第2話 星の紡ぎ手
父の葬送の夜、村は静寂に包まれていた。
漁師たちは松明を手に浜辺へと集い、アガレスの遺体を清められた小舟に安置した。
母レイナが祈りの言葉を唱え、村人たちが順に花を手向ける。だが誰もが、何を言えばいいのかわからない様子だった。
彼らは見てしまったのだ。
穏やかな漁師だったアガレスが、神のような力で怪物と戦う姿を。
そして今、その息子が――エピテウスが、同じ血を引いていることを知っている。
村人たちの視線が、エピテウスを避けるように泳いでいた。
恐怖なのか、畏敬なのか。あるいはその両方なのか。
エピテウスは、自分がもうこの村の一員ではないことを、肌で感じていた。
葬送が終わり、人々が家路についた後も、エピテウスは浜辺に残った。
波音だけが、静かに響いている。
父の剣――ルキス・アナスタスを、握りしめていた。
鞘に収めても、微かに光が漏れ、まるで生きているかのように脈打っている。
「父さん……」
呟くように虚空に語り掛ける。
「俺は、どうすればいい?」
答えは、返ってこない。
ただ、満月が海を照らしている。
銀色の光が波に反射し、砂浜に揺らめく影を落としていた。
そのとき――
足音が聞こえた。
いや、足音ではない。
砂を踏む音すらしない、まるで空気そのものが歩いているような、静かな気配。
エピテウスは振り返った。
そこに、少女が立っていた。
彼女は裸足だった。
白い素足が月光に照らされ、砂の上に影すら落としていない。
纏っているのは、星屑を織り込んだような布地。
それは風になびくたび、微かに光を放ち、まるで夜空そのものを身に着けているようだった。
だが何より、エピテウスの息を呑ませたのは――その瞳だった。
少女の瞳の奥に、星々が宿っていた。
無数の光点が瞬き、渦を巻き、まるで宇宙そのものを覗き込んでいるような錯覚に陥る。
「恐れないで、エピテウス」
少女は微笑んだ。その声は優しく、どこか懐かしい響きがあった。
「わたしはアステリオネ――あなたの始まりを紡いだ者」
エピテウスは、一歩後ずさった。
「あなたは……運命の女神?」
「そう」アステリオネは頷いた。
「アステリオネ、クロノメア、カイリュサ。運命を司る女神、その三姉妹の長女。糸を"紡ぎ・断つ"役目を持つ者」
彼女はゆっくりと、エピテウスへと近づいてきた。
砂の上を滑るように歩き、その足跡はすぐに波が消していく。
「でも……」エピテウスは喉の奥で言葉を探す。
「あなたが俺を生んだって……どういう意味ですか?」
「文字通りの意味よ」
アステリオネは、少年の目の前で立ち止まった。
潮風が吹き、彼女の髪が舞う。
その髪の一筋一筋が、金色の糸のように輝いていた。
「十五年前、わたしたち姉妹は命を紡いでいた。無数の運命の糸を紡ぎ、測り、断つ。それは永遠に続く作業。だけど、その夜――わたし達は、間違えた」
彼女の声に、微かな痛みが滲んだ。
「糸を断つべきところで、紡いでしまった。新しい命の糸を、余計に一本。それが――あなた」
エピテウスは、言葉を失った。
「本来、あなたは存在しなかった。あなたの父アガレスと母レイナの間には、子は生まれないはずだった。なぜなら、アガレスは神族であり、レイナは巫女。その交わりは禁忌とされ、糸は紡がれないように定められていた」
「でも、あなたは生まれた」アステリオネは続けた。
「わたしの誤りによって。そして――神々は、それを許さない」
月が雲に隠れ、浜辺が一瞬、闇に沈んだ。
「神々の秩序は絶対よ。誤りは、正されなければならない。だから彼らは"修正の手"を動かした。スキュラ=トーンは、その最初の刺客に過ぎない」
「まだ……来るんですか?」
「ええ、そしてそのたびに、多くの命が犠牲になる。あなたを守ろうとする者、巻き込まれる者、無関係な者たち。神々は容赦しない。彼らにとって、一本の誤った糸を正すために、百の糸が断たれても些細なこと」
エピテウスは、拳を握りしめた。
「じゃあ……俺が死ねば、終わるんですか?」
「そうね」アステリオネは淡々と答えた。
「あなたが消えれば、誤りは修正される。村も、あなたの母も、もう襲われることはない」
それは――簡単な答えだった。
『自分が消えれば、すべてが終わる。これ以上失われることは無い。だが。』
「でも、わたしはそれを望まない」
アステリオネの声が、波音に溶けた。
「あなたは誤りかもしれない。でも、あなたは生きている。笑い、泣き、悩み、生きている。それは紛れもない真実」
彼女は、エピテウスの手を取った。
その手は温かく、そして震えていた。
「わたしは、あなたに謝ることしかできない。あなたを生み、そして苦しみを背負わせた。でも――」
彼女の瞳が、真剣に少年を見つめた。
「あなたには選ぶ権利がある。神々の定めた運命に従って消えるか。あるいは、自分で運命を切り開くか」
「切り開くって……どうやって?」
「旅に出るのです」
アステリオネは言った。
「この村にいれば、また刺客が来る。そしてあなたの母も、村人たちも、巻き込まれる。でも、あなたが旅に出れば――この世界に紡がれた糸は動き出すでしょう」
彼女は、エピテウスの手を強く握った。
「あなたが動けば、新しい出会いが生まれる。新しい選択が生まれる。そして、その先に――真の運命があるかもしれない。神々が定めたものではない、あなた自身が選ぶ運命が」
「でも……」
「恐いでしょう」アステリオネは微笑んだ。
「わたしにも、恐い。だって、わたしは運命を"断つ"女神。だけど今、あなたに新しい
彼女の目から、一筋の光が流れた。
それは涙だった。星の光を閉じ込めたような、美しい涙。
「でも、わたしはあなたに生きてほしい。誤りとして消えるのではなく、一人の人間として」
潮風が、強く吹いた。
砂が舞い上がり、月光が揺らめく。アステリオネの姿が、光の粒となって解けていく。
「待って!」
エピテウスは叫んだ。
「俺は……どこへ行けばいいんですか? 何をすれば――」
「北へ」
消えゆく彼女の声が、風に乗って届いた。
「星々が集う聖地、アストラルム。そこに、すべての糸が集う場所がある。答えは、そこに」
光が、完全に散った。
浜辺には、再び少年だけが残された。
いや――
エピテウスの足元に、何かが落ちていた。
それは、金色の糸の欠片だった。
月光に照らされ、キラキラと輝くその糸は、まるで生きているかのように微かに動いている。エピテウスがそれを拾い上げると、糸は彼の手のひらで温かく脈打った。
これは――運命の糸。
自分を生み出した、誤りの証。
エピテウスはそれを、胸元にしまい込んだ。
そして、村を振り返った。
小さな家々が、月明かりに照らされている。母がいる家も、見える。まだ灯りがついていた。きっと、祈りを捧げているのだろう。
「……母さん、ごめん」
エピテウスは呟いた。
別れも告げずに去ることになる。
それは残酷なことだとわかっている。
でも、もし母の顔を見てしまったら――自分は、旅立つことができないだろう。
少年は、北を向いた。
海沿いの道が、暗闇の中へと続いている。
その先に何が待っているのか、わからない。刺客が来るかもしれない。
野盗に襲われるかもしれない。飢えて死ぬかもしれない。
でも――
「父さんは、選べと言った」
エピテウスは、剣の柄に手を置いた。
「だから俺は、選ぶ。自分で、運命を」
一歩、踏み出す。
砂が、靴の下で軋んだ。
二歩、三歩。
やがて、少年は走り出した。
裸足のアステリオネが歩いた砂浜を、波が消していく足跡を追いかけるように。
月が雲から顔を出し、道を照らした。
こうして、誤りの子の旅が始まった。
神々の定めた運命に抗い、自らの糸を紡ぐための――長い、長い旅が。
波音が、少年を見送るように響いていた。
そしてその音の中に、かすかに――
誰かが歌う声が混じっていた気がした。
優しく、悲しく、そして希望に満ちた、女神の子守唄が。
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