運命を越えた者たち
イチゴパウダー🍓
第1話 運命の誤糸
――三柱の女神が誤ってひとつの糸を織った時、
運命は秩序を失い、世界はその子に名を与えた。
潮風が、いつものように吹いていた。
漁村リュキナは、海に抱かれるようにして存在している。
石を積んだ家々が、崖に沿って肩を寄せ合い、狭い路地には塩の匂いと魚の干物が吊るされた軒先が連なる。村人たちは代々、海の恵みに生かされ、海の怒りに怯えながら暮らしてきた。
だが今夜の海は、違っていた。
エピテウスは窓辺に立ち、息を呑んだ。
水平線が、血を流しているように赤い。
夕焼けではない。
夜明け前の闇の中で、海そのものが発光しているのだ。波が打ち寄せるたび、泡立つ水面が深紅に染まり、まるで巨大な獣の傷口から溢れる血潮のように見えた。
「母さん……」
エピテウスは振り返った。母レイナが祈りの部屋から出てきたところだった。
彼女の顔は蒼白で、唇が小刻みに震えている。巫女として村の祈りを司る母が、こんな表情を見せることは滅多にない。
「エピテウス、家の奥へ」
母の声は静かだったが、その底に恐怖が滲んでいた。
そのとき――海が、鳴いた。
それは波音ではなかった。
地の底から響くような、低く、禍々しい咆哮。村中の犬が一斉に吠え始め、赤子たちが泣き叫ぶ声が、夜闇に広がった。
「来る……」
母は呟き、壁に掛けられた古い護符に手を伸ばした。
だが、その手が触れる前に――
轟音とともに、波が逆巻いた。
海面が盛り上がり、何かが、何か巨大なものが水中から姿を現し始める。鱗。
それは月光を反射して青白く輝き、一枚一枚が盾ほどもある大きさだった。
続いて現れたのは、無数の触腕。
いや、それは腕ではない。蛇のようにうねる首が、六つ、七つ、八つ――数え切れないほど海面を割って立ち上がった。
それぞれの首の先には、鋭い牙を並べた口があり、深海魚のように濁った眼が、村を見下ろしていた。
「……
母の声は、祈りのように細く震えた。
そして、天から声が降った。
それは言葉というより、概念だった。空間そのものが振動し、意味が直接、脳に刻み込まれる。
『糸がひとつ、余計に紡がれた』
『ならば切り落とすほかあるまい』
怪物が動いた。
最初に砕かれたのは、港に係留されていた漁船だった。
触腕が振り下ろされ、船体が紙細工のように押し潰される。続いて波止場の石組みが崩れ、海水が堤を越えて村へと流れ込んだ。
悲鳴が上がる。
村人たちが家から飛び出し、高台へと逃げ惑う。だが怪物の首は素早く、逃げ惑う人々の前に立ちはだかった。
「父さんは!?」
エピテウスが叫んだ瞬間、母が彼の肩を掴んだ。
「行ってはだめ――」
だが、その言葉は波音に飲まれた。
なぜなら、海の中から光が迸ったからだ。
青白い雷光。それは水中で爆発し、怪物の触腕のひとつを焼き払った。
獣が苦痛の咆哮を上げ、海面が激しく波立つ。
そして、その光の中から――父が現れた。
アガレス。
エピテウスの父は、いつも穏やかな笑みを浮かべた、無口な漁師だった。
粗末な麻の服を着て、網を繕い、魚を捌き、息子に海のことを教えてくれる、ただそれだけの男だった。
だが今、そこに立つ父は、別人だった。
全身から青白い光を放ち、右手には見たこともない剣を握っている。
刀身は透明な水晶のようで、内部に稲妻が閉じ込められているように明滅していた。父の瞳は、人間のものではなかった。
嵐の海のように深く、そして冷たく光っている。
「……父さん?」
エピテウスの声は、震えていた。
父は一瞬だけ、息子を振り返った。その目には、悲しみがあった。
「すまない、エピテウス。お前を、普通の少年として育てたかった」
そして父は、怪物へと向き直った。
剣を構える。
その動きには迷いがなく、まるで何百年もそうしてきたかのような洗練された所作だった。
「ルキス・アナスタス――」
父が剣の名を呼ぶと、刀身が激しく輝いた。雷が剣を纏い、その光は夜を昼に変えるほど眩しかった。
怪物が襲いかかる。八つの首が同時に牙を剥き、父へと殺到した。
だが父は、動じなかった。
剣を一閃。
雷光が走り、空間が裂けた。
怪物の首が三つ、一瞬で切り落とされ、黒い血が海へと降り注ぐ。獣が悲鳴を上げ、残りの首で父を囲もうとする。
だが父の動きは速かった。
人間離れした速さで跳躍し、剣を振るい、雷を放つ。海と雷が交錯し、村全体が青白い光に包まれる。
エピテウスは、ただ見ることしかできなかった。
父が――自分の父が、神話の中の英雄のように戦っている。
それは美しく、そして恐ろしい光景だった。
やがて、父の剣が怪物の心臓部を貫いた。
鱗の王は、天を仰いで絶叫し、巨体を海へと沈めていった。波が収まり、赤かった海が徐々に黒へと戻っていく。
勝ったのだ、とエピテウスは思った。
だが、父は倒れた。
膝をつき、剣を杖のようにして身体を支えている。
その全身から、赤い血が流れていた。人間の血だ。
神々しい光は消え、そこにはただ、傷ついた一人の男がいた。
「父さん!」
エピテウスは母を振り切って駆け出した。崩れた石段を跳び越え、浸水した路地を走り、父のもとへと辿り着く。
「父さん、父さん!」
父はゆっくりと顔を上げ、息子を見た。その目は、再び、いつもの優しい色に戻っていた。
「……大丈夫だ。まだ、死にはしない」
だが、その声は弱々しかった。
父は、三日間眠り続けた。
村人たちが総出で後片付けをする中、エピテウスは父の枕元を離れなかった。母も、祈りの合間に何度も父の傷を診たが、その表情は晴れなかった。
「普通の傷ではない」と母は言った。
「神々の獣に傷つけられた者は、魂まで蝕まれる」
そして、三日目の夜。
父が目を覚ました。
「……エピテウス」
弱々しい声に、エピテウスは飛び起きた。
「父さん! 起きちゃだめだ、まだ――」
「いや、いい」アガレスは身体を起こし、息子の手を握った。
「話さなければならない。もう、時間がない」
分厚く逞しい父の手は今では氷のように冷たい。
「お前は……ただの人間じゃない」
アガレスはまっすぐにエピテウスの目を見つめている。
「女神たちの誤りから生まれた子だ」
エピテウスは、言葉を失った。
「運命を紡ぐ三女神がいる」アガレスは続けた。
「アステリオネ、クロノメア、カイリュサ。彼女たちは人の生と死、運命の糸を紡ぎ、測り、断つ。だが、十五年前――彼女たちは誤った。糸を一本、余計に紡いでしまった」
「それが……俺?」
「そうだ」アガレスは頷いた。
「お前は、本来この世に産まれることができない運命だった。だから神々は恐れる。秩序を乱す存在、予測不能な運命として」
父は、枕元に置かれた剣に目をやった。
ルキス・アナスタス。
神剣と呼ばれたその剣は、今は光を失い、ただの金属の塊のように見えた。
「この剣を持て、エピテウス」
アガレスはエピテウスの手を取り、剣の柄に添えた。
「これは、神の雷を封じ込めた剣だ。いずれ、"運命の糸"を断たねばならぬ時が来る。お前自身の糸を。あるいは、神々が紡ぐ糸そのものを」
剣の柄は、冷たかった。
だが――
その瞬間。
剣が、脈打った。
内部に封じられていた光が、心臓の鼓動のように明滅し始める。
青白い輝きが刀身を走り、エピテウスの手のひらから腕へ、そして全身へと広がっていった。
それは痛みではなかった。むしろ、懐かしい感覚だった。
まるで、ずっと忘れていた何かを思い出したような――
「……父さん、これは」
「お前の血が、剣を目覚めさせた」
父は微笑んだ。
それは悲しい笑みだった。
「もう、ただの少年としては生きられない。神々はお前を見つける。そして、必ず殺しに来る」
「でも――」
「逃げろとは言わない」アガレスは言った。
「お前は、選ばなければならない。神々の秩序に従って消えるか、あるいは――自分の運命を、自分で切り開くか」
アガレスの手が、エピテウスの頭に置かれた。
「どちらを選んでも、私はお前を誇りに思う」
その言葉を最後に、父の手が力を失った。
エピテウスは父を抱きしめた。
温もりが、ゆっくりと消えていく。
そして、剣だけが、少年の手の中で静かに光り続けていた。
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