第2話 マンネリプログラム

 梓の店を後にして梅田の繁華街へ戻る。今日は金曜だから飲み屋街にはどこまでもサラリーマンや学生の群れが続いている。華金ってやつだ。その群れを突っ切って御堂筋線に乗り、満員電車に揉まれながら難波まで戻ると聡から連絡がある。お互いの職場が難波にある。今日は聡の仕事が遅かったから私は一旦梅田に向かい、梓とカフェしてから南海難波中央改札で落ち合う約束だった。

 帰宅ラッシュは過ぎ去ったものの難波には飲み屋帰りの群衆がまだ大勢いる。大阪のミナミと呼ばれるこの地域は眠らない街として有名で、グリコ看板の知名度もあり、いつどこでも観光客やサラリーマン、客引きや女の子で溢れている。飲食店に行くと大抵は東南アジアの留学生が働いていて、待ち合わせ場所の南海難波中央改札にも観光客がひしめいているから、ふとここは外国なのかと思うときがある。その中でも聡は特に背が高いからよく目立つ。今日も莉子はすぐに聡を見つけ出した。

「お疲れ様」

「お疲れ」

 何度交わしたか分からない会話を交わし、プログラムされたみたいに改札を通り、何度向かったか分からない七番ホームに向かい、何度も乗った列車に乗る。降車駅の階段に最も近い四両編成の三号車に入り、隣合わせに聡と座る。そんな決まりはないけれど、そういう風に身体が習慣化されている。恋愛もこれに似ていると思う。スマホを右手に、聡はいつものようにツイッターを漁り、左手はだらんと太もものあたりに据えたまま、聡は降車するまで一言も話さなくなる。そんな聡を知っているから、莉子も営業の資料やSNSをチェックしながら時間を潰す。たまに話を振ると一応返事はしてくれるから、今日あった出来事を軽く話したりもする。

「さっき梓に会って来たよ」

「言ってたね、元気してた?」

「うん」

「それはよかった」

 それだけの会話の後、莉子もスマホを開く。もはや知らないサラリーマンが隣に座っているのと何も違わない状況だけど、それでいい。梓からのお礼のLINEが来ていた。「今日はすっごく楽しかった、また飲もうね!」と嘘か本当か分からないメッセージが来ていたから、「うん、また飲もう」と当たり障りのない返信をする。他人には素っ気ないくらいの距離感が丁度いい。特に梓のように表裏のある人間を相手にするとき、いちいち相手の言動を真に受けると疲れたり自らが搾取されてしまうから、ある程度適当に接することが自分を守ることにも繋がる。梓もその方が心地よいと思う。しかし今日は「結婚したいからプロポーズする、それだけだと思うな」という梓の言葉がしきりに思い出され、太もものあたりに何度か力が入ったから、きっと真に受けてしまったのだと思う。肝心の彼はというと、やはりスマホの画面に取りつかれていた。かつて電車の中で手を繋ぎ、胸をときめかせたことも遥か昔の出来事で、風化した写真みたいにその輪郭は遠くぼやけて、もう忘れてしまいそうだ。

 スマホという薄っぺらい板には溢れ出すほどのコンテンツが入っている。それを適当に消費しているだけで列車は最寄り駅に到着しているから、SFの空間転移のようだと思う。周りを見渡してみてもスマホを触っていない人はいない。ある人は聡のようにSNSをチェックし、ある人はスマホを横持ちにしてゲームに没頭し(もちろんイヤホンもマストで装着している)、制服姿の男子学生が参考書を開きながら熱心に勉強している姿も見られるが、受験勉強さえスマホでできてしまう世の中だから恐ろしい。これに違和感を覚える自分がもやはマイノリティなのだと莉子は実感するから、スマホをやめてくれない聡に苦言をは放つことも躊躇してしまう。

 ドアが開いてから三歩歩いたところでICカードを取り出し、その目の前に改札に続く階段があるのも当たり前で、聡の高い背中の後ろを私が歩くのも当然のこと。それから五分ほど歩き、聡を先頭にしてドアを開け、同じ空間で衣食住を共にすることもお決まりの流れ。まるでこの日常の全てがプログラミングされているようだ。スマホをちらちら見る聡の隣で帰路につき、マンションの二階にある2LDKへ帰宅する、聡は鞄をソファの前に無造作に置き、スーツと靴下をその場で脱ぎ棄てる。下着姿になるとソファにどかっと腰を下ろし、適当にテレビをつけてゲームを始める。最近発売されたゲームが面白くてついやり込んでしまうのだと、一か月前と同じセリフを莉子の前で復唱して毎日ゲームをする。そんな聡の横で莉子は夕飯の準備をする。残り物のご飯に卵を混ぜ、軽いチャーハンにする。

「梓、元気そうだったよ」

 莉子は梓の話をぶり返す。

「そうなんだ」

 聡は会話よりもゲームのコマンド入力に夢中になっていた。耳だけはこちらに向けているけれど、当たり障りのない返事しかしないから会話が続かない。付き合った当初はもっと会話のキャッチボールがあった。高身長でハンサムだと思っていたけれど、ボクサーパンツに白の肌着を着て、ゲームに没頭する聡が見慣れてしまい、今はただのおっさんのようだ。

「結婚とか考えてんのかって、ずっと訊かれるんだよね」

「へえ」

「私たち、もう六年とかになるんだよね」

「そんなになるんだっけ」

「うん、来月」

「そっか、長いもんだね」

 他人事のような聡の態度を察して莉子は会話を止めた。他人の話はろくに聞かないくせに、チャーハンできたよと声をかけると、途端にご飯に呼ばれた犬みたいに聡は律儀にコントローラーを置いてダイニングへやって来た。餌箱みたいなプレートに適当に作ったチャーハンをドックフードみたいに盛ってやると、そこにスプーンをひとつ添えて、聡はそれを貪る。スプーンを使えるくらいちょっと器用な犬みたいに。

「ごちそうさま」

「うん」

 あっという間に夕飯を終え、聡はまたソファに戻ってゲームを再開する。今日こんなことがあった、面白いものを見つけた、食卓に添えるそんな会話もいつしか全く無くなって、聡の方がいつも早く食べ終わるから莉子はひとりで残飯を食する。これでもいい方で、二人そろってご飯を食べることも最近は少なくなった。

「お風呂沸かすよ?」

 聡は突然そう言うと、一旦ゲームの手を止めて風呂場に向かう。栓を閉め、スイッチを押すだけの簡単な作業を得意げにこなし、風呂の水が溜まり始めたのを確認してソファに戻ってきた。

「ありがとう」

 莉子は声帯だけ動かして言った。本音を言えば、一分もかからない作業をこなしただけで家事をしている気にならないでほしいし、風呂の準備も、単に自分が風呂に入りたいからこなしただけ。聡の中心には莉子ではなく、いつも聡自身がいる。

 マンネリ化とでも言えばいいのか。こんな味のご飯、こんな風呂での気分、こんな口癖、こんな湯沸かし器、変わらない日常の中にあって莉子は、もう二十九になるという事実とともに冷めて固くなったチャーハンを噛みしめる。習慣化された毎日の中でも、私たちが歳を取るということは変わらない。

 陳腐な土日を過ごせばすぐに新しい月曜がやってくる。どこかに出かけることもせず、ゲームを楽しむ聡がリビングを占領する中、寝室にこもってSNSを楽しんだり、たまにコンビニやスタバに出かけて暇つぶしをするだけの休日。そうして、ただ歳を取ったことだけを実感する週始めの合図がカーテンからこぼれる朝日とともにやってくる。

 歳を取るという事実を思い知ると、未来への扉を閉ざされているような感じがする。

「もうすぐ二十九なんだよね、俺」

 目玉焼きとトーストを囲む朝食で、聡が珍しく自分から話し出した。

「歳取るのだけは早いよね。ほんと」

「そうだね」

「うん。俺さ、このままで本当に良いのかなとか思う時がある」

 一瞬、その言葉にどきっとする。

「それは、どういうこと?」

「いや、例えば仕事とかさ、七十歳近くまでこの仕事を続けるのかなって思うと気が遠くなるし、それって正解なのかなと思って。いや人生に正解なんてないと思うけれどさ、極端な話、このままずっと大阪に住み続けることだって、これで本当にいいのかとか」

「うん」

「色々考えちゃうんだよね。何かやり残したことないかなとか」

「うん」

「まあ、それだけの話だよ」

 トーストのタイマーがチンと鳴り、聡の話を遮った。

「聡は、今の生活を変えたいって思う?」莉子が訊く。

「そうだなー、まあ、このままでいいのかなって思う時はあるけれど、むやみに変えようとは思わないよね」

「そっか」

「しんどいじゃん」

「確かに、そうだね」

 ぐさりと何かが莉子の胸元をえぐった。現状維持は確かに楽だと思う。でもこのまま何も変わらず、歳を重ねていくだけの日々が訪れると思うと恐ろしくてたまらない。六年近く付き合ってきた。さらに六年を重ねれば莉子は三十五歳になる。二十代の女でいられる時間もあと僅かだというのに、聡はいつまで経ってもプロポーズしてくれない。

 食欲が失せたから莉子はトーストを残した。先に家を出た聡を見送り、電車を一本ずらして自分も出勤する。以前は聡と一緒に出勤していたけれど、どうせ電車の中でも話さないし、一人の方が互いに楽だと思って最近やめた。

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