第9話「新たな未来の輪郭」
春の終わりが静かに街を包み始めていた。
若葉の緑は濃さを増し、通学路の並木道では、木漏れ日が幾何学模様のようにアスファルトを照らしている。
風はやわらかな匂いを含み、頬をなでるたびに心までやさしくほどけていくようだった。
展覧会から数日が経っていた。
間鳥居公園のベンチ。淡い夕光が芝生に降り注ぎ、どこからともなくスズメのさえずりが聞こえてくる。
敬は静かに腰を下ろし、深く息を吐いた。手には何も持っていないが、胸の奥にはずっしりとした想いがあった。
「何とか……萌の命をつなぐことができた……」
その言葉は、まるで自身に言い聞かせるように低く、小さくつぶやかれた。
かつて八十年分の時間を過ごし、過去に戻り、あの日の展覧会で運命を変えた。未来を、萌を、そして自分自身の人生すら――。
それが現実として今、目の前にある日常として根を張り始めていることが、信じられないようで、それでいて心の奥で静かに確信へと変わりつつあった。
(俺は変えたんだ。萌の未来も、自分の未来も……)
その実感が胸をぎゅっと締め付ける。
あまりにも長く背負ってきた後悔、失ってしまったものの重さ。それらが、今ここで、少しずつ癒されていくような気がした。
夕暮れの公園には、日が傾くごとに金色の光が満ちていた。芝生はまるで陽光を抱きしめているかのように優しく輝き、やわらかな風が植え込みの葉をさざめかせる。
「ねえ、萌ちゃん?」
敬がそう声をかけると、隣にいた萌はふっと顔を上げ、小首をかしげる。
「なに? 敬ちゃん」
その瞳は、まっすぐで曇りがなくて――まるで過去なんてなかったように、未来だけを見つめている。
敬はその視線に一呼吸置き、問いかけた。
「萌ちゃんは、将来どんなことがしたいと考えてる?」
夕陽に照らされた萌の輪郭はほのかににじみ、頬には朱が差していた。
彼女はしばらく黙って、遠くを見つめる。そして、ぽつりと口を開いた。
「うーん……いろいろあるけど、やっぱり……お嫁さんかな」
少し照れくさそうに呟いたその言葉に、敬の心臓がふっと跳ねた。
「それから?」
「えっとね……できれば、ソーイングとか、デザインの勉強をしたいの。自分で作った服を、誰かに届けたいなって」
その言葉は、夢のようでいて、しっかりと地に足のついたものだった。
萌は手を膝の上で重ね、柔らかな微笑みと真剣さが同居する表情で続けた。
「できれば、自分でお店を持つとか……独立できたらって思う。でも、そんな簡単じゃないってわかってるよ。現実は、厳しいもんね」
そう言って少しだけ肩をすくめ、苦笑する。
けれどその瞳には、確かな光が宿っていた。
「でも、それでもソーイングはやめたくないの。私の作った服を着て、誰かが笑ってくれるだけで……それだけで、すごく幸せだから」
その言葉に、敬の胸がじんと熱くなる。
未来を思い描く姿がこんなにも美しいものだとは、初めて知った気がした。
「萌ちゃんなら、きっとできるよ。俺も応援するから」
そう言うと、萌は嬉しそうに目を細めた。
「ありがとう。……敬ちゃんは?」
突然の問いに、敬は言葉を失った。
(俺は……?)
かつての自分は、ただ働いていた。
安月給、長い残業、家に帰るころには子どもたちはもう寝ていて、妻と顔を合わせる時間もろくにない。
それでも「家族のため」だと信じて疑わなかった。
だが……。
「そうだな……僕は、もっと気持ちにゆとりがある仕事がしたい。自分の時間も、大切な人と過ごす時間も、ちゃんと守れるような仕事」
少し言葉に詰まりながら、続けた。
「お金より大切なものがあるって、今はそう思うよ」
萌が、まっすぐな目で敬を見つめた。その澄んだ瞳には、まるで鏡のように敬の心が映っているようだった。
「お金より大切なもの?」
「それは……時間、かな。自分の好きなことをする時間や、大切な人と一緒にいる時間。笑ったり、泣いたり、何気ない会話をしたり。そういう時間が……本当に、宝物だって思う」
敬が言い終えたとき、公園の奥から子どもたちの笑い声が風に乗って届いてきた。
その音は、まるで小さな鐘のように優しく響いた。
「……敬ちゃんの気持ち、わかるよ」
萌が、ぽつりと呟くように言った。声にはかすかな震えがあった。
「私ね、小さい頃からずっと、家でひとりぼっちだった。お父さんもお母さんも仕事でいつも帰りが遅くて……ごはんも一人で食べて、夜もひとりで寝て。さみしかった」
彼女は一度、まぶたを閉じて涙を拭った。
その仕草があまりに静かで、敬は胸が締め付けられる思いだった。
「それが普通なんだって、自分に言い聞かせてたけど……やっぱり、本当はさみしかったんだと思う。だから……誰かとちゃんと時間を過ごせることが、すごく嬉しいの。お金よりも……ずっと、ずっと」
言い終えた萌の声はかすかに震えていて、でもその目には真っ直ぐな想いが宿っていた。
敬は言葉をなくし、ただ萌を見つめた。
――この子は、もう気づいていたんだ。
時間の尊さに、心のあり方に。俺が何十年もかかってようやく辿り着いたその場所に、萌はもう立っていた。
「萌ちゃん……ありがとう」
その声とともに、敬は萌を抱きしめていた。
細い肩、あたたかい体温。すべてがいとおしかった。
「えっ……敬ちゃん?」
驚いたような声とともに、萌は少し震えたが、次の瞬間にはそっと身を預けてきた。
耳元で響く呼吸が重なり、鼓動がひとつになっていくようだった。
敬の目から、涙がつっとこぼれる。
「ど、どうしたの?」
萌の問いかけに、敬は首を横に振った。
「萌ちゃん……ありがとう。俺、ずっと後悔してた。でも今は違う。これからも……ずっと一緒にいよう」
その言葉には、嘘も誇張もなかった。
ただ、まっすぐな願いと、心からの決意があった。
「うん……敬ちゃん。私も……ずっと、ずっと一緒にいるよ」
夕陽が落ちる中、二人の影はゆっくりとひとつに溶けていった。
その影の先にあるもの――それは、まだぼんやりとしていて、輪郭もはっきりとはしない。
けれど、その輪郭がたしかに未来へと続いていることを、二人は確かに感じていた。
春の風はいつしか冷たさをなくし、どこまでもやさしく二人の背を押していた。
新たな未来が、静かに、確かに、いまこの瞬間から広がっていく。
(つづく)
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