第2話 月曜日は月曜日
インターフォンのチャイムが鳴って、マオが階段を駆けおりた。戻ってきたマオはダンボール箱を抱えていた。マオが箱をひらくと、なかは色とりどりの毛のかたまりだった。マオは付属の道具を組みたてて、その取っ手のついた針で青い毛のかたまりを無心に突きはじめた。学習机に座ってぼくは、マオの手もとをじっと見ていた。ふわふわだったかたまりがだんだんと小さく硬く形になっていく。平たい丸い形、飛びだしたつば。これは帽子だ。
マオはそれをぼくにかぶせたが、大きすぎてぼくの頭に合わなかった。マオは渋い顔で帽子を放りだすと、新しく水色の毛のかたまりを突きはじめた。左手は革の指サックで保護していたけれど、マオはしょっちゅう手を刺しては「痛っ」と口走った。さっき同じような帽子ができあがった。こんどはサイズは合っていたが、またしても気に食わないようだ。マオは赤い毛のかたまりを突きはじめた。
「痛っ」
マオはひどく手を刺したらしい。とっさに逸らした針の先がぼくの胸をかすめた。何かが染みこんで、急にじんわりと熱くなった。マオが刺したところには赤いものが滲んでいた。マオはそれをちゅっと吸うと、懲りずに針をちくちくと使った。
タオル地の胸のじんわりした感覚が、ぼくの全身に広がった。力がみなぎるような不思議な感覚に、ぼくはただ混乱した。なんだこれは。
赤い毛のかたまりはやがて平たい丸い形になり、仕上げにてっぺんに突起がついた。ベレー帽だ。マオはそれをぼくにかぶせた。かわいい、とマオはいい、何度もスマホで写真を撮った。いつもならうれしかっただろうけど、ぼくは手足がむずむずしてそれどころじゃなかった。なんだこれは。なんだこれは。
マオは撮影にあきて、やがてパソコンを起ちあげた。ぼくの写真をブログにアップするのだろう。相変わらずぼくは叫びたいような走りだしたいような変な感じだった。小さな風がタオル地の胸をふるわせて、首の鍵がゆれた。
「(……マオ!)」
マオがぼくを見て、首をかしげた。気のせいだと思ったのだろう。パソコンのタイピングに戻った。ぼくはすっかり驚いてしまって、それきり何もできなかった。
ぼくはしゃべった。しゃべったぞ!
朝、マオが中学校に行ったあと、棚の中でぼくは試してみた。足に力を込めて、立ちあがれるかどうか。立ちあがった拍子に、ぼくは尻もちをついた。痛くはないけどびっくりした。自分で転んだのは生まれて初めてだ。ぼくは何度か挑戦して、どうにかその場に立つことに成功した。でも、一歩ふみだしたら転んだ。かちゃん、と首の鍵が鳴った。
ぼくは赤ん坊みたいに四つん這いで移動した。さっきから様子を見ていたウェンズデーくんはどう思っただろう。彼の黄色いまなざしは、いつもより粘度が低い気がした。ぼくは彼に這い寄って、目の前で再び立ちあがった。そして彼の頭を軽くぽんぽんと叩いた。親愛の情のつもりだった。そして、ぼくは転んだ。
午後まで何度も何度も挑戦して、数歩なら歩けるようになっていた。ただいま、とマオの声がして、階段をのぼる気配がした。ぼくはあわてて元の位置へ戻って座った。ぼくを覗きこんで制服のマオが首をかしげるのがわかった。ぼくのベレー帽が脱げているのをいぶかしんだのだろう。ぼくはタオル地が張り詰めた気持ちでじっとしていた。マオをこわがらせたくはなかった。マオはぼくとウェンズデーくんを手にとると棚の別の段にならべて、ぼくにベレー帽をかぶせて写真を撮った。ウェンズデーくんの顔がなんとなく笑って感じられた。
ベッドで寝息を立てるマオを見つめながら、ぼくは考えた。どうしたらマオをこわがらせずにぼくが動いたりしゃべったりできることを打ち明けられるだろう。もし悪霊のしわざだと誤解されたら、最悪、ぼくは処分されてしまう。このままマオのまえでは隠しとおしたほうがいいのかもしれない。でも、それは苦しかった。
「(……ねえ、ウェンズデーくん。ぼくはどうしたらいいかな)」
薄明りのなか、ウェンズデーくんは困って見えた。彼としゃべれたらどんなにいいだろう、とぼくは夢想した。ぼくが来るまで彼はどんな暮らしをしていたのか。どんなふうにマオと出会ったのか。ぼくが知らないマオのことだって、彼なら知っているはずなのだ。
マオが学校に行かない日、部屋に来客があった。その桃色の服の小さな女の子は、見おぼえのある薄黒いテディベアの耳を食べていた。マオがやんわりと口からはずす。
「リンちゃん。ぬいは食べ物じゃないよ」
「くーちゃん」
リンちゃんはいった。たぶん、テディベアの名前だ。リンちゃんの涎まみれの彼(彼女?)は以前よりもなんだか穏やかだった。
リンちゃんはマオの棚に興味津々だった。ぼくやウェンズデーくんにさわりたいのか棚をよじ登ろうとする。柔らかそうなふくよかな手。がたん、と棚板が鳴る。マオはリンちゃんを抱っこして阻止した。
「あぶないよ。ね、リンちゃん。下でプリン食べよう」
プイン! とリンちゃんは舌足らずに叫んだ。マオはリンちゃんを抱えて重たい足音をさせながら階段をおりていった。
二人が階下へくだりきったのをききとどけると、ぼくは立ちあがった。滑りやすい棚板の上でも、ぼくはかなりじょうずに歩けるようになっていた。ぼくはウェンズデーくんにいう。
「(外に行ってみたいな。ここに来るとき一度だけ街を見たよ。きみも見たことある? きっとあるよね。ぼくが来たときは春で、少し寒かったな。いまはすっかり暑くなったね)」
ウェンズデーくんは返事はしないけど、その黄色い目はぼくの言葉を面白がっている気がした。ぼくは調子に乗って話しつづける。
「(きみは毛がふかふかだから熱がこもらないかい? でも、その毛、冬にはあたたかくていいんだろうね。今年の冬は寒いってマオがいってたよ。冬はふたりでくっつけばいいよね。きっとあったかいよ)」
ぼくはウェンズデーくんのとなりに腰をおろして、彼のあるかなしかの肩をぽんぽんと叩いた。でも、力加減に失敗してウェンズデーくんが横倒しになった。彼の体はすごく軽いんだ。ぼくはウェンズデーくんを起こそうと不器用に両手を使った。
きゃあっ、と高い声がきこえた。リンちゃんだ。マオの姿はない。ひとりでここまで階段をのぼってきたのだろうか。リンちゃんは目をきらきらさせて、まっしぐらにぼくらのほうへやってくる。動いてるのを見られてしまったのか。リンちゃんはふくよかな手を棚板にかけて、よじ登った。がたん、と棚板がひっくりかえりそうになる。
ぼくは棚から飛んだ。一メートル落下して、ぼくはぶざまに床に叩きつけられた。痛くはないけど、けっこうな衝撃だった。思ったとおり、リンちゃんは棚板を放して、ぼくに手を伸ばした。ぼくは走ってマオのベッドの下へ逃げこんだ。リンちゃんに食べられて涎まみれになるのはぞっとしない。
リンちゃんはぼくをつかまえようと短い手を一生懸命に伸ばした。ぼくはさらに奥へ逃げた。リンちゃんの不満そうな声。ふくよかな手がひっこんだ。ぼくはほっとした。
がたん、と棚板が鳴った。ぼくはベッドの下から顔を覗かせた。リンちゃんがウェンズデーくんめがけて棚を登っていた。
「あぶない!」
マオの悲鳴。マオがドアから飛びだしたが、まにあわなかった。棚板がひっくり返って、外れた。リンちゃんは逆さまになった。ぼくはとっさに走りでてスライディングした。
リンちゃんの頭の下へ。
ぼくの体がぺちゃんこになって、ごすんと床が鳴った。わっとリンちゃんが泣きだした。下敷きのまま、ぼくはなすすべがなかった。ああ、とうとうマオに見られてしまった。マオがどう感じたのか、ぼくはさっぱりわからず、それが震えるほどこわかった。
「リンちゃん!」
マオはリンちゃんを抱きあげてあやした。そして、ためらいがちにぼくを拾った。階段を誰かがあがってくる。
「どうしたの?」
マオの母親だ。ぼくが見あげたマオの顔は少し青ざめていた。
「リンちゃんが棚をのぼって落ちたの。でも下にぬいがあったから、ひどくは打ってないと思うけど」
「あら、やだ。ちょっと、シホさん! シホさん?」
母親はリンちゃんを抱きあげると下へおりていった。リンちゃんの泣き声が遠ざかり、マオとぼくだけになった。マオはぼくの体の埃を払った。マオの怒ったように潤んだ瞳。
「マンデーくん。あなたは……」
「(……ごめんね)」
ぼくはいった。マオはきゅっと唇を嚙んで、次の瞬間ぼくに頬を寄せた。
「……いいよ。いいんだよ。マンデーくんはマンデーくんだから。ここにいてくれてありがとう」
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