Day1 日連 歩く
【勝瀬橋】。
相模川にかかる橋だ。湖の奥に、二時間前に初めて相模湖を見渡した、あの巨岩のあった広場が見える。
「長い距離、歩いてきたんだなあ」
橋の前方はT字路になっている。青い看板が右側に車や人を促している。「日連」という地域らしい。
左側には、三つの豪華な城が見えた。しかし、やっているのはひとつだけらしい。残り二つは廃城になってしまったようだ。
いろいろな愛の形がある。けれど、こういう場所はすぐに廃墟になって、その夢の跡だけを残す。ここで愛を語らった人はどういう風に感じるのだろう。
唯一経営している城からは、物静かで雄大な、けれど天気のせいで少し寒々しい湖畔の景色にはそぐわない外国の歌がもれでていた。
ツキノワグマが出た、と看板。死と隣り合わせの逢瀬は、ひょっとすると、この世で一番心地よいのかもしれない。
【日連】
「ひづれ」と読むらしい。にちれんかと思った。
夕方四時。柴犬を連れて散歩する女性が前方にいる。右手の直売所では栗が売られていた。買って帰ろうかとも思ったけれど、あいにく調理できる道具がない。フライパンでいけるなら買ったのに。
左側に神社が現れた。
ふと、犬が一度そちらの方向に向かって、吠えた。
「え……?」
そして何事もなかったかのようにくるっと踵を返す。女性のほうも困惑げだ。犬には犬の世界がある。大切なものを見失ってばかりの私たちには見えないものが見えているのかもしれない。
さらにゆくと橋が見えてきた。今日何度目の橋だろう。
【日連橋】
前から三輪車に乗った子どもがやってきた。かわいい。ゴリゴリと一心不乱に地面を進む。
日連橋は、さっきの勝瀬橋よりもシンプルな橋だった。けれど、高い。ここから落ちたら、すぐにあの世ゆきだろう。そして、今まさに生きようとしているこの子に相当のトラウマを植え付けることだろう……。それに、怖い。ひょっとすると、私は少し高所恐怖症の気があるのかもしれない。
足早にそこを過ぎ去り、また道を進む。
何度目かの、人があまり通らない方がいいよううな暗い道を進む。足元だけがランプで照らされている。
谷崎潤一郎が闇の美しさを評した随筆を書いていたけれど、きっとこういうのだろう。昔はもっと闇が深くて、そこには恐ろしさと同時に美しさがあったに違いない。
だからといって、ここに夜に来る気にはならないけれど。クマに食べられたくないし。
暗い林道を出ると集落に出た。
左側に小学校が見えた。子どもたちの姿がちらほらと見える。
五時手前。そういえば、今日は月曜日。天気が悪いせいで薄暗いが、学校帰りの時間なのだろうか。学童クラブの後なのかもしれない。
おそらく最後の橋になるだろう。ここを渡れば、また甲州街道に合流して、すぐに藤野駅だ。
その前に、と私は橋の手前にあるスーパーに入った。
私は毎週本屋に行く。それは、本が好きだからだ。今日も、本当は本を読みながら歩く予定だった。さすがに危なすぎて二十ページくらいしか進まなかったけれど。
それはともかく、もう一つ好きなのが、スーパーマーケットだ。
品ぞろえや、商品の配置にお店の個性が出ると思う。便利や安さを追求するお店もいいけれど、こういう、地元に密着していそうなお店はもっと好きだ。
小さなお店。Googleには「ラーメン大集合」というよくわからないキャッチコピーが出ていたけれど、カップラーメンはいつも目にするものが多い。唯一、サッポロ一番塩ラーメンのシーフード味が目に入った。
「これって、近所でも売ってるのかな」
買うわけにはいかないので、存在だけ記憶にとどめる。
おじいさんおばあさんがカートを押しながら、商品を吟味している。子どもが嬉しそうに、カートを押している。
まぐろがおいしそうだ。海からだいぶ離れているだろうに、ここまでよく来たね。たくさんいるまぐろの中でもここまで来たのは君くらいかもよ、とよくわからない感慨を覚えながら、私はここを後にした。できればお手洗いを借りたかったけれど、見当たらなかった。
【日連大橋】。
橋の手前に岩のモニュメントがあった。マリオのイワンテのような、カービィUSDX「洞窟探検隊」に出てくる魔人ワムバムロックの手のような見た目の岩だ。
橋を渡る頃、にわかに小雨が降り出した。最後の最後で雨か。傘を持っていない私には、もう時間がない。
橋を渡り終え……。
「えっ、そんな……」
藤野駅まであと少しだ。あと、この坂を上って、甲州街道沿い合流して少し進めば。
しかし、この坂……けっこう車通りもあるのに。
「歩道が、ない」
いや、だいじょうぶ。
だってここまで来たじゃないか。山道を迂回して、橋を渡って、見たこともない集落を通って。
気づくと私は微笑していた。
よく見たら、上から学生たちが歩いてくる。人が歩くのも前提の道だ。
あと少し。あと少しだ。
「よいしょ……よいしょ」
明日は筋肉痛かもな。
「よっと……」
上り切った。背後に、日連の集落が見える。
(あそこを、歩いてきたんだなあ)
少し長く歩いたときは、いつもこういう達成感と寂しさがある。
ああ、もう今日も終わりだ。
五時のチャイムが響いた。
あたりはもう暗い。
交差点のボタンを押して、少しだけ甲州街道を通る。
歩道のありがたみを踏みしめながら、駐車場わきの小道を進み、ついに、そのときが来た。
【藤野駅】。
小さな駅だった。
いつもそうなのだけれど、疲れはそのときにはあまり感じないのだ。
ただ、電車の椅子に座ると急に眠気がやってくる。たぶん今日も寝てしまうんだろうな。
自販機で買ったドーナツを食べながら、電車を待つ。
「今日も終わり……」
駅の椅子で、ぼんやりとスマホを眺めていると、あっという間に真っ暗になった。
やっぱり、スマホは漫然としてしまう。だから、今日の私は、きちんと生きた、と思う。自分の足で歩いた道は、確かな軌跡だ。誰の記憶にも残らないけれど、確かに私の記憶に残っている。いつか、死んでしまうときがくるなら、こんな旅の中で死ぬのもいいな。痛いのは、いやだけれど。
中秋の名月だったっけ。あいにくここからは見えない。
けれど、届かない美しさよりも大切なものを手に入れた気がした。
相模湖編(了)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます