第3話

 橘真娜瑪たちばなのまなめが去ったあと、広夜ひろや夜鬼よきを連れて屋敷を出た。彼等が向かった先は多治比たじひの屋敷。そこからは異様な妖気が漂っていた。

「全く、これほどまでに強い想いを抱かれているとは、罪な者も居るのだな?」

 広夜が小さく呟くと、夜鬼が意味ありげな視線を向けた。

「ん? 何か言いたげだな?」

 と広夜が聞くと、

『いえ、何も』

 と夜鬼が静かに答えて目を伏せる。


 多治比家では、嫡男が急な病に伏せていて、医師を呼び診て貰うも原因が分からず途方に暮れていた。そんな折、広夜がこの屋敷を訪ね、

「急なお尋ねを失礼するが、何かお困りでは御座いませぬか?」

 と門前で声をかけると家人の者が、

「あなた様は何方でございましょうか?」

 と尋ね、

高円広夜たかまどのひろやと申す」

 と広夜が答えた。すると家人が、

「主にお伝えしますので、暫くお待ちください」

 と答え、それから暫くして、急ぎ門へ近付く足音が聞こえると、すぐさま門が開かれ、

高円たかまど殿、良くぞお越し下さった」

 と主が直々に出迎え、門の外に人がいない事を念入りに確認しながら広夜ひろやを中へと招き入れた。妖祓師あやかしはらいし高円広夜たかまどのひろやが訪れたとなれば、あやかしに襲われたのだと広く知られてしまう事を恐れているようだった。そんな主の行動に、広夜は軽く口元を緩ませた。

(歓迎されているのか、迷惑がられているのか? 複雑だな)

 そんな広夜の思念に夜鬼が答えた。

(迷惑がられているのなら助ける必要はないです)

(そういう訳にもいかない。これが私の職務だからな)

 広夜は夜鬼の思念に答えた。今は夜鬼も人には姿を見せず、気配を消して広夜の傍に控えていた。

 広夜が通された部屋は、どんよりとした重たい空気が満ちていて、横たわる若い男の傍に髪の長い女がひっそりと座り、男の顔を覗き込んでいた。この女は生霊で、広夜と夜鬼以外には見えていないようだった。

「高円殿、如何でしょうか? やはり妖の仕業でしょうか?」

 主が聞くと、

「妖と言えば妖ですが、生きた者の強い想いが障りとなっているようだ。皆は暫く離れていて頂けるかな?」

 と広夜は答えた。

 そして、皆が離れたのを確認すると、部屋の御簾を下げ、広夜は静かに尋ねた。

「あなたはどちらの姫君か?」

 広夜の問いに、女は顔を上げてこちらへと振り向いたが、その顔は長い黒髪で覆われ、右目だけがその隙間から覗き、訝るように広夜を見た。

「安心しろ。私はあなたを祓いに来たのではない。話しを聞きに来たのだ。あなたの想いを聞かせて頂けるだろうか?」

 と広夜は更に言葉をかけると、女は小首をかしげ、

『これは夢なのでしょう? どうして高円様が居られるのでしょうか?』

 と尋ね、少しずつその容姿が変化していき、貴族の姫君らしく、美しく可憐な姿となった。

「これは、の姫君ではありませぬか。あなたのような高貴で美しい御方の御心を乱すこの若君が羨ましい。あなたのその強い想いには嫉妬の念もあるようですが、それはどうしてなのか、お聞かせ頂けるだろうか?」

 広夜が聞くと、紀の姫は少し落ち着きを取り戻したように、静かに語り始めた。


 多治比の若君との出会いは、半年前に行われた宮中のうた会で、その後多治比の若君が紀の姫の元へ通うようになった。しかし、それも一月経った頃には、他の姫の元へと通い始め、の姫の元への通いは無くなった。それを悲しみ、そして恨めしく想い、紀の姫は塞ぎがちとなり、今ではもう、詩も読まず、部屋に籠りきりとなっていた。それでも多治比の若君への想いが募り、気付けばここに来ていたのだと、そこまで語ると、

「そうでしたか」

 と広夜は紀の姫君の心中を思いやるように優しく答え、

「それでは、あなたはこの若君にどうして欲しいのかを、お伝えしてはいかがでしょう?」

 と言葉を続けた。

『わたくしへの想いをお聞かせいただきたい。心変わりしてしまわれたのはなぜと問いたい』

 紀の姫君が言うと、その瞳から一粒の涙が頬を撫でるように落ちていく。それはとても美しくそして悲し気だった。

「多治比の若君、紀の姫君に答えてはくれませぬか?」

 広夜はそう言って、若君の身体を起こし、目を覚まさせた。

 目の前に居る紀の姫君の透き通る姿に驚愕し、わなわなと震える若君の両肩に手を置いた広夜は、

「落ち着いて下さい。紀の姫君は、あなたのお気持ちを知りたいだけなのです。聞こえていたのでしょう? 答えて差し上げて下さい」

 ともう一度、若君に言うと、

「私の心は他へ行ってしまい、申し訳なく思う。そして、もうあなたには会えない。どうか、私を忘れて下さい」

 と懇願するように叩頭した。

 それを見た紀の姫君の表情は冷たく、流した涙も消えて、

『分かりました』

 と一言返して、その姿が揺らいで消えていった。


「多治比の若君、もう頭を上げて。紀の姫君は帰られた」

 と広夜が声をかけたが、彼はまだ恐怖に震えていて、顔を上げることも出来ないようだった。

 そんな多治比の若君を置いて、広夜は部屋をあとにし、主へ事が済んだと報告すると、

「高円殿、あなたには何とお礼を言ったらよいか」

と多治比の主は感謝を述べ、

「このお礼は改めてさせて頂きます」

 と何度も頭を下げた。

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