月曜日はまばたきしない
御厨 匙
第1話 ぼくは月曜日
とある工房でぼくは生まれた。断たれた黒とはだいろのタオル地、ペレット入りの小袋、真っ白いコットン——それらをエプロン姿の職人が針と糸で手際よく縫い合わせた。全体的に黒。ただ三角の耳のうちと細長い手足の先ははだいろ、尻尾の先は茶色。鼻と口は黒の刺繡、目玉はびっくりしたような白黒の刺繡。ぼくは黒猫の姿につくられた。同じ形の黒猫たちが木の作業机に並ぶ。同じ形の色ちがいで白猫や茶貓もいる。ああ、ぼくは量産品なのだ。
ぼくは袋に詰められ、同じような仲間たちとともにダンボール箱に収められた。箱に蓋がされる。真っ暗闇。ぼくは不安になって、でもなすすべがない。ぼくはぬいぐるみだ。
真っ暗な長い時間のあいだに、ぼくらの箱はときどき揺れたり弾んだりした。箱がひときわ激しく揺れたかと思うと、急にまぶしい光が差した。蓋が開いたのだ。ぼくは目を細めて(ぼくに瞼はないけど、そんな気持ちで)外の世界を見あげた。どこかのこぎれいなオフィスだ。
どうやら化粧品会社のオフィスらしかった。いくつかあるテーブルで、男女のスタッフがお客さんにおべんちゃらをいいながら化粧品を買わせる。彼らの会話から、ぼくは世の中のあらましを知った。それなりに楽しかったけど、あんまり代わり映えしないのでだんだん退屈した。ぼくを気にする人はあまりいなかった。
「かわいい
若い女性のお客さんがいった。ぼくは(ぼくに心臓はないけど)胸が躍った。男性スタッフがいう。
「ツツミリツコの新作のぬいぐるみなんですよ。販売を委託されていましてね。おひとついかがです?」
男性スタッフはどこからか袋入りの新品のぬいを三体持ってきた。黒猫・白猫・茶貓。女性はぼくと同じ黒猫を選んではほほえんだ。もうキャビネットのぼくには目もくれなかった。
まいにち毎日お客さんが入れ代わり立ち代わり来て、化粧品を買っていた。ごくたまに、ぼくを気に入ってくれる人もいた。でも、その人が手にするのはいつも新品のぬいだった。ぼくはただ座って、埃をかぶるばかり。なんともいえず、ぼく悲しくなった。これなら子供に愛情こめて乱暴にされたほうがよかったとさえ思った。
スタッフがたまに掃除してくれたけど、ぼくはだんだんと埃焼けして、型崩れして、くたびれた見た目になった。委託販売が終わったら、返品の利かないぼくは用済みになるだろう。
漠然と絶望を感じはじめた頃、あの子が現れた。母親とつれだったその子は、母親とスタッフにほうっておかれて退屈そうだった。こんなところにいたくない、といわんばかりの仏頂づらだ。化粧っ気のない顔は、けれど若さゆえにどんな化粧品でも出せないハリとつやがあった。中学生くらいだろうか。ぼくはその子が気になった。ぼくもひどく退屈で、こんなところにいたくないと思っていたから。
ぼくの念が通じたのか、その子がぼくを見た。その子の顔が、ぱっと輝く。かわいい子だ。その子はまっすぐに近づいて、ぼくをうれしそうに抱きあげた。温かい手。そんなふうにしてくれたのは、この子が初めてだった。
「お気に召しましたか。ツツミリツコの新作なんですよ」
いつもの売り文句で男性スタッフが揉み手した。
「あら、マオちゃん、それがいいの?」
彼女の母親がいった。マオちゃんと呼ばれたその子は真剣にうなずいた。
「この子、かわいい」
「あなたがめずらしいわね。アンザイさん、こちらをいただけるかしら」
彼女の母親がいった。スタッフが新品のぬいを持ってきた。ぼくはタオル地の胸がよじれそうになった。ああ、ぼくは冷たいキャビネットに戻されるのだ。ぼくはマオの手から離れたくなかった。
スタッフが差しだす新品のぬいに、マオは首を振って、ぼくを見やった。
「この子がいいんです」
あら、と母親がいった。え、でも……とスタッフはごにょごにょ口ごもった。売れればなんでもいいと思いなおしたのか、営業スマイルに戻ってスタッフは手を伸ばした。
「では、お包みしますよ」
「結構です。このままで」
マオはつんとすまして、ぼくをぎゅっと抱いた。
マオの薄い胸に抱かれて、ぼくは外の風を浴びた。アスファルトの道を春の欠けらのように桜の花びらが転がった。温かい手に抱かれたまま夕映えのバスに揺られて、ぼくは初めて見る街に胸のすく思いがした。
日本家屋風の大きな家だった。ぼくはマオに抱かれて玄関の真正面の階段をあがった。二階にはドアが三つあって、その一つをマオが開けた。
六帖ほどの洋室だった。学習机、ベッド、大きな棚が二つ。棚の一つには子供向けの本がずらりと収まっていて、もう一つは飾り棚らしい。薄黒いテディベアや、ドールハウス家具なんかが乗っていた。
マオは棚のラウンジチェアに座っていた青い猫を避けると、代わりに僕を座らせた。いや座るというよりは寝そべるという感じが近い。マオは指先でぼくの鼻づらをやさしく撫でると、部屋をでていった。
ぼくは白っぽい棚板を見あげながら、あたりを観察した。棚の奥に南国のヤシの木と白いビーチと青い海。印刷して貼ってあるのだ。かたわらのテーブルにはレジン製のトロピカルドリンクまで置いてある。なるほど、これは疑似バカンスというわけだ。ぼくはなかなか気に入った。ただ、首に鍵をさげた青い猫の黄色い目が怖かった。彼が口をきけたら、ベストポジションを奪った新顔に文句をいってきそうな気がした。でも、彼もぼくもただのぬいぐるみだ。ぼくはすっかり安心して、これからの暮らしに思いを馳せた。
ぼくも鍵をもらった。赤いリボンに通した古びた単純な鍵。それをぼくの首に結んでマオは満足そうにした。猫の首に提げるなら鈴じゃないのかなと思ったけど、ぼくはうれしかった。自分の物だといえるものを初めて手に入れたのだ。
棚には段ごとにいろんなセットがしつらえてあって、マオはそこにぼくを置いてスマホで写真を撮った。あるときはヤシの木のビーチで自転車に乗せられて、あるときはスーパーマーケットで満杯のカートとならんで、あるときは白っぽいクリニックで白衣を着せられて、あるときはおしゃれなカフェでカウンターに座らされて。マオはぼくの埃をとったり、手足の位置や体の角度を微調節したりしながら何度か撮って、満足するとほほえんでスマホを仕舞った。ぼくはスーパーモデルになった気分がした。
マオは無口だった。というか、ぬいに声をだして話しかける人はまれだ。ぼくらは返事ができないから。でも、ときどきマオはぼくを見つめて、かわいいねえといってくれた。感にたえないというふうに。
「かわいいねえ、マンデーくん」
そうか、ぼくはマンデーくんなのか、と思った。タオル地の胸がきゅうっとよれる感じがした。
一方、青い猫の名前はウェンズデーくんらしかった。ウェンズデーくんの黄色い目はいつも何か恨めしげに映った。彼はぬいだから罵ったり叩いたりはできないけど(叩かれても痛くなさそうだけど)、ぼくをよく思っていないのはなんとなく伝わった。たぶん、ぼくが来るまでマオのお気に入りは彼だったのだ。
そんな気持ちを知ってか知らずか、マオがぼくとウェンズデーくんをならべるのは撮影のときだけだった。いや、たんにぼくがとびきりのお気に入りだから、ウェンズデーくんを忘れがちなのかもしれない。ぼくは幸せだった。けど、一抹の不安もあった。マオがまた新しいお気に入りを見つたら、ぼくはウェンズデーくんと同じ憂き目にあうだろう。
ある日、薄黒いテディベアを手にマオが母親にいった。
「これいらない。リンちゃんにあげて」
「あら、パパが買ってくれたやつでしょ」
「パパが勝手に選んだんだもん。いらない」
いらない。自分のことではないのにタオル地の胸が痛んだ。マオは母親にテディベアを押しつけると、それですんだとばかりにぼくを学習机に乗せてパソコンを打ちはじめた。名前すらもらえなかっただろうテディベアの顔はうつろに見えた。母親はため息をついて、テディベアを抱いて階段をくだった。
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