2. 敗北を知らない敗北者

 名将レグナ・ヴァルドラ。

 その名を知らぬ者は、この大陸にはいない。


 帝国軍第三師団長、歳は三十八。

 副官が記した戦歴には、百二十七戦百二十七勝とある。


 王都の吟遊詩人は彼を「必勝の戦神(いくさがみ)」と歌い、隣国の子どもですら木剣を振りかざして「ヴァルドラ将軍だ!」と叫んだ。


 だが、当の本人はその呼び名を最も嫌った。

 神と呼ばれるのは、血の匂いを知らぬ者の奢りだ──彼はそう思っていた。


 レグナには、生まれつき一つのスキルが備わっている。


【戦慧(せんけい)】

 戦場における情報(地勢、魔力流、風向、兵科配置、士気、補給線、指揮系統の脆弱点)を一呼吸で統合し、勝率最大化の行動列を導出する。

 発動中、思考は千倍速に近づき、敵味方の“次の手”が確率分布として視える。


 このスキルは、敗北の可能性を限りなく零に近づける。

 彼の視界には、味方の歩調や騎兵の蹄の揺れすら数式に変換され、丘の勾配は等高線ではなく「突破に最適な角度」として浮かび上がる。

 魔術師が詠唱で雨を、工兵が杭で壁を、弓兵が矢で空を支配するあいだ、彼はただ静かに“最短で勝つ道”を辿るだけでよかった。


 だが、その道は常に誰かの血を踏む道でもある。


 最後の大戦は、北境の強国グランデリアとの決戦だった。


 敵軍十万。

 魔導砲列の轟音が山脈を震わせ、蒼鋼の巨兵〈ゴーレム〉が雪原を割って進む。

 対する帝国軍は三万。


 陣幕の中、参謀たちは口角泡を飛ばして進言した。

 魔力嵐が来るまで耐えれば、と。

 雪解けを待って転進すれば、と。


 レグナは黙っていた。

 沈黙の裏で、【戦慧】がひたすらに計算を続けていたからだ。


 やがて一つだけ、確率が跳ね上がる経路が示された。


 ──“親友の部隊を囮にする”。


 ガルド・アーレン。

 少年の頃から共に剣を学び、初陣では同じ焚き火の煙を吸い、寒さに震えながら干し肉を割って分け合った男。

 粗野で、口は悪いが、誰よりも味方の背を守る戦士だった。


「戦が終わったら港町に小さな酒場を作ろう。

 お前が勲章で客を引き、俺が鍋を回す。

 ──それで毎晩、負けた日も酔って笑うんだ」


 そう言って、何度も肩をぶつけ合って笑った。


 ガルド、お前の命が鍵だというのか……。


 スキルの“最適解”は冷酷だ。


 ガルドの重歩兵二千を敵中に突入させ、魔導砲の照準を意図的に吸い寄せ、十五分耐えさせる。

 敵の砲列が過熱で一斉整備に入る瞬間、右翼騎兵を雪崖に沿って回し、砲兵の背を断つ。

 中央は偽装退却、左翼は踏みとどまり、魔導師団は風向の転じる刻に合わせて煙幕を増幅させる。


 勝率、百パーセント。

 味方損耗率、最小。

 民間被害、最小。

 そして、ガルドの帰還率、零。


 胃の底に熱い鉛が落ちたようだった。


 レグナは幕舎の布を押し開け、外の夜気を吸い込んだ。

 雪解け水の匂い。

 遠い雷鳴。


 兵の寝息が波のように寄せては返すその真ん中で、ただ一人、彼はじっと立ち尽くした。


 夜明け前、レグナはガルドを呼んだ。

 焚き火の端で、友は無造作に兜を指先で回し、火花を見ていた。


 すべてを告げると、ガルドは笑った。

 あっけらかんと、いつもの調子で。


「囮か、いいさ。

 お前が“勝つ”って言うなら、やる。

 どうせ俺は、お前より先に酒場の鍋を焦がすタイプだ」


 冗談めかして肩を叩き、背を向ける。

 レグナはその手首を掴んだ。

 言葉が出ない。


 ガルドは振り向かず、手だけを強く握り返した。

 あの、大きくて温かい手。

 次の瞬間には離れて、彼は歩き出していた。


 暁が、雪解けの谷に薄桃の光を落とす。


 角笛が三度鳴った。

 重歩兵の波が、敵陣めがけて雪を蹴り裂いていく。

 盾が打ち鳴らされ、武具が歌い、喉が裂ける声が空を震わせる。


 グランデリアの砲列に灯が走り、白い吐息の先で炎が花開いた。

 轟音。

 空気が弾け、地面が跳ね上がる。

 

 重厚な盾が砕け、列が崩れる。

 それでも突き進む。

 十五分──一秒が鉛のように重い十五分だ。

 敵中で、ガルドの旗が何度も揺れ、倒れ、また揚がる。

 

 煙の幕が風に乗って広がり、砲列の視界が潰れる。

 その瞬間、右翼騎兵が雪崖の影から飛び出し、轟音の背を断った。

 中央は偽装退却からの反転、左翼は踏みとどまり、魔導師団の詠唱が空の色を変える。

 砲声が途切れ、敵の陣形が崩れ、帝国軍の旗が本陣を包み込む。


 勝利は、紙に書かれた数式のとおりに訪れた。


 戦場に歓声が渦巻く。

 兵は泣き、抱き合い、地面に口づけをする。

 遠くの村々で鐘が鳴り、王都では祝砲の準備が進んでいるだろう。


 レグナは馬を降り、雪解けの泥を踏んで歩いた。

 胸の中は空洞だった。

 勝利の響きだけが、遠い。


 崩れた砲台の陰、焼け焦げた盾の山の向こうに、彼はそれを見つけた。

 ガルドは仰向けに倒れ、目は半ば閉じ、口元にはほんの僅かな笑みが残っていた。

 その笑みは、どんな勝利の勲章よりも重かった。


 レグナは膝を泥に沈め、友の額に手を当てた。

 冷たい。

 喉の奥で何かがきしんだ。

 声は出ない。

 代わりに、手袋の中で指が震えた。


「……勝ったぞ。

 お前の十五分で、俺たちは、勝てたんだ……」


 誰にも届かぬ言葉。

 雪解けの水音だけが、静かに返事をした。


 日暮れ、戦場は急速に温度を失っていった。

 魔導師団が炎の後始末をし、工兵が砲列を解体し、書記が戦果を記す。

 

 帝都へ勝報の伝令が走るころ、レグナはただ一人、丘の上にいた。

 天幕に戻れば歓待と盃が待っている。

 栄光が、金と歌となって彼を包むだろう。

 だが彼は、そこに戻る足を持たなかった。


「俺はいつから、人の命を数字に変えた?」


 風が頬を撫でた。

 冷たいはずの風が、やけに熱い。

 答える者はいない。

 ただ、遠くで鳥が一声鳴いた。


 夜が濃くなるにつれて、かつての勝利の情景が脳裏をよぎった。

 初陣での奇跡的な側面突破。

 氷原での補給線遮断。

 砂漠の蜃気楼を盾にした陽動。


 どれも喝采を浴び、どれも歌になった。

 しかし、そのたびに、名も知らぬ兵の顔が記憶から抜け落ちていった。

 勝つたび、忘れる。

 忘れることで、次の勝利に進む。

 【戦慧】は勝利のために記憶さえ最適化する。

 その機構の滑らかさが、いまはただ恐ろしい。


 夜半、雪雲の切れ間から月がのぞいた。

 白い光に照らされて、世界は一瞬、静謐の帳に包まれる。

 その美しさが、むしろ罪の輪郭をくっきりと浮かび上がらせる。


 レグナは両手を見下ろした。

 幾つもの剣瘢と火傷、乾いた血。

 この手は、どれほど多くの“最適解”を選び、どれほど多くの“二度と戻らない選択肢”を切り捨ててきたのだろう。


 帝都に帰れば、彼は昇爵され、議会席を与えられ、軍制改革の長とされるはずだった。

 

 だが、彼はふと想像する。

 祝宴の廊下で交わされる薄っぺらな讃辞。

 金杯に映る自分の顔。

 その背後に、ガルドの笑顔。

 盃を傾ける度に、杯は血の色に見えるだろう。


 耳の奥で、あの冗談めかした声が蘇る。

 ──港町の酒場。


 「お前が勲章で客を引け」「いや、お前の鍋が焦げ臭いから客が逃げる」


 そうやって大笑いして、くだらない喧嘩をして、夜が更けたら安い酒で眠る。

 その未来は、最適解のどの枝にも残らなかった。


 雪解けの斜面を下りながら、レグナはゆっくりと決めた。

 勝ち続ける限り、彼は人間ではいられない。

 敗北だけが、いまの彼を“人”に戻す道だと。


 だが、どうやって敗北を学ぶ?

 【戦慧】のある限り、彼はまた最適解へと導かれてしまう。

 勝利が呪いであるなら、その呪いを断ち切る術が必要だ。


 その夜、野営地の遠い外れで彼は目を閉じた。

 眠りは浅く、すぐに目が覚める。

 雪原を渡る風が天幕をたたき、木杭が軋む。

 彼はふと、天幕をめくって外に出た。

 そこには、月光に薄く輝く雪の野と、誰もいない闇と、そして──言いようのない予感だけがあった。


 勝利は、確かに国を救った。

 けれど自身を救うのは、きっと別の何かだ。

 それは剣でも、戦旗でも、勲章でもない。


 レグナは手のひらを握り、開いた。

 次に選ぶべきは“最適解”ではなく、“自分の答え”だ。

 彼はゆっくりと息を吐き、月の淡い弧を見上げた。

 そして、まだ見ぬ気配を、初めて心のどこかで待った。


 ◆


 戦争が終わって一年。

 帝都には栄光と祝杯が溢れていた。

 だが、レグナの心には何一つ残らなかった。


 毎夜見る夢。

 燃え盛る陣地、倒れる兵、叫ぶ声。

 その中で、いつもガルドが笑う。


『勝ってよかったな、将軍』


 風のない部屋で、燭が微かに揺れた気がした。

 

 ある夜、レグナは外套だけを掴み、城を出た。

 親友の影から逃げるかのように。

 

 夜更けの石畳。

 城壁の影は長く伸び、門番は彼の顔を見ると無言で敬礼した。

 彼は頷きだけ返し、人気の途絶えた街路を抜け、郊外へ歩いた。


 月は薄く、野は白々としている。

 雪解けの湿りが土を重たくし、靴底に鈍い感触が溜まる。

 どれほど歩いたか分からない。

 呼気が落ち着く頃、視界の端に“ありえないもの”が立っていた。


 ──扉。


 荒野のただ中に、壁も柱もないのに、扉だけがあった。

 鈍黒の鋼板に鋲が等間隔で打ち込まれ、厚い黒鉄の蝶番が月光を鈍く返す。

 握りは輪状の鉄環で、額縁の浮き彫りには金の文字が沈んでいる。


《スキルショップ ~不要なスキル、買い取ります。必要なスキル、お売りします~》


「……この”必勝”の呪いを、捨てられるのか?」


 夢だ、と彼は思った。

 だが、冷えた指先に伝わった金属の温度は現実のそれだった。

 レグナはゆっくりノブを回す。


 中は、石と鉄で組まれた狭い間だった。

 空気は乾き、油と古紙、それに微かな金属の匂いが混じる。

 

 正面にはカウンター。

 その向こうに、一人の老紳士が立っていた。

 白髪に整った口髭、黒いロングコート。

 琥珀の瞳は深く、しかし冷たくはない。


「ようこそ。

 ……お疲れのご様子ですな」


 声は落ち着き、わずかな微笑を帯びている。


「ここは何だ?」


「掲げてあるとおりでございます。

 スキルの売買を承る店。

 不要な力を手放したい方、あるいは新たな力を求める方がお越しになります」


「……売ることができるのか。

 生まれつきのスキルを」


「ええ。

 持ち物には来歴があるだけ、というのが私の見立てでして」


 老紳士はカウンター下から黒革装丁の帳面を取り出し、ゆっくりと開いた。

 羊皮紙に細い金の罫が走り、書き手のいない文字が現れる。

 レグナは躊躇いを飲み込み、真正面から老紳士を見据えた。


「俺は【戦慧】を売りたい」


 老紳士の眉が、不意に柔らかく動いた。

 驚きではない。覚悟を量る仕草だ。


「勝利の才を、ですか」


「勝ち続ける限り、俺は人でいられない。

 負け方を知らぬ将は、結局、誰の痛みも等身で受け取れん。

 ……もう、勝ちたくない」


 老紳士は頷いた。


「……お客様のような方は、時折いらっしゃいます。

 勝つことに疲れた者。

 知ることに疲れた者。

 愛することに疲れた者。

 ──人は、手に余るものを持ちすぎると苦しむものです」


 彼は帳面に金のペン先を触れさせ、静かに記した。


【戦慧】──買取希望/査定前


「取引に際し、規定をご説明いたします。

 スキルの購入は、お客様の魂の寿命を代価として頂戴いたします。

 最低限、一日分は残るように。

 スキルの売却は、現金での対価をお支払いします。

 ……ただし、スキルを失えば、あなたが築いた全てを失う可能性があります」


「構わん。

 それは、俺が奪った命の上に建った栄光だ。

 壊れて然るべきだ」


「もう一点。

 売却後、あなたは本当に“迷う”ようになります。

 戦場で、街角で、家庭で。

 最適解の少し手前で立ち止まる自分に、苛立つこともある。

 それを人は、自由と呼びます。

 ……耐えられますかな」


 レグナは小さく笑った。

 笑い方を思い出すのに、一拍必要だった。


「その自由の無さが、いまの呪いだ」


「承知いたしました」


 老紳士は帳面を閉じ、手袋を外した。

 皺を刻む掌が正面に差し出される。


「では、手を」


 レグナは手を伸ばした。

 掌が触れた刹那、耳の奥で微音がした。

 断たれた剣の鞘、その内側を指でなぞったような、生温い摩擦。


 次いで、頭の奥に詰め込まれていた数式──勝率曲線、補給線の勾配、士気の揺らぎの微分──それらが音もなく解けていく。

 視界の周辺に常在していた矢印(ベクトル)が消え、地平が“ただの地平”に戻る。

 世界から“正解の光”が引き抜かれ、暗くなるのではなく、むしろ色が戻る。

 

 雑音、匂い、寒さ。

 兵の息と似た、名もない息遣い。

 それらが、同時に押し寄せた。


 膝が少し揺れた。

 老紳士は手を離さない。

 支えるでも、掴むでもなく、ただ“そこにいる”という圧で立ち会っている。


「……これが、迷う、か」


「おめでとうございます。

 あなたは今、初めて“次の一歩を自分で選ぶ”地点に立っておられる」


 レグナは深く息を吐いた。

 肺の動きがやけに大きい。

 長い間、彼は思考の動きに呼吸を合わせていた。

 いま、呼吸が思考より先にある。


「代価を」


 老紳士は大きな袋をひとつ差し出した。

 革は柔らかく、詰まった硬貨のかすかな打ち合う音がする。

 中には、小国ぐらいなら買えそうなほどの金が入っていた。


 レグナは黙って受け取る。


「スキルの購入はされますか?」


「……いや、せっかく手に入れた自由だ。

 スキルにはもう、縛られたくない」


 レグナの返答に老紳士は優しく微笑む。


「では、取引は以上。

 店を出られれば、扉は消えます。

 道は──ご自由に」


 振り返る。

 石壁、鍛鉄の梁、遮光フードのランプが鈍く縁を光らせ、空気には油と古紙の匂いが薄く漂う。

 ここに来る前の自分は、すべてに“答え”を貼る男だった。

 今、目の前にあるのは札のない壁、名のない路地、答えのない朝。

 **「どうする?」**と静かに迫ってくる現実そのものだ。


 扉に手をかける。

 開いた先は、月の滲む荒野だった。

 振り返ると、老紳士が軽く会釈をしている。


「よい敗北を」


 奇妙な祝詞だ、とレグナは思った。

 だが、口の端が自然に上がる。


「……ああ、受け取りに行く」


 扉を出た瞬間、背後の気配が消えた。

 そこにはもう、風と草いきれと、遠い犬の遠吠えだけがあった。


 レグナは一歩、踏み出した。

 足裏に土がある。

 宙に揺れていた“最適解”はもうない。

 代わりに、彼自身の重さが、確かな答えとして地面に刻まれていく。


 夜が明ければ、肩書きのない朝が来る。

 勝ち方ではなく、働き方を覚える朝。

 命令ではなく、挨拶から始まる朝。


 彼は外套の襟を立て、風に顔を晒し、そのまま歩き出した。

 初めて、自分の歩幅で。


 ◆


 夜明けの郵便局で、レグナはひとつずつ封に蝋を落とした。

 宛名は帝都から辺境の村落まで散り、封の内側には金貨と短い手紙が入っている。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 言葉を尽くしても、この想いのすべては届きません。

 〔故人氏名〕は、最後の瞬間まで仲間の背を守り、

 「これで家族と故郷を守れる」と笑っていました。


 どうか、あなたがたの誇りを曇らせないでください。


 わずかですが弔意を同封します。

 返事はいりません。

 私の中で彼は、これからも生き続けます。


 安らぎが、あなた方にありますように。


                レグナ・ヴァルドラ


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 一人一人の名前を、手紙に記す。

 【戦慧】の影響で忘れた名前は、軍の名簿を調べながら丁寧に。

 彼らを”数”にしてしまったことへの懺悔を込めて。


 封を閉じるたび、胸のどこかで錆びた歯車が一つずつ外れていく感覚があった。

 金はまだ残った。

 だが自分のために使う気にはどうしてもなれない。


 彼が向かったのは、海の向こう側、南回りの商船で二十日を要する港町だった。

 草の匂いのする帝国の土とは違い、ここは潮と果物の香りが混ざる。

 市場では異国の言葉が飛び交い、太鼓の音が夜を引き伸ばす。


 誰も彼の名を知らない。

 それが、何よりの贅沢だった。


 港の外れ、潮風で斜めになった倉庫を借り、壁を抜き、梁を磨く。

 看板は自分で彫った。


 **〈ガルド亭〉**


 雑な字が、むしろ彼らしい。


 初日の客は三人。

 干し鱈を肴に安酒を出し、海の話を聞いた。


 次の日は七人、やがて十人。

 漁師、荷揚げ人足、旅芸人、地図売り、船を降りたばかりの傭兵。

 彼らは勝ち負けを語るより、今日の稼ぎや波の機嫌を語った。


 レグナは彼らの言葉に、ひとつも“最適解”を貼らないことを自分に課した。

 黙って酒を注ぎ、必要なときだけ短い相づちを打つ。

 “戦場”にいた頃は捨ててきた音が、店の低い天井にゆっくり溜まっていく。


 夜更け、客が途絶えると、彼は奥の小さな台所で鍋を磨いた。

 ふと、柄の焦げに目が止まる。

 ガルドなら「焦がすのは鍋じゃない、心だ」と笑うだろう。

 レグナは、誰もいない台所で小さく笑った。

 自由は、こういうときに静かに気づくものらしい。


 ◆


 戦は“少しだけ”のつもりで始まる。

 港の北方で、領境の小競り合いが起きたという噂が流れた。

 最初の週は、帰らぬ船が一本。


 次の週は、徴用の触れが町の掲示板に貼られる。

 さらに次の週には、兵站の荷駄が港に並び、町の男たちに腕章が配られた。


 「亭主、行くのかい」


 カウンターの常連の老漁師が訊く。

 レグナは首を横に振り、そして頷いた。


「店は閉めない。

 だが、港を燃やされたら客も酒もなくなる。

 ……”勝ち”に行ってくる」


 その夜、彼は粗末な木札にペンで書き付け、扉にぶら下げた。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 営業中。

 店主は北門へ。

 鍋は裏にある。

 勝手に使え。

 代金は帰ってからでいい。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 笑いが起き、拍手が起き、誰かが「負けた日も酔わせろよ」と叫んだ。

 レグナは親指を立て、古びた剣を肩に担いだ。


 戦慧はもうない。

 勝ち筋は見えない。

 だからこそ、守る場所ははっきり見えた。


 ◆


 北門は石造りの壁が海に向かって張り出し、狭い湾口を守っている。

 敵は半日おきに押し寄せ、火矢で港を威嚇した。


 指揮官は若いが骨がある。

 レグナは名も告げず、その指揮に従った。


 最適解を差し出す癖が喉まで出かかったが、噛み殺す。

 自由は、口を噤むところから始まるのだと知った。


 初日の夜、敵の先鋒が斜面を駆け上がり、柵が破られた。

 悲鳴、怒号、火の粉。

 レグナは真っ直ぐにそこへ走った。


 盾を落とし、剣を横薙ぎに振るう。

 重さが腕に戻っている。

 “必勝の戦”ではないが、“必要な一歩”は分かる。


 彼は若い防人の背を押し、倒れた者の腕を引き、火に包まれた荷車を横倒しにして即席の盾にした。


 「ここを通すな!」


 叫ぶと、誰かが「任せろ、亭主!」と返す。

 声のやり取りは、方程式ではない。

 血の匂いは、計算では消えない。

 それでも、輪は一つずつ強くなる。


 夜明け前、敵は一旦退いた。

 湾口の向こう、薄い霧の中で帆影が揺れる。

 レグナは膝に手をつき、呼吸を整えた。

 生きていると、素直に思った。


 ◆


 戦は三日続き、四日目の朝に最も激しくなった。

 湾口から敵の火船が流れ込んできたのだ。

 風は北東、潮は満ち始め。

 勘で分かる。

 まずい、と。


 指揮官は迷った。


 誰かが言う。

 火船を止めろ、と。

 誰かが言う。

 門を閉めろ、と。


 視線が散り、手が空を掴む。


 レグナは自分の中の旧い機構が、無意識に回転を始めるのを感じた。

 “最適解”は、もうない。

 だが、積み重ねた経験は残っている。

 彼は叫んだ。


「水路を開けるな!

 火船は風下へ逃げ道を求める、湾口で絡め取れ!

 縄と鉤を持て!

 船腹に掛けろ、引くな、止めろ!」


 言い終える前に、自分が先に飛び出していた。

 石段を駆け下り、岸壁へ。

 縄を掴み、鉤を投げる。


 火の粉が頬を刺す。

 背後で誰かが真似て鉤を投げ、別の誰かが罵声と笑い声を交互に放つ。

 火船の舷側がガツンとぶつかり、石が悲鳴を上げる。

 炎が伸びる。

 レグナは縄を巻き取らせ、別の縄を投げ、三艘目に自分で飛び移って鉤を打った。


 「戻れ、亭主!」


 若い声がする。

 彼は首を横に振った。


 火の音がすべての音を呑む。

 甲板の上で敵兵が現れ、刃が閃く。

 レグナは腹で一度それを受け、肩で押し返し、剣の腹で落とした。

 痛みは後回しだ。


 火船が、石壁に絡みつく。

 門が燃えずに済む。

 それだけで、酒場の灯は守られる。


 次の瞬間、背に焼ける感触が走った。

 火の柱が爆ぜ、世界が白い。

 耳の奥で海が鳴り、視界の端で誰かが泣き、誰かが笑う。

 レグナは、まだ動く腕で縄を引いた。

 火船は完全に絡め捕られ、動きを止めた。


 岸壁に戻ったとき、膝が折れた。

 腹の奥が温かい。指を当てると、ぬるい。

 誰かが駆け寄り、彼の肩を抱いた。

 見上げると、若い指揮官が泣いている。


「助かった……港が、町が……!」


 レグナは笑った。

 笑い方を、ガルドに教わった頃の顔で。

 口が勝手に動き、短い言葉だけを置く。


「よい……敗北を」


 意味が伝わったかどうかは分からない。

 それでいい。

 彼は視線を横に流し、遠くの湾を見た。

 帆影は退いている。

 港は、燃えない。


 「……店を、頼む」


 誰にともなく言うと、周りの者たちは我先に頷いた。


 「鍋は焦がさねえ」「酒は薄めねえ」「看板は磨いとく」


 約束の合唱が、海風にちぎれて飛ぶ。

 レグナは満足した。

 勝利の光は見えないが、灯は見える。


 彼はゆっくり瞼を閉じた。

 その内側に、雪解けと、焚き火と、若い笑い声が一度に灯る。

 ガルドが、カウンターの向こうで腕を組んでいる。


 「焦がすなよ、鍋」


 「お前こそ」


 そんな、どうでもいいやり取りが、胸の真ん中に温かく残った。


 ◆


 翌朝、海は静かだった。

 敵は引き、港は守られた。


 **〈ガルド亭〉**の看板は煤けながらも立っている。

 扉には、誰かの字で紙が貼られていた。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 本日も営業。

 店主は先に行ったが、酒は残っている。

 支払いは明日でもいい。

 ここは、負けた日も酔って笑う店。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆




 昼過ぎ、遠くの丘の上で風が変わった。

 人々が気づかぬ高さに、誰にも繋がらない鉄の扉がひっそりと現れる。

 店の中、石と鉄と古紙の匂いのする静かな空間。

 カウンターの向こうに立つのは、今日もあの老紳士だ。


 黒革の帳面に細い金の文字が一行だけ沈む。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 買取スキル:【戦慧】

 金額:国を傾けられる額

 備考:敗北を知るため、買取を希望。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 老紳士はペン先を止め、目を細めた。

 どこか遠い港町の、煤けた看板を思い浮かべる。


「”必勝の戦神”ではなく、”人”として散った勝者に、乾杯──」


 扉は音もなく、その日の風景から抜け落ちる。

 港には笑い声が戻り、夜には新しい灯がともる。

 勝利の方程式のない世界で、守られたものが、静かに続いていく。

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