夢にささやく
来訪してもいない男の靴が玄関に置かれている。この家に住む者が履くことはない艶のある黒いスニーカーは、インテリタスにとって馴染みのある靴である。今日もこの靴を目に入れるはずだった可能性はあるが、靴だけが存在して普段、靴を履いている本人がこの場にいないということはどういうことだろう。
「マナブ君? 来てないよ」
家主に所在を問うてみても、行方はわからなかった。もう一人の家主は警備署での仕事があるため不在である。
「でも、靴があるってことはいるんじゃない?」
隠れてるのかも、探して見なよ、という陣の目の言葉でインテリタスは靴の主──マナブを家の中で探すことになった。
一階の家主の居住スペースにはいなかったと聞く。ならば、二階に潜んでいるのだろうか。何のために。この家の住人を驚かせようとしているのかもしれないが、さすがに住人全員が眠っている家に忍び込むというような悪質ないたずらを仕掛けるほど、マナブの頭はお粗末ではない。しかし、本当に事情は分からない。家の怪異にでも巻き込まれたのだろうか。
インテリタスは木でできた階段を上がり、廊下の端に立った。階段と同じ素材でできた廊下には四つの扉がある。手前は野梨子が幼少期に使っていた子供部屋、その奥は物置き、反対側の手前にはインテリタスが与えられた部屋があり、その奥には一つだけ客間がある。
マナブがいるとすれば客間だろう、とインテリタスは奥の部屋のドアを開けた。私的な来客がない直し屋ではあまり使用しない部屋だ。やや埃っぽくこもった空気がインテリタスの鼻を擽る。重たいカーテンの隙間から少しだけ明かりが漏れて部屋を薄暗いものにしていた。そして、インテリタスの予想通りに部屋に置かれたベッドに人が一人、丸くなって眠っていた。
探していた目的の人物である。大の大人が縮こまって布団の上で夢の中にいるのだった。男の表情は険しい。何かぶつぶつと口にしながら、顔を顰めて唸っている。人形のように美しい顔を持っているこの男は、今朝は人間のように複雑な表情を浮かべていた。マナブは悪夢でも見ているのかもしれない。
声をよく聞くために、インテリタスは男の唇に耳を近づけてみた。
「……タス、インテリタス、……息しろ……」
自分の名前がマナブの口から聞こえ、インテリタスは怪訝に思った。男は自分に呼吸をしろと言っている。どういう状況だかわからないが、彼の夢の中ではインテリタスは呼吸をしていないらしい。息をしていないということは、すなわち自分は夢の中で死に瀕しているのだろうか。
自分の死、というもの。概念であるインテリタスが死ぬならば、それはその概念が失われた時であって、呼吸を止めたからではないはずだ。しかし、今、インテリタスは人間の娘として顕在し、呼吸をして生きている。寒ければ相対的にため息は暖かくなり、鼻を擽られればくしゃみという破裂を起こすのである。呼吸を止めれば、確かにインテリタスは死ぬかもしれない。自分が死ぬ可能性がある……、さすれば、この世界での破壊という概念はどうなるのだろう。
自らの死に思いを馳せているインテリタスの目の前で、男の表情が一層険しくなった。自分の死とマナブの苦しみに関連があるとは思えないが、こうも魘されていては気の毒だ。
「マナブ」
インテリタスはマナブの名を呼んで起こす。しかし、男は起きなかった。インテリタスの声にびくりと震えた男が、さらに縮こまって嫌だ……と、うめき声をあげる。今度は肩に触って、インテリタスはマナブを揺すった。発熱する器官がない水の身体は布団をかぶっていても冷たい。
「おきて、マナブ」
悲痛な声を漏らして苦しんでいるマナブがインテリタスの手を掴んだ。すがるように強く握る。その手も冬の朝の室温と同じく冷たい。
インテリタスの人間の皮膚は、その冷たさに不快感を覚えた。思わず払いのけようとするが、マナブの手がそれを許さない。しばらくされるがままになっていたインテリタスだが、次第にマナブの冷たい手にインテリタスの手の熱が移り、互いの境界線がなくなっていく。
「……ああ、よかったー」
マナブの口から安堵の声が漏れた。何かが起こったらしく、マナブの夢の中で状況は解決したようだ。はたして、夢の中でインテリタスの生死はどうなったのか。それは、マナブのみぞ知ることである。
「よかった、ね」
夢の中で、うん……、とうなずくマナブ。インテリタスはそのまま、マナブが目を覚ますまで暖かくなった手を握っていたのだった。
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