第8話「変えられる未来」

 その夕暮れは、まるで誰かが空に絵の具を零したように、燃えるような朱に染まっていた。

 雲の輪郭は柔らかく滲み、まるで記憶の中にある夢の風景のように曖昧で美しかった。西日が校舎の窓を金色に染め、運動部の掛け声がグラウンドに反響していた。

 敬は、下校前の中庭に立ち尽くし、両手でスケッチブックを抱きしめるようにして持っていた。掌に感じるその重みは、ただの画材ではなく、想いの集積だった。

 「その日は絶対、一緒に行こうね、萌ちゃん」

 何度目かのその言葉を、今日もまた繰り返した。けれど、不思議とそのたびに胸の奥に灯るのは緊張ではなく、ぬくもりを伴った予感だった。

 萌はその隣で、小さく、でも確かに微笑んだ。

 「うん。約束ね、敬ちゃん」

 その言葉は風に舞う花びらのようにやわらかくて、夕陽を反射して金色に揺れる髪が、敬の胸に淡く切なさを運んできた。

 展覧会が近づくにつれ、敬の心には小さな波紋が広がっていた。

 あの日――雨にけぶる街を、萌は一人で展覧会へと向かった。

 そして帰らぬ人となった。

 記憶の中で曖昧になっていたその日が、ここ数日で少しずつ輪郭を持ちはじめていた。あのときの空気、冷たく濡れたアスファルトの匂い、人波に呑まれて遠ざかっていった小さな背中――。

 (でも今は、違う。今度こそ僕は、君の隣にいる)

 萌と手をつないで歩く中庭。夕陽の色に染まった校舎が、まるで祝福しているかのように静かに輝いていた。

 萌はふと立ち止まり、敬の方を見てにっこりと微笑んだ。その表情には迷いがなかった。

 展覧会当日。

 駅前の広場は、春の光に満ちていた。

 新芽をつけた街路樹が並び、足元には風に舞う花びら。人々のざわめきが、どこか朗らかで、希望に満ちている。

 二人は肩を並べ、どちらからともなく手を重ねた。

 その瞬間、あたたかな波のような感情が胸に満ちた。何気ないその触れあいが、どれほど尊く、確かなものかを敬は噛みしめるように感じていた。

 「敬ちゃん、今日の展覧会……楽しみだね」

 萌が、緊張と期待が入り混じった表情で微笑む。

 その目の奥に浮かぶ光が、夕陽のようにやさしく揺れていた。

 「うん。僕も楽しみだよ。それに……君に、どうしても見せたいものがあるから」

 言いながら、自分の声が少し震えているのがわかる。

 萌は目を丸くして、頬に赤みを差し、少し照れたように笑った。

 その姿は、風にそよぐ春の花のようで、敬の心にそっと根を張っていくようだった。

 会場は、街角に建つ淡いクリーム色の文化館。

 小さな洋館風の建物で、入口のアーチには新緑の蔦が絡み、どこか絵本の中のような佇まいだった。

 扉を開けて中へ入ると、木の香りと新しいキャンバスの絵具の匂いが、静かに二人を包んだ。

 館内はしんと静まり返っていた。作品の前では、誰もが声をひそめ、絵と対話するように佇んでいる。

 萌の手を握る敬の手に、少しだけ汗が滲んだ。やがて、その目の前に――その絵が現れる。

 『夕日の中のピアノソナタ』――。

 それは、静かな夕暮れの音楽室。

 窓から差し込む光に染まりながら、アップライトピアノの前に座る少女が、静かに微笑みながら鍵盤に手を置いていた。

 その少女の横顔は、どこまでもやさしく、どこまでも静謐だった。

 まるで今にも音が鳴り響きそうなその構図に、萌は言葉を失った。

 小さく息を呑み、敬の手をぎゅっと握り返す。

 「……これ、私……なの?」

 その問いに、敬はゆっくりと頷いた。

 「うん。君のすべてを描いた。僕には、君があんなふうに見えていたんだ」

 萌は絵から目を離さずにいた。瞳の奥がわずかに潤んでいた。

 「……あのときの音楽室だね。夕陽が差し込んでて、ちょっとだけ切なかった。でも……あったかかった」

 「そう。僕が見た光景そのままだよ。君がくれた時間の全部を、絵に込めたんだ」

 その言葉に、萌はそっと涙をぬぐった。

 それは、嬉しさだけではなく、過去の痛みをそっと癒す涙でもあった。

 展示室を出たとき、空はもうすっかり群青に染まりかけていた。

 けれど、西の空の一点には、薄明るい茜色がまだ残っていて、その中に一番星がぽつりと光っていた。

 萌がふと足を止めて、敬の方を向いた。

 「ねえ、敬ちゃん」

 「うん?」

 「私ね……この先も、ずっと敬ちゃんと一緒にいたい」

 その言葉は、風のように優しく、でも確かに心に届いた。

 敬は黙って萌の手を取り、少し強く握り返した。

 「僕も、同じ気持ちだよ」

 それだけを言うと、萌は目を細めて微笑んだ。

 その笑顔は、記憶の中のどの萌よりも美しく、やさしかった。

 駅へ向かう帰り道。街路樹の葉が風に揺れ、歩道には淡い灯りが並んでいた。

 二人の影が長く伸び、その足音が静かに重なって響く。

 (これが、変えられた未来なんだ)

 あの日の展覧会には、萌は来て、そして事故に遭った。

 けれど今、となりには萌がいる。手をつないで、未来を見つめている。

 もしかすると――人の記憶は変えられないかもしれない。

 でも、今ここにある感情と選択で、未来は確かに変えていける。

 敬は空を見上げた。一番星は、さっきよりも少しだけ輝きを増していた。

 きっとこの先も、何かに迷ったり、過去に引き戻されることがあるかもしれない。

 でもそのたびに、今日のこの展覧会のことを思い出すだろう。

 手の中にあるぬくもりが、それを教えてくれる。

 変えられる未来は、いま、ここにある。

(つづく)

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