崩れる。
それでも突き進む。
十五分──一秒が鉛のように重い十五分だ。
敵中で、ガルドの旗が何度も揺れ、倒れ、また揚がる。
煙の幕が風に乗って広がり、砲列の視界が潰れる。
その瞬間、右翼騎兵が雪崖の影から飛び出し、轟音の背を断った。
中央は偽装退却からの反転、左翼は踏みとどまり、魔導師団の詠唱が空の色を変える。
砲声が途切れ、敵の陣形が崩れ、帝国軍の旗が本陣を包み込む。
勝利は、紙に書かれた数式のとおりに訪れた。
戦場に歓声が渦巻く。
兵は泣き、抱き合い、地面に口づけをする。
遠くの村々で鐘が鳴り、王都では祝砲の準備が進んでいるだろう。
レグナは馬を降り、雪解けの泥を踏んで歩いた。
胸の中は空洞だった。
勝利の響きだけが、遠い。
崩れた砲台の陰、焼け焦げた盾の山の向こうに、彼はそれを見つけた。
ガルドは仰向けに倒れ、目は半ば閉じ、口元にはほんの僅かな笑みが残っていた。
その笑みは、どんな勝利の勲章よりも重かった。
レグナは膝を泥に沈め、友の額に手を当てた。
冷たい。
喉の奥で何かがきしんだ。
声は出ない。
代わりに、手袋の中で指が震えた。
「……勝ったぞ。
お前の十五分で、俺たちは、勝てたんだ……」
誰にも届かぬ言葉。
雪解けの水音だけが、静かに返事をした。
日暮れ、戦場は急速に温度を失っていった。
魔導師団が炎の後始末をし、工兵が砲列を解体し、書記が戦果を記す。
帝都へ勝報の伝令が走るころ、レグナはただ一人、丘の上にいた。
天幕に戻れば歓待と盃が待っている。
栄光が、金と歌となって彼を包むだろう。
だが彼は、そこに戻る足を持たなかった。
「俺はいつから、人の命を数字に変えた?」
風が頬を撫でた。
冷たいはずの風が、やけに熱い。
答える者はいない。
ただ、遠くで鳥が一声鳴いた。
夜が濃くなるにつれて、かつての勝利の情景が脳裏をよぎった。
初陣での奇跡的な側面突破。
氷原での補給線遮断。
砂漠の蜃気楼を盾にした陽動。
どれも喝采を浴び、どれも歌になった。
しかし、そのたびに、名も知らぬ兵の顔が記憶から抜け落ちていった。
勝つたび、忘れる。
忘れることで、次の勝利に進む。
【戦慧】は勝利のために記憶さえ最適化する。
その機構の滑らかさが、いまはただ恐ろしい。
夜半、雪雲の切れ間から月がのぞいた。
白い光に照らされて、世界は一瞬、静謐の帳に包まれる。
その美しさが、むしろ罪の輪郭をくっきりと浮かび上がらせる。
レグナは両手を見下ろした。
幾つもの剣瘢と火傷、乾いた血。
この手は、どれほど多くの“最適解”を選び、どれほど多くの“二度と戻らない選択肢”を切り捨ててきたのだろう。
帝都に帰れば、彼は昇爵され、議会席を与えられ、軍制改革の長とされるはずだった。
だが、彼はふと想像する。
祝宴の廊下で交わされる薄っぺらな讃辞。
金杯に映る自分の顔。
その背後に、ガルドの笑顔。
盃を傾ける度に、杯は血の色に見えるだろう。
耳の奥で、あの冗談めかした声が蘇る。
──港町の酒場。
「お前が勲章で客を引け」「いや、お前の鍋が焦げ臭いから客が逃げる」
そうやって大笑いして、くだらない喧嘩をして、夜が更けたら安い酒で眠る。
その未来は、最適解のどの枝にも残らなかった。
雪解けの斜面を下りながら、レグナはゆっくりと決めた。
勝ち続ける限り、彼は人間ではいられない。
敗北だけが、いまの彼を“人”に戻す道だと。
だが、どうやって敗北を学ぶ?
【戦慧】のある限り、彼はまた最適解へと導かれてしまう。
勝利が呪いであるなら、その呪いを断ち切る術が必要だ。
その夜、野営地の遠い外れで彼は目を閉じた。
眠りは浅く、すぐに目が覚める。
雪原を渡る風が天幕をたたき、木杭が軋む。
彼はふと、天幕をめくって外に出た。
そこには、月光に薄く輝く雪の野と、誰もいない闇と、そして──言いようのない予感だけがあった。
勝利は、確かに国を救った。
けれど自身を救うのは、きっと別の何かだ。
それは剣でも、戦旗でも、勲章でもない。
レグナは手のひらを握り、開いた。
次に選ぶべきは“最適解”ではなく、“自分の答え”だ。
彼はゆっくりと息を吐き、月の淡い弧を見上げた。
そして、まだ見ぬ気配を、初めて心のどこかで待った。
◆
戦争が終わって一年。
帝都には栄光と祝杯が溢れていた。
だが、レグナの心には何一つ残らなかった。
毎夜見る夢。
燃え盛る陣地、倒れる兵、叫ぶ声。
その中で、いつもガルドが笑う。
『勝ってよかったな、将軍』
風のない部屋で、燭が微かに揺れた気がした。
ある夜、レグナは外套だけを掴み、城を出た。
親友の影から逃げるかのように。
夜更けの石畳。
城壁の影は長く伸び、門番は彼の顔を見ると無言で敬礼した。
彼は頷きだけ返し、人気の途絶えた街路を抜け、郊外へ歩いた。
月は薄く、野は白々としている。
雪解けの湿りが土を重たくし、靴底に鈍い感触が溜まる。
どれほど歩いたか分からない。
呼気が落ち着く頃、視界の端に“ありえないもの”が立っていた。
──扉。
荒野のただ中に、壁も柱もないのに、扉だけがあった。
鈍黒の鋼板に鋲が等間隔で打ち込まれ、厚い黒鉄の蝶番が月光を鈍く返す。
握りは輪状の鉄環で、額縁の浮き彫りには金の文字が沈んでいる。
《スキルショップ ~不要なスキル、買い取ります。必要なスキル、お売りします~》
「……この”必勝”の呪いを、捨てられるのか?」
夢だ、と彼は思った。
だが、冷えた指先に伝わった金属の温度は現実のそれだった。
レグナはゆっくりノブを回す。
中は、石と鉄で組まれた狭い間だった。
空気は乾き、油と古紙、それに微かな金属の匂いが混じる。
正面にはカウンター。
その向こうに、一人の老紳士が立っていた。
白髪に整った口髭、黒いロングコート。
琥珀の瞳は深く、しかし冷たくはない。
「ようこそ。
……お疲れのご様子ですな」
声は落ち着き、わずかな微笑を帯びている。
「ここは何だ?」
「掲げてあるとおりでございます。
スキルの売買を承る店。
不要な力を手放したい方、あるいは新たな力を求める方がお越しになります」
「……売ることができるのか。
生まれつきのスキルを」
「ええ。
持ち物には来歴があるだけ、というのが私の見立てでして」
老紳士はカウンター下から黒革装丁の帳面を取り出し、ゆっくりと開いた。
羊皮紙に細い金の罫が走り、書き手のいない文字が現れる。
レグナは躊躇いを飲み込み、真正面から老紳士を見据えた。
「俺は【戦慧】を売りたい」
老紳士の眉が、不意に柔らかく動いた。
驚きではない。覚悟を量る仕草だ。
「勝利の才を、ですか」
「勝ち続ける限り、俺は人でいられない。
負け方を知らぬ将は、結局、誰の痛みも等身で受け取れん。
……もう、勝ちたくない」
老紳士は頷いた。
「……お客様のような方は、時折いらっしゃいます。
勝つことに疲れた者。
知ることに疲れた者。
愛することに疲れた者。
──人は、手に余るものを持ちすぎると苦しむものです」
彼は帳面に金のペン先を触れさせ、静かに記した。
【戦慧】──買取希望/査定前
「取引に際し、規定をご説明いたします。
スキルの購入は、お客様の魂の寿命を代価として頂戴いたします。
最低限、一日分は残るように。
スキルの売却は、現金での対価をお支払いします。
……ただし、スキルを失えば、あなたが築いた全てを失う可能性があります」
「構わん。
それは、俺が奪った命の上に建った栄光だ。
壊れて然るべきだ」
「もう一点。
売却後、あなたは本当に“迷う”ようになります。
戦場で、街角で、家庭で。
最適解の少し手前で立ち止まる自分に、苛立つこともある。
それを人は、自由と呼びます。
……耐えられますかな」
レグナは小さく笑った。
笑い方を思い出すのに、一拍必要だった。
「その自由の無さが、いまの呪いだ」
「承知いたしました」
老紳士は帳面を閉じ、手袋を外した。
皺を刻む掌が正面に差し出される。
「では、手を」
レグナは手を伸ばした。
掌が触れた刹那、耳の奥で微音がした。
断たれた剣の鞘、その内側を指でなぞったような、生温い摩擦。
次いで、頭の奥に詰め込まれていた数式──勝率曲線、補給線の勾配、士気の揺らぎの微分──それらが音もなく解けていく。
視界の周辺に常在していた矢印(ベクトル)が消え、地平が“ただの地平”に戻る。
世界から“正解の光”が引き抜かれ、暗くなるのではなく、むしろ色が戻る。
雑音、匂い、寒さ。
兵の息と似た、名もない息遣い。
それらが、同時に押し寄せた。
膝が少し揺れた。
老紳士は手を離さない。
支えるでも、掴むでもなく、ただ“そこにいる”という圧で立ち会っている。
「……これが、迷う、か」
「おめでとうございます。
あなたは今、初めて“次の一歩を自分で選ぶ”地点に立っておられる」
レグナは深く息を吐いた。
肺の動きがやけに大きい。
長い間、彼は思考の動きに呼吸を合わせていた。
いま、呼吸が思考より先にある。
「代価を」
老紳士は大きな袋をひとつ差し出した。
革は柔らかく、詰まった硬貨のかすかな打ち合う音がする。
中には、小国ぐらいなら買えそうなほどの金が入っていた。
レグナは黙って受け取る。
「スキルの購入はされますか?」
「……いや、せっかく手に入れた自由だ。
スキルにはもう、縛られたくない」
レグナの返答に老紳士は優しく微笑む。
「では、取引は以上。
店を出られれば、扉は消えます。
道は──ご自由に」
振り返る。
石壁、鍛鉄の梁、遮光フードのランプが鈍く縁を光らせ、空気には油と古紙の匂いが薄く漂う。
ここに来る前の自分は、すべてに“答え”を貼る男だった。
今、目の前にあるのは札のない壁、名のない路地、答えのない朝。
**「どうする?」**と静かに迫ってくる現実そのものだ。
扉に手をかける。
開いた先は、月の滲む荒野だった。
振り返ると、老紳士が軽く会釈をしている。
「よい敗北を」
奇妙な祝詞だ、とレグナは思った。
だが、口の端が自然に上がる。
「……ああ、受け取りに行く」
扉を出た瞬間、背後の気配が消えた。
そこにはもう、風と草いきれと、遠い犬の遠吠えだけがあった。
レグナは一歩、踏み出した。
足裏に土がある。
宙に揺れていた“最適解”はもうない。
代わりに、彼自身の重さが、確かな答えとして地面に刻まれていく。
夜が明ければ、肩書きのない朝が来る。
勝ち方ではなく、働き方を覚える朝。
命令ではなく、挨拶から始まる朝。
彼は外套の襟を立て、風に顔を晒し、そのまま歩き出した。
初めて、自分の歩幅で。
◆
夜明けの郵便局で、レグナはひとつずつ封に蝋を落とした。
宛名は帝都から辺境の村落まで散り、封の内側には金貨と短い手紙が入っている。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
言葉を尽くしても、この想いのすべては届きません。
〔故人氏名〕は、最後の瞬間まで仲間の背を守り、
「これで家族と故郷を守れる」と笑っていました。
どうか、あなたがたの誇りを曇らせないでください。
わずかですが弔意を同封します。
返事はいりません。
私の中で彼は、これからも生き続けます。
安らぎが、あなた方にありますように。
レグナ・ヴァルドラ
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
一人一人の名前を、手紙に記す。
【戦慧】の影響で忘れた名前は、軍の名簿を調べながら丁寧に。
彼らを”数”にしてしまったことへの懺悔を込めて。
封を閉じるたび、胸のどこかで錆びた歯車が一つずつ外れていく感覚があった。
金はまだ残った。
だが自分のために使う気にはどうしてもなれない。
彼が向かったのは、海の向こう側、南回りの商船で二十日を要する港町だった。
草の匂いのする帝国の土とは違い、ここは潮と果物の香りが混ざる。
市場では異国の言葉が飛び交い、太鼓の音が夜を引き伸ばす。
誰も彼の名を知らない。
それが、何よりの贅沢だった。
港の外れ、潮風で斜めになった倉庫を借り、壁を抜き、梁を磨く。
看板は自分で彫った。
**〈ガルド亭〉**
雑な字が、むしろ彼らしい。
初日の客は三人。
干し鱈を肴に安酒を出し、海の話を聞いた。
次の日は七人、やがて十人。
漁師、荷揚げ人足、旅芸人、地図売り、船を降りたばかりの傭兵。
彼らは勝ち負けを語るより、今日の稼ぎや波の機嫌を語った。
レグナは彼らの言葉に、ひとつも“最適解”を貼らないことを自分に課した。
黙って酒を注ぎ、必要なときだけ短い相づちを打つ。
“戦場”にいた頃は捨ててきた音が、店の低い天井にゆっくり溜まっていく。
夜更け、客が途絶えると、彼は奥の小さな台所で鍋を磨いた。
ふと、柄の焦げに目が止まる。
ガルドなら「焦がすのは鍋じゃない、心だ」と笑うだろう。
レグナは、誰もいない台所で小さく笑った。
自由は、こういうときに静かに気づくものらしい。
◆
戦は“少しだけ”のつもりで始まる。
港の北方で、領境の小競り合いが起きたという噂が流れた。
最初の週は、帰らぬ船が一本。
次の週は、徴用の触れが町の掲示板に貼られる。
さらに次の週には、兵站の荷駄が港に並び、町の男たちに腕章が配られた。
「亭主、行くのかい」
カウンターの常連の老漁師が訊く。
レグナは首を横に振り、そして頷いた。
「店は閉めない。
だが、港を燃やされたら客も酒もなくなる。
……”勝ち”に行ってくる」
その夜、彼は粗末な木札にペンで書き付け、扉にぶら下げた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
営業中。
店主は北門へ。
鍋は裏にある。
勝手に使え。
代金は帰ってからでいい。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
笑いが起き、拍手が起き、誰かが「負けた日も酔わせろよ」と叫んだ。
レグナは親指を立て、古びた剣を肩に担いだ。
戦慧はもうない。
勝ち筋は見えない。
だからこそ、守る場所ははっきり見えた。
◆
北門は石造りの壁が海に向かって張り出し、狭い湾口を守っている。
敵は半日おきに押し寄せ、火矢で港を威嚇した。
指揮官は若いが骨がある。
レグナは名も告げず、その指揮に従った。
最適解を差し出す癖が喉まで出かかったが、噛み殺す。
自由は、口を噤むところから始まるのだと知った。
初日の夜、敵の先鋒が斜面を駆け上がり、柵が破られた。
悲鳴、怒号、火の粉。
レグナは真っ直ぐにそこへ走った。
盾を落とし、剣を横薙ぎに振るう。
重さが腕に戻っている。
“必勝の戦”ではないが、“必要な一歩”は分かる。
彼は若い防人の背を押し、倒れた者の腕を引き、火に包まれた荷車を横倒しにして即席の盾にした。
「ここを通すな!」
叫ぶと、誰かが「任せろ、亭主!」と返す。
声のやり取りは、方程式ではない。
血の匂いは、計算では消えない。
それでも、輪は一つずつ強くなる。
夜明け前、敵は一旦退いた。
湾口の向こう、薄い霧の中で帆影が揺れる。
レグナは膝に手をつき、呼吸を整えた。
生きていると、素直に思った。
◆
戦は三日続き、四日目の朝に最も激しくなった。
湾口から敵の火船が流れ込んできたのだ。
風は北東、潮は満ち始め。
勘で分かる。
まずい、と。
指揮官は迷った。
誰かが言う。
火船を止めろ、と。
誰かが言う。
門を閉めろ、と。
視線が散り、手が空を掴む。
レグナは自分の中の旧い機構が、無意識に回転を始めるのを感じた。
“最適解”は、もうない。
だが、積み重ねた経験は残っている。
彼は叫んだ。
「水路を開けるな!
火船は風下へ逃げ道を求める、湾口で絡め取れ!
縄と鉤を持て!
船腹に掛けろ、引くな、止めろ!」
言い終える前に、自分が先に飛び出していた。
石段を駆け下り、岸壁へ。
縄を掴み、鉤を投げる。
火の粉が頬を刺す。
背後で誰かが真似て鉤を投げ、別の誰かが罵声と笑い声を交互に放つ。
火船の舷側がガツンとぶつかり、石が悲鳴を上げる。
炎が伸びる。
レグナは縄を巻き取らせ、別の縄を投げ、三艘目に自分で飛び移って鉤を打った。
「戻れ、亭主!」
若い声がする。
彼は首を横に振った。
火の音がすべての音を呑む。
甲板の上で敵兵が現れ、刃が閃く。
レグナは腹で一度それを受け、肩で押し返し、剣の腹で落とした。
痛みは後回しだ。
火船が、石壁に絡みつく。
門が燃えずに済む。
それだけで、酒場の灯は守られる。
次の瞬間、背に焼ける感触が走った。
火の柱が爆ぜ、世界が白い。
耳の奥で海が鳴り、視界の端で誰かが泣き、誰かが笑う。
レグナは、まだ動く腕で縄を引いた。
火船は完全に絡め捕られ、動きを止めた。
岸壁に戻ったとき、膝が折れた。
腹の奥が温かい。指を当てると、ぬるい。
誰かが駆け寄り、彼の肩を抱いた。
見上げると、若い指揮官が泣いている。
「助かった……港が、町が……!」
レグナは笑った。
笑い方を、ガルドに教わった頃の顔で。
口が勝手に動き、短い言葉だけを置く。
「よい……敗北を」
意味が伝わったかどうかは分からない。
それでいい。
彼は視線を横に流し、遠くの湾を見た。
帆影は退いている。
港は、燃えない。
「……店を、頼む」
誰にともなく言うと、周りの者たちは我先に頷いた。
「鍋は焦がさねえ」「酒は薄めねえ」「看板は磨いとく」
約束の合唱が、海風にちぎれて飛ぶ。
レグナは満足した。
勝利の光は見えないが、灯は見える。
彼はゆっくり瞼を閉じた。
その内側に、雪解けと、焚き火と、若い笑い声が一度に灯る。
ガルドが、カウンターの向こうで腕を組んでいる。
「焦がすなよ、鍋」
「お前こそ」
そんな、どうでもいいやり取りが、胸の真ん中に温かく残った。
◆
翌朝、海は静かだった。
敵は引き、港は守られた。
**〈ガルド亭〉**の看板は煤けながらも立っている。
扉には、誰かの字で紙が貼られていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
本日も営業。
店主は先に行ったが、酒は残っている。
支払いは明日でもいい。
ここは、負けた日も酔って笑う店。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
昼過ぎ、遠くの丘の上で風が変わった。
人々が気づかぬ高さに、誰にも繋がらない鉄の扉がひっそりと現れる。
店の中、石と鉄と古紙の匂いのする静かな空間。
カウンターの向こうに立つのは、今日もあの老紳士だ。
黒革の帳面に細い金の文字が一行だけ沈む。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
買取スキル:【戦慧】
金額:国を傾けられる額
備考:敗北を知るため、買取を希望。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
老紳士はペン先を止め、目を細めた。
どこか遠い港町の、煤けた看板を思い浮かべる。
「”必勝の戦神”ではなく、”人”として散った勝者に、乾杯──」
扉は音もなく、その日の風景から抜け落ちる。
港には笑い声が戻り、夜には新しい灯がともる。
勝利の方程式のない世界で、守られたものが、静かに続いていく。
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