マリッジ・グレイ
森田田根子
第1章 Jupiter
第1話 ミコンクラブ
「結婚とか考えてんの?」
莉子は透明なグラスに注がれたアイス珈琲をストローで吸い上げる。グラスにはハーブの葉が飾られ、珈琲のくせにカクテルみたいな見た目をしている。珈琲の苦みを舌で、ハーブのつんとした香りを鼻で感じていると、珈琲のくせにカクテルみたいな味わいだなと思う。莉子はストローから口を離すと、赤く彩られた厚い唇をゆっくり引き剥がす。
「まだかな」
「いつから付き合っているんだっけ。五年くらい?」
「さあ」
「いや違う、莉子たち来月で六年だよ!」
「そうなんだ」
「そうだよ。いや長いねー」
莉子の向かいで梓は天井を見上げる。その骨ばった美しい輪郭はアラサーになっても変わらない。
「もう二十九になるんだよなー私たち」
「そうね」
スーツに身を包み、丁寧に化粧をしている莉子とは違い、梓はユニクロの普段着で化粧もろくにしていなかった。昔は派手なワンピースを着て華美に着飾っていたけれども、社会人になったことをきっかけにそれもなくなった。
梓とは大学で出会った。人見知りでろくに恋愛経験の無かった莉子に対して、梓は当時から社交的で彼氏が途切れなかったが、社会人になるとそれは逆転し、職場で彼氏を見つけた莉子に対して、梓は男の話をめっきりしなくなった。莉子の知る限り、梓は社会人になって一度も彼氏を作っていない。
「この間お客さんにね、よかったら連絡くださいって紙切れ貰っちゃったの。電話番号書いてあるやつね。今どきこんなドラマみたいなナンパ存在するんだってびっくりしちゃった」
この手の話は昔からよく聞いていた。顔立ちも良くて、朗らかでさっぱりした性格だから、梓に寄って来る男は絶えない。そして、その先どうなったかも大体想像がつく。
「それで、その人どうだったの?」
「ハンサムな人だったよ。歳は三十三って言ってたかな。身長も高くて細マッチョで」
「いいじゃん、連絡しなよ」
「でもなんかしっくりこないんだよね」
やっぱり。莉子は悟られないように鼻から溜息をつく。なんか違う、しっくりこない、梓の口癖。それで今まで何人の男とのチャンスを棒に振ってきたのだろう。理想が高くても婚期を逃すだけなのになと莉子は心で呟く。その気になればすぐに結婚できるのにズルズル歳だけ重ねて、三十を過ぎれば男から相手にされなくなってしまう。女なんてそういうものだ。
「別にいいのよ、それで」
それも承知の上だと主張するみたいなドライな口調で梓は言う。
自分の身長よりもはるかに大きな観葉植物に囲まれたこのお洒落なカフェは梓の店だ。ハーブに彩られた高級感漂うこの珈琲も梓が淹れてくれたもので、普段なら九百円するところを半額にしてもらった。このカフェだって名のある企業に就職したくせに早期退職して開業させたものだった。今日は仕事終わりに会おうと梓から声をかけてくれた。こうして会うのは半年ぶり。随分と間が空いたと思う。
「それで、莉子は結婚とか考えてんの?」
「それ、そんなに聞きたい?」
「それが聞きたくて今日呼んだのよ? どうなのよ。聡からも何もないわけ?」
「なんにも」
「プロポーズの予兆とかも?」
「何にもないよ」
「へえ」
梓はニヤニヤした。それが莉子の胸をデコピンみたいに打つ。心に痛みが走り、じんわりと広がり薄れていくのを感じながら、莉子はひとつ呼吸を深くした。
「その珈琲にアルコールでも混ぜれば莉子も色々と喋ってくれるかな?」
「私が酒に弱いこと知っていてそれ言う?」
「でも酔わせたら面白そうだし」
「そういうのやめてよ」
まるで自分がアルコールに酔っているみたいに饒舌な梓にかすかな鬱陶しさを覚えたのも束の間、「もう三十も近いんだから、そろそろプロポーズしてくれなきゃ困るよね」と、そんな梓の言葉にどう反応すればいいか分からず、莉子はただ「そうだね、そろそろ」と呟くことしかできなかった。
「そう言うってことは、やっぱり結婚考えているんだ?」
梓がニヤリとした。他人事なのをいいことに恋愛についてあれこれ訊かれるのは、土足で自宅を徘徊されることに似ていると思う。
「別にそういう訳じゃないけれど」
「でも長く付き合っていると焦りもあるでしょ?」
「まあ、それはね」
「聡もさっさと腹決めればいいのに。いつまで莉子を待たせているのだか」
「聡にとっても簡単な決断じゃないってことだよ、きっと」
「そうかな。簡単なことだと思うけどねー」
「どういうこと?」
「いや、だって結婚したいからプロポーズする、それだけだと思うけどな、私は」
言った瞬間から梓はバツの悪そうな顔を浮かべ、口を直すようにストローを咥えた。
「聡の中でまだそのときじゃないのかもしれない」と梓が付け足したとき、莉子のグラスの氷が落ちてカラっと音を立てた。
「そうだね。聡にとって、私は結婚する価値のない女なのかもね」
「そういうことじゃないって」
自身の失言に気づいたのだろうか。梓は弁明するように口角を上げ、糊で貼り付けたような笑みを浮かべる。
「ごめん」
「まあ、別にいいけど」
別にいい。この一言を絞り出すために心臓の細胞を幾ら噛み潰しただろう。莉子は瞳の奥で、女としての幸せに対する焦りに全く苛まれていない梓の顔を捉え、縮毛矯正をかけた美しい茶髪を耳にかけ、赤みの深いリップの唇を開き、珈琲を飲み干してしまった。
「聡は元気? 変わらず?」
梓が話題を変える。日本人形のような表情で莉子はじっとしている。
「びっくりするくらい変わらないよ」
「そうなんだ。おもんないなーあいつ。でも恋人としてはいいかもね。色々と変わったら価値観合わなくなることもあるから。その点たぶん聡は変わらないし。莉子もその方が接しやすいだろうし」
「そうだね。そういう意味ではいいかも」
「あとはあいつがいつ莉子にプロポーズするかって、それだけなのにさ。まじで早くプロポーズしろよなーあいつ。こっちは待ちくたびれてるんだって。あ、待ちくたびれているのは私じゃなくて莉子の方か。ごめんね」
その軽い口調がちょっと苦手だと莉子は顔をしかめる。梓は私たちの真剣な恋に対して数奇な視線を送り、私たちの進展がない恋愛話を自らのエンタメ娯楽として消費するためだけに今夜私をここに呼んだのだと思ってしまう。それに梓は何も分かっていない。変わらないほうが安心できると言うけれど、長く付き合っているからこそ変わってしまうことより変わらないことの方が恐ろしくなるときがある。梓のように短い間隔で沢山の恋人を経験して、変化の絶えない恋愛をしてみたいと思うときもあった。だから梓は恋愛で迷ったことがないのだ。気が合わなければ別れればいいし、気に入った相手とは付き合うなりワンナイトするなりすればいいと答えがはっきりしている。私はそうじゃない。聡が最初で最後の人で本当にいいのだろうかと悩むときもあるけれど、付き合っている以上は結婚まで真剣に考えないといけないと信じている。
莉子の身長よりも大きな観葉植物の葉が揺れていた。エアコンの風がそこに当たって、跳ね返って冷たい空気が流れ込んでくると、カラン、またグラスの氷が落ちた。二杯目はどうかと梓が訊いてきた。そろそろアルコールを入れられそうだったので遠慮した。
「じゃあ、また」
「うん、何か進展あったら聞かせてよ。まあ聡の方から聞くかもしれないけどさ、莉子とも定期的に話したいし、これからも付き合っていきたいしさ」
「うん」
「今日は来てくれてありがとね。お代は要らないから」
「うん」
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