いらっしゃいませ、スキルショップへようこそ ~不要なスキル、買い取ります。必要なスキル、お売りします~
なのさま
1. 愛はあなたのすぐそばに
扉をそっと押し開けると、乾いた薬草の匂いがやわらかく鼻をくすぐった。
湯気の立つ椀を両手で抱えながら、僕はベッド脇の小机にそっと置く。
「持ってきたよ、メアリー。
今朝の分。
ちょっと苦いけど……温かいうちにね」
彼女は枕にもたれて、ゆっくりと微笑もうとする。
微笑みはちゃんとそこにあるのに、頬の筋肉が追いつかない。
左手を椀に伸ばそうとして、あと指一本分が届かない。
僕は迷わず手を添え、口元へ運ぶ。
薬碗の縁が触れると、彼女の薬指の輪が朝の光を掬った。
白金の指輪。
細工した蝶が、一瞬だけ羽ばたいたように見える。
「……ジョシュア、いつもごめんね」
「謝らなくていいよ。
僕がしたくてしていることだから」
「それでも、ね。
あなたの時間も夢も、私が止めてしまってる。
だから……婚約のこと、もう一度──」
その言葉は、もう何度目だろう。
僕は小さく首を振って、目を見た。
「メアリー。
僕はね、注文書よりも、君と過ごす時間が欲しいんだ。
だから大丈夫。
……ほら、ひと口飲んで」
「うん……。
あなたが持ってきてくれると、不思議と飲めるの」
気まずさみたいなものが空気の底に薄く残る。
僕は話題の向きを、いつものように少しだけ変える。
「今日はおじさんが──」
白金の輪がきらりと光る。
その煌めきに、僕の胸の奥で小さな引き出しが開いた。
あの頃の匂いと色が、そっとこぼれてくる。
◆
メアリーとは家が隣同士だった。
彼女はいつだって明るく、優しかった。
畑の畦道で誰かが転べば真っ先に駆け寄るし、近所の猫の名前もすぐ覚える。
笑うと頬に小さなえくぼができる。
そのえくぼが、陽だまりみたいだと僕は思っていた。
一方の僕は、外で走り回るより父の工房にいる時間の方が長かった。
父は金細工職人で、父が金槌を振るたび、金属は花びらのように形を変える。
火は赤く、やがて青く、最後に静かに沈む。
父の指はいつも煤で黒く汚れていたが、出来あがった細工は清らかに光った。
──いつか、僕も父のようになりたい。
夜更け、工房の灯は遅くまで消えない。
早く父に追い付きたくて、僕は寝る間も惜しんで勉強した。
たまに、メアリーは工房に来て「休憩!」と勝手に宣言し、僕の腕を引っ張って外に連れ出した。
丘の上、風の通る場所。
麦の海と、遠い山並み。
煤と金粉の匂いに慣れた鼻に、草いきれの新しい匂いが差しこむ。
いつだったか、僕たちは花畑で蝶を見た。
白と青を溶かしたような翅が、光に薄く透ける。
メアリーは目を丸くして、胸の前でそっと両手を合わせた。
「きれい……」
その小さな吐息が、僕の耳に熱を残した。
蝶はしばらく僕たちの周りを飛び、やがて空へ溶けていった
その日からしばらく、工房の机の端に、小さな紙片がいくつも増えた。
蝶のスケッチ。
翅脈の線を探る鉛筆の跡。
「蝶は”再生”と”永遠”の象徴なんだって」
メアリーの誕生日に、僕は銀のスプーンを渡した。
柄の部分に彫ったのは、あの日の蝶だ。
翅の縁が、光を受ける角度でふっと浮き上がるように細工されている。
包みを開いたメアリーは、何も言えずに目を潤ませた。
言葉の代わりに、スプーンの柄を指でなぞり、笑った。
その笑顔に、僕は初めて胸の奥の何かがはっきり形を持ったのを感じた。
年月は流れ、僕は父に一部の仕事を任されるようになり、工房の隅の作業台が「ジョシュアの場所」になった。
メアリーは差し入れを持ってきて、火加減に口を出す。
笑いながら、出来たばかりの指輪や留め具を光にかざす。
「もっとここ、細くできるんじゃない?」
「注文主より厳しいな、君は」
叱咤と栄養をくれる彼女のおかげで、ジョシュアの手は早く、確かになった。
やがて父が「任せた」と言った日、工房の空気が一段澄んだ気がした。
仕事は増え、”ジョシュア”の名も少しずつ通りに出るようになった。
そして、僕は白金の指輪を作った。
小さな蝶が輪の上で休む意匠だ。
あの小さな丘で、僕は不器用に言葉を探し、最後は指輪を差し出した。
メアリーは泣き笑いの顔で何度も頷いた。
二人は幸福の頂に立っていると思った。
風も、陽も、すべてが祝福のようだった。
──けれど、その明るさは長く続かなかった。
婚約からしばらくして、メアリーの身体に異変が起きた。
指先の力が、ふっと抜ける。
立ち上がると、膝が頼りない。
医者は冷たい声で診断名を告げた──筋硬病。
筋肉が少しずつ、固く凍るみたいに動かなくなる。
やがて呼吸も難しくなり、発症から一年もすれば、命は尽きるだろう、と。
絶望の夜、メアリーから別れを切り出された。
「あなたに、迷惑はかけられない。
だから──」
僕は彼女を抱きしめて、首を振った。
腕の中で、彼女の肩が小さく震えた。
「治すことはできないが、進みを遅らせる薬草はある──」
医者の言葉に、僕は縋る場所を見つけた。
翌朝から僕は山へ入った。
靴底に土を重ね、手に傷を増やし、指に薬草の青い匂いを染み込ませた。
時間を、ひと葉ずつ集めるように。
◆
それから数ヶ月。
メアリーはほとんど寝たきりになった。
窓は朝と昼と夕方の光を順番に運び、白金の輪はそのたび微かに輝く。
蝶は、指の上でじっと羽を休めている。
「……ねえ、ジョシュア」
「うん?」
「この薬、味は相変わらずだけど、あなたが持ってくると、不思議と飲めるの」
「じゃあ、明日も持ってくる」
僕は笑って、空いた薬碗を重ねた。
窓辺の花瓶に挿した野の花が、小さく揺れた。
外では風が麦を撫でているはずだ。
工房の火は、今は落としてある。
工具は静かに僕を待っている。
──待っててくれ。
僕は、どちらも手放さない。
扉に手をかける前、ふと視界の端を白いものが横切った。
一匹の蝶が、窓から差す光にふわりと舞いこみ、メアリーの指輪の上で、確かに羽を打ったように見えた。
止まりかけた時間の中、確かに何かが動いた気がした。
僕は深く息を吸い、扉を開けた。
◆
いつものように山で薬草を採っていた。
空気は澄み、鳥の声だけが響く。
けれど、その穏やかさは僕の心には少しも届かない。
(神様は、いないのか……?)
小さく呟き、天を仰ごうとしたその瞬間──。
目の前の空間が、波打つように歪んだ。
風もないのに木々の葉が震え、光が一点に収束する。
そして──”扉だけ”が、ぽつりとそこに立っていた。
木製の、どこか古びた片開きの扉。
だが周囲には壁も家もない。
ただ山の中に、唐突に。
扉には金の文字が浮かんでいた。
『スキルショップ ~不要なスキル、買い取ります。必要なスキル、お売りします~』
「……スキルショップ?」
思わず声が漏れる。
スキルと言えば、鍛冶や料理の腕前のことだろうか。
こんな得体の知れない扉、普通なら近づくべきじゃない。
だけど──胸の奥に、一つだけ確かな思いがあった。
(もし、メアリーを助けられるなら)
気がつけば、僕はドアノブに手をかけていた。
ギィ、と音を立てて扉を開く。
中は木造の小さな建物。
香ばしい樹脂の匂いが漂い、奥にはカウンターが一つ。
その向こうに、一人の男が立っていた。
年は二十代半ばほど。
整った顔立ちに、穏やかな笑み。
けれどその瞳の奥には、不思議な深みがある。
「いらっしゃいませ。
スキルショップへようこそ」
「……すみません。ここは……どういうお店なんですか?」
「はい。当店では《スキル》を売買しております」
「スキル……鍛冶とか、料理とか、そういう──」
「ええ、それも立派なスキルです。
ですが、当店で扱うのはもう少し”異なるもの”です」
男は微笑みを崩さぬまま、片手を軽く掲げた。
「──例えば、火を出したり」
掌から炎が生まれ、ゆらゆらと揺れる。
目を疑って瞬きをしていると、彼はその手でカウンターを指で押した。
「あるいは、怪力になったり」
厚い木のカウンターが、音もなくへこんだ。
「あるいは、壊れたものを修復することもできます」
凹みを指でなぞると、木目が元に戻る。
僕は息を呑んだ。
「こういった力を、当店ではスキルと呼んでおります。
超能力、異能、神通力──呼び名はいろいろありますが、実態は同じです」
男の声は柔らかい。
けれどその穏やかさが、逆に恐ろしかった。
……だけど。
もし本当にそんな力があるなら、僕が今求めているものは一つしかない。
「……そのスキルに、”病を治す”ものはありますか?」
男の微笑みが、わずかに深まった。
「ええ、ございます。
商品をご覧いただく前に、仕組みをご説明いたします」
彼は丁寧に頭を下げ、言葉を続けた。
「当店ではスキルの売買が可能です。
お客様がお持ちのスキルを売却される場合、現金で買い取らせていただきます。
一方、スキルを購入される場合──その価値に見合うだけの”魂の寿命”をいただきます」
「た、魂……?」
「はい。
ですがご安心ください。
最低一日は必ず生きられるよう、取引を設計しております。
取引した直後に命を落とすようなことはございません」
一日。
”一日だけは生きられる”──その言葉が、氷のように胸に突き刺さった。
「こちらから提示する“ご購入可能”スキルは、“残存寿命から一日を差し引いた範囲”で交換できるもののみです。
スキルの購入は人生で一度だけ。
売却は何度でも可能です。
……ご質問はございますか?」
彼の笑顔は変わらない。
だが、その奥に何か得体の知れないものが潜んでいる気がした。
「……あなたは、悪魔ですか?
それとも神様?」
「フフ……よく言われます。
ですが、どちらでもありません。
死後に魂を奪うこともありませんよ」
さらりと答えるその声が、むしろ恐怖を増幅させる。
信じがたい。
けれど――もし、メアリーを救えるのなら。
僕は悪魔にだって魂を差し出す。
「……じゃあ、病を治すスキルを見せてください」
「かしこまりました」
彼はカウンターの下から、不思議な板を取り出し、指で何度か払う仕草をした。
黒曜石のように滑らかな表面に、光が走る。
「こちらが、現在お客様の魂の寿命でご購入可能なスキルです」
板の上には、文字が浮かび上がった。
【病を自分に移す】:対象の病を自身に移す。
【病を他者に移す】:対象の病を指定した他者に移す。
【病を別の病に変える】:対象の病を、別の病に変える。変更先の病を指定する必要がある。進行度は元の病に準拠する。
【病を取り除く】:対象の病を完全に取り除く。
「……【病を取り除く】以外、治ってないような気がしますけど」
「罹患者から特定の病を”排除する”という意味では、いずれも治療の一形態です」
曖昧な言い回しに、少し不安がよぎる。
「それぞれの値段──いえ、寿命の消費量は?」
「申し訳ございません。
寿命的価値をお伝えすることはできません。
能力の性質から、お見立てください」
値段の見えない買い物。
まるで命を賭けた博打だ。
「ちなみに、僕の魂の寿命はどのくらい残っているんですか?」
「それもお答えできません」
やっぱり。
それでも──背中を押すものがあった。
僕は板に並ぶスキルを見つめた。
どれも恐ろしいほど静かに、淡く輝いている。
【病を自分に移す】が一番安いのだろう。
だけど、それでは今度は僕の世話を、メアリーが──それでは意味がない。
理想は【病を取り除く】だけど、きっと一番高い。
【病を他者に移す】──これは人間以外にも移せるのかな。
「この【病を他者に移す】というのは、人間の病を別の動物に移すこともできるんですか?」
「可能でございます。
ただし、その病を発症する動物に対してでないと移せません。
植物にしか発症しない病を、動物に移すことはできない。
その逆もまた然り、というように理解していただければ」
「なるほど」
もし筋硬病が人間特有の病なら、ネズミや鳥に移して治すことはできない。
人間に移すとすれば……そう、身寄りのない浮浪者とかに──
首を振る。
彼女は絶対に、そんなこと望まない。
僕が魂を売って助けることも、きっともの凄く怒るだろうな。
最後の一つ【病を別の病に変える】、これはどうだろう。
僕は医者じゃないからどんな病があるか知らないけど、生きる上で支障のない病があればそれに変えればいい。
だけど無ければ……。
どれくらい悩んだだろうか。
僕は顔を上げた。
「──この【病を取り除く】をください」
男の笑みが、ほんの少しだけ揺れた。
「本当に、よろしいのですか?
他にも、世界最強になれるスキルや、不老不死に近いものもございますよ」
「いりません。
僕はただ、愛する人を救いたい、それだけです」
沈黙。
そして、笑顔のまま男は静かに頷いた。
「……承知いたしました。
では、お手をどうぞ」
握手。
次の瞬間、視界が真白に染まり、頭の奥に言葉が流れ込む。
『対象に触れ、病名を指定すると自動で取り除かれる』
男が手を離し、穏やかに言った。
「これでスキルの売買が完了いたしました。
本スキルは購入後、追加の代償なく行使できます。
──ご購入ありがとうございました」
その言葉が妙に遠く響いた。
「最後に、ひとつだけ伺っても?」
「え?」
「なぜ、そのスキルを選ばれたのですか?」
「……簡単です。
誰かを犠牲にしなくていい。
確実に、”彼女”を救えるから」
僕の寿命はその犠牲に含めていない。
「貴重なご意見ありがとうございます。
今後の商売の参考にさせていただきます」
彼は終始笑顔を崩さなかった。
「ご利用、ありがとうございました」
深々と頭を下げる彼に礼を返し、店を出る。
外は──元の山だった。
見慣れた木々、鳥の声。
だけど、扉はどこにもない。
「夢……じゃないよね」
掌を見つめる。
そこには、確かに何かが宿っている感覚があった。
確かめる方法は……簡単だ。
僕は走り出した。
彼女の待つ家へ。
この命が、どれほど短くとも。
◆
村の屋根が見えた。
心臓が早鐘を打つ。
土壁の小道を抜け、家の扉を荒く開ける。
「メアリー!」
ベッドの上で彼女がこちらを見た。
驚きに目を見開き、それでも微笑もうとする。
「おかえり、ジョシュア……今日は、たくさん採れた?」
「うん。
──ごめん、少し、試したいことがある」
彼女の瞳が、不安と信頼のあいだで揺れる。
僕はその手を取り、膝をついた。
「メアリー。
君の“筋硬病(きんこうびょう)”を──取り除く」
触れた瞬間、掌の奥に“名前”が吸い込まれる感覚があった。
世界のどこかで、見えない帳面から一行が線で消される。
温い光が皮膚の下を流れ、冷たい針の束が皮膚の外へほどけていく。
冷たくこわばっていた彼女の指が、ゆっくりと開いた。
震えが止まり、呼吸が穏やかになる。
頬に血の色が戻り、唇が微かに動いた。
「……ジョシュア?
からだが……軽い……痛くない。
指も……動く……」
涙がこぼれた。
「良かった……本当に、良かった……」
嗚咽とともに、彼女を抱きしめる。
彼女もまた、震える手で僕の背に触れた。
「ジョシュア、何が起きたの?」
「うん……ちゃんと、話すから」
僕は、山で出会った”店”のことをすべて話した。
彼女は黙って聞いていた。
そして、しばらく沈黙したあと──ぽつりと、言った。
「……ありがとう。
でも、どうして……どうしてそんな、命を削るようなことを……。
私は……あなたを犠牲に生き永らえたって、嬉しくなんてない!」
彼女の目から涙があふれる。
「やっぱり怒るよね……」
「当たり前でしょ!」
「それでも、僕は何度だって命を懸けるよ。
君を、愛しているから」
その言葉に、彼女は堰を切ったように泣き出した。
互いに抱きしめ合い、声を殺して泣いた。
翌日。
医者に診てもらうと、筋硬病の症状は一切見られなかった。
医者は首を振りながら、「これは神の奇跡だ」と言った。
僕とメアリーは、スキルのことを誰にも話さないことにした。
公表すれば多くの人を助けられるだろう。
だけど、僕の寿命がどれだけ残っているか分からない以上、メアリーとの時間を大切にしたかった。
季節が巡り、メアリーはすっかり元気を取り戻した。
花畑で笑う彼女は、まるで病に伏していた頃の影を感じさせない。
そして、僕らは結婚式を挙げた。
晴れ渡る空の下で、誓いの言葉を交わす。
彼女の白いドレスが風に揺れた瞬間、”もう死んでもいい”と、心のどこかで思った。
けれど次の日も、また次の日も目を覚ました。
やがて仕事にも復帰し、依頼は増えていった。
家を改築し、小さな庭を作った。
そして、二人の子どもを授かった。
子どもたちは明るく、よく笑った。
その笑顔を見るたびに、僕は祈った。
──どうか、あと一日だけ生きられますように。
それが毎晩の習慣になった。
いつ死ぬか分からない。
だからこそ、誰にでも感謝を伝えた。
特にメアリーには、言葉にできる限りの愛を。
三十を過ぎ、四十に差しかかるころ。
父が旅立ち、数年後には母と義父母も後を追った。
悲しみはあった。
けれど──親より先に逝かずに済んだことに、ほんの少し安堵した。
時は流れ、子どもたちも家庭を持った。
孫ができ、僕らは”おじいちゃん”“おばあちゃん”と呼ばれるようになった。
メアリーは笑って言った。
「母さんが言ってた”孫は子どもより可愛い”って、本当ね」
「うん。
……少し分かる気がする」
幸せは、静かに積み重なっていった。
五十歳を迎えたある日。
いつも通り、工房で仕事をしていた。
手にした金槌が、ふと滑り落ちた。
指先から感覚が消え、膝が震えた。
息を吸おうとしても、肺が動かない。
──ああ、ついに来たか。
恐怖はなかった。
むしろ、やっと約束を果たせた気がした。
せめて、最後に……メアリーに……
視界が白く滲んでいく。
遠くで、風鈴の音がした。
◆
「母さん、引っ越しの準備できた?」
「うん、大丈夫よ」
「父さんも、こんな急に逝くなんてな……」
ジョシュアが亡くなってから、一か月が経った。
私は遠方に住む長男の家に引っ越すことにした。
父や母、義父母が六十を超えてから亡くなったことを思えば、彼の死は早かった。
けれど、不思議と心は穏やかだった。
──私はジョシュアに、何か返せたのだろうか。
そんな思いが胸をかすめるたび、 彼の言葉が心の奥で響く。
『ありがとう』『愛している』
荷物をまとめていた息子が、箱を指さした。
「母さん、このスプーンは?」
私は箱の中から、それを取り出す。
銀のスプーン。
柄の部分には、小さな蝶の彫刻が施されている。
「スプーンくらい、うちにもたくさんあるんだけどな」
「これは、墓まで持っていくの」
私は微笑み、スプーンの蝶を指でなぞった。
かつてジョシュアが細工してくれたもの。
『蝶は”再生”と”永遠”の象徴なんだって』
あの日の声が、今も耳の奥に残っている。
銀の蝶は、羽ばたくことなく──けれど、決して朽ちることもなく、そこに留まっていた。
まるで、彼の愛そのもののように。
◆
山の奥。
誰も通らぬ小径の先に、古びた木の扉が一つ。
春の霞の中、扉は静かに軋みを上げて開く。
店内は変わらず、木の香りに満ちている。
カウンターの奥で、一人の男が帳面を開いた。
白い手袋の指先で、古い羊皮紙に刻まれた文字をなぞる。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
売却スキル:【病を取り除く】
魂の対価:二十年分
使用用途:愛する人を救うため
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「……あなたの思いは、奥様に届いていましたよ」
彼はそっと、指先でカウンターを叩く。
木の表面に、一輪の花が咲いた。
青白く、光の中で揺れる幻の花。
「死の運命を壊し、共に羽ばたく翅へと変えた──美しき蝶に、安らぎを」
男は静かに微笑むと、帳面を閉じた。
男はカウンターの奥を見上げる。
そこには、無数の扉が並んでいた。
誰かが望み、誰かが差し出した、無数の命の記録。
「さて……次のお客様は、どんな願いをお持ちかな」
店の扉が、音もなく消えていく。
残されたのは、山の風と、春の光だけ。
──奇跡の店は、今日もまたどこかに現れる。
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