人の肌《はだへ》に追い縋り

 どれくらいたったのか、玲花がタオルで髪を拭きながら戻ってきました。ぎょっとしたようにわたしとテーブルの上を見比べて静止してしまいました。

「どうしたの?」

 驚いた顔の玲花がおかしくて、へらへら笑っていました。

「どうしたのじゃないわよ! そんなに飲んでだいじょうぶなの?」

 確かにテーブルの上には缶が二本並んでいます。一本はもちろん空で、もう一本もかなり軽くなっています。

「だいじょぶだいじょうぶ」

「だいじょぶじゃないでしょ! 完全に酔ってるよ、日向」

 怒られている気がするけれど、あまり気になりません。それよりも気になることがあります。

「ちょっとお風呂長くなかった?」

「そんなことないよ——」

 なぜか、少し動揺を見せる玲花でした。

「そんなことある! だって寂しかったもん。寂しかったから、一本空けちゃった」

「はいはい、わかったから、それで終わりにしようね」

「えーっ! 玲花もいっしょに飲もうよ」

 うざ絡みしている自覚はありました。でも、やっぱり楽しくてやめられませんでした。困った顔や呆れた顔、少しイラついた顔、でもそんな顔を見せてさえ、最後には放っておけない顔を見せてくれる玲花が嬉しかったのです。

「あ、そうだ。髪の毛乾かしてあげる!」

「は?」

 わたしは玲花の返事も待たずに、脱衣場にあるドライヤーを取りに行きました。

 戻ってきて、玲花は床に、わたしはソファーに座って、玲花の髪に温風を当てます。

「熱かったら言ってくださいねぇ」

「はいはい」

 観念したようにされるがままです。

 形の良い卵形の後頭部、ストレートの黒髪、しっとりと湿り気を帯びて、わたしの指に絡みつきます。立ち昇る香りにお酒とは違う酔いを感じます。わたしはドライヤーを止めて、玲花の頭に顔を寄せました。

「な、なに? どうしたの?」

「いい匂いだなと思って」

「シャンプーの匂いでしょ」

「うん、だけど、玲花の匂いもする」

 玲花は体を固くしました。でも、言葉を発することはありませんでした。

 わたしは息を思いきり吸い込みました。

 体中に玲花の香りが満たされていく感覚。

 愛おしい——。

 今なら言えるかな——?

 わたしの気持ちを伝えられるかな?

 でも、今はずるいよね。酔ってるし、冗談にされてしまうかもしれない。

「ねえ、いつまでそうしてるつもり? 早く乾かしてよ」

 つっけんどんに聞こえて、照れ隠しなのがバレバレです。わたしはもう一度玲花の香りで体を満たし、ドライヤーを再開しました。

 さらさらの髪が戻ってきました。丁寧にブラシを通して、指先を滑り落ちる髪を楽しみます。

「いつまでも遊んでないで、今度は日向の番。生乾きのままじゃない。わたしがやってあげる」

 わたしは嬉々として位置を変わりました。嬉しすぎて、頭をふらふら左右に振っていると、ふざけないでと怒られました。

 温風が心地いい。

 わしゃわしゃと頭を掻き回される感覚もくすぐったい。

「日向もいい匂いしてるよ」

「ん」

「わたしと同じ匂い——」

 ああ、そうか。今夜は玲花のシャンプーを使ったから、同じ匂いがするんだ。

 そんな些細なことに、胸が熱くなります。

 単純だなと思います。

 でも、そういうことの積み重ねなんだと思います。積み重なって積み重なって、積みすぎた思いはどうなるのでしょうか。

 玲花に届く?

 それとも、倒壊する?

 髪も乾かし終えました。

 玲花と並んで床に座りました。わたしは玲花の髪を手に取って、その香りを確かめます。そして、わたしの髪の香りも確かめます。

「同じだねー」

 満足感ににやにやと笑ってしまいます。

「それがどうしたの?」

 玲花はそっぽをむいてしまいました。

「玲花が言ったんだよー」

 玲花はふんと鼻を鳴らして立ち上がりました。

「わたしも飲もうかな」

「はい! 私もおかわり!」

「日向はもうダメ! もう、だいぶ酔ってる」

「ちぇっ、ケチ!」

 ぎろっと睨まれて、わたしはおどけて肩をすくめてみせました。玲花はレモンサワーの缶と烏龍茶のグラスを持って戻ってきました。

 しばらくお互い黙ってちびちびと飲み物を口にしていました。わたしは知らず知らず、玲花の肩に頭を預けていました。玲花は優しいから、頭が安定するように体を動かしてくれました。

 また、積み重なっていく——。

「いっしょにお風呂に入りたかった」

「まだ言ってるの?」

「だって——」

「だってじゃないでしょ。生理だから、見られたくなかったの」

「——いいのに。どんな玲花だって見てみたいのに」

「なに変なこと言ってるの⁉︎ 気持ちのいいもんじゃないでしょ」

「そんなことないよ。玲花はいつだって綺麗だもん。綺麗だから、また見てみたいなって——」

 わたしは言葉を切りました。これ以上言ってもいいのかと、今更のように自制が働きました。けれど、正直になろうと決めたばかりです。それに、今は言いたい。

「また、触ってみたいなって」

 ぴくっと玲花の体が震えました。そして、レモンサワーを飲む気配がしました。喉が鳴る音を聞きながら、わたしの鼓動が早くなっていくのを感じていました、

「変なこと言わないで」

 短い沈黙の後、玲花が言いました。

「変じゃないよ。綺麗な玲花は何度でもみてみたいし、触ったりもしたい」

「それが変だって」

 わたしは思わず玲花の肩に預けていた頭を起こしていました。真正面から顔を見合わせて、目と目を合わせます。

 やけに距離が近いなと思いました。玲花の息からアルコールの匂いがします。未成年なのにイケナイななんて思いながら、自分もかと苦笑してしまいます。

 思考が右往左往しています。なんの話をしてたんだっけ。

「変じゃない。わたしには当然のことなの」

「ちょっと、距離が近い」

 玲花が離れようと少し後ずさりました。わたしは逃すまじと追いかけます。

「いいよ。誰も見てないし」

「あーもう、酔ってるでしょ?」

「酔ってない!」

「酔っ払いほど酔ってないって言うんだって」

「じゃあ、素面の人も酔ってないって言えば酔ってることになるの?」

「あー、変な絡みしないで。それが酔ってる証拠だから」

「また、変て言った」

 何度も言われ続けて、悲しくなって、涙がじんわりと溢れそうになりました。

 玲花が慌てています。

「ごめん、言い過ぎた」

「いっしょにね、お風呂に入りたかっただけなの」

「わかった。また今度ね」

 玲花は宥めるように頭を撫でてくれます。

「今度っていつ?」

 言葉を詰まらせる玲花。

 言葉を待つわたし。

 玲花は即答してくれない。

 次に泊まれる機会があるとすれば、大晦日。

 一週間もすればすぐに訪れるのに、なぜか言ってくれない。

 答えが思いつかないかのように、一向に口を開いてくれません。

 わたしの中で、不安や困惑が一気に膨張していくようでした。

「今度っていつなの?」

 繰り返される質問に、やはり答えは返ってきませんでした。玲花は目を逸らして、唇を噛んでいます。

「なんで、答えてくれないの? 大晦日だってあるじゃない。ううん、冬休みなんだから、いつだっていい。口実なんか勉強会とか適当でいい。わたしはこのままここに泊まり続けてもいいんだよ!」

 玲花が逸らしていた顔を戻して、わたしと目を合わせてくれました。

「そうだね。いつだっていいよね——」

 どうして、そんなに苦しそうなの? 息をするのが辛いみたいな顔をしないで。

 頭を撫でてくれるけど、それはあまりにも機械的で、無機質な感覚がしました。

 それに、玲花は明確な日時を言ってくれません。いつだっていいという、曖昧な答えしか返してくれないのです。

 悲しみなのか、怒りなのか、それともただ単に酔っていただけなのか、頭の中はぐちゃぐちゃで、突発的な言動しかできなくなっていました。

「玲花、どこにも行かないよね?」

 気がついた時には、わたしは玲花の腰に腕を回し、縋り付くように抱きしめていました。今にも泣き出しそうで到底顔は上げられませんでした。

 わたしの後頭部に軽く手を置いて、背中をぽんぽんとあやすように叩いてくれます。

「どうしてそんなことを聞くの?」

「だって、玲花はなにも答えてくれないんだもん!」

「ごめんね——」

 ごめんねの意味がわかりません。だから、わたしは不安を口にするしかないのです。

「また、玲花のうちに泊まってもいいんだよね? わたしがご飯を作って、いっしょに食べて、お喋りしたり勉強したり、いっしょにお風呂にも入るし、寝る時もいっしょのベットで寝るんだよね——」

 声が震えます。でも、そんなことに構っていられないくらい感情がほとばしり、言葉を止めることができませんでした。

「そうだね」

 玲花の手はますます優しく、わたしをあやし続けます。わたしの鼓動と同調するそれに、わたしは無自覚に涙を流していました。

「今度はわたしのうちにも招待する。両親にわたしの自慢の大好きな人ですって、紹介するの」

 背中を叩く手が若干乱れたような気がします。

「ありがとう」

 気のせいだったのかと思うくらい、落ち着いた声でした。

「卒業したらいっしょに暮らそうね。そしたら、毎日いっしょにお風呂に入れるね」

「やけにお風呂に固執するね。日向って案外えっちだ」

 玲花のからかう声音に、思わず顔を上げていました。みっともなく泣き濡れて、その顔を見られることにもお構いなく、わたしは馬鹿げた台詞を真剣に口走っていました。

「そうだよ、わたしはえっちなの! 玲花の裸を見たいと思うし、触ってみたいって思う。だって、玲花は綺麗だもん。だって玲花のこと——」

 こんなに恥ずかしい台詞を吐いておいて、肝心なことは口にできない。

 玲花は顔を真っ赤に染めていました。わたしはその顔を挑むように、睨むように見つめていました。

 すると、玲花はふっと微苦笑のようなものを浮かべました。今までの、わたしたちの会話をはぐらかすようでした。

「そろそろ寝ようか」

「ヤダ!」

 玲花に頭を撫でられながら、わたしは子どものように駄々をこねます。「まだお話しするの!」

「じゃあ、ベッドに行こう。ベッドでお話ししよ」

「いっしょに寝てくれる?」

「もちろん」

「抱っこしてくれる?」

「うん、いいよ」

「じゃあ、行く!」

 この頃には、曖昧だった頭は、さらに曖昧になっていました。とろんとふわふわした頭の中は混沌として、玲花に促されるままに動いていました。トイレの心配をされて、玲花の腕にしがみつくわたしを引きずるように寝室に運び込まれて、ベッドに寝かされていました。

 灯りは前回と同じ、ぼんやりとしたオレンジ色。

 わたしは両腕を広げて、抱っこをせがみます。玲花は真剣な表情を見せた後、覆い被さるようにわたしを抱きしめてくれました。

 強い力でした。苦しいほどだけど、それがとても嬉しくて、わたしも力一杯玲花を抱き返しました。

 わたしたちは無言でした。熱い息を吐きながら、抱きしめ合っていました、

 わたしは玲花の胸に顔を埋めます。温かく、柔らかく、しっとりとして、その奥からはとくとく、とくとくとやけに速い鼓動を感じます。わたしの鼓動も同じくらい速くなっています。

 布団の中はふたりの体温で熱いくらいなのに、わたしたちの腕は力を緩めることはありませんでした。

 わたしは玲花を離さないようにと、どこにも行かせないようにと——、ああ、こんな綺麗事じゃない。

 抱きしめ合うだけのことから解放された時、その後に起こる予感に怯えていたのです。そうなることを望みながら、そうなることに怯えている、そんな矛盾した気持ちが、わたしの腕を解き放ってくれません。

 裸を見たいとか触ってみたいとか、恥ずかしい告白をした後なら、なんだってできそうなのに、なぜためらってしまうのでしょうか。

 わたしは息苦しさに大きな息を吐き出していました。

 すると、玲花の体がびくりと震えました。そして、わたしの両脚の間に玲花の足が割って入ってきたのです。

 鼓動が一段跳ね上がります。徐々に深く差し入れられる玲花の足に、わたしの体は反応を示します。熱くなり、潤い、玲花を受け入れようとしているかのようでした。

 なのに、あたしは玲花の足を挟み込んでしまいました。

 これ以上進ませないようになのか、それとも逃さないようになのか、求めているのか、拒絶しているのか、もう自分でもわからなくなっていました。

「日向——」

 玲花の呼びかけに、わたしは玲花の胸にさらに顔を押し当てていました。玲花の香り、いつもと違う汗のしっとりした香りが混ざっています。頭がくらくらします。シャンプーや石鹸の香りとも違う、本当の玲花の体臭にわたしは理性を失いかけました。

 一瞬脚の力を弱めてところに、玲花は割り入れていた足をすかさず深く進めてきました。

 玲花の太ももがわたしに密着していました。

 バレてしまう——。

 熱や潤いが伝わってしまう——。

 一気に酔いが覚めていくようでした。体はこんなにも正直で、心はこんなにも嘘つきで——。

 その矛盾に対する答えが、口からぽろりとこぼれました。

「玲花、好き……」

 わたし自身どんな気持ちや意図で発した言葉なのかわかりません。

 自分から動こうとするため——?

 それとも玲花を扇動しようとしている——?

 そもそも、玲花の胸に押しつぶされた言葉など、玲花の耳に届いたのでしょうか。

 玲花が腕の力を弱めました。足を抜きました。わたしの頭をひと撫でしました。

「寝ようか」

 わたしは思わず顔を上げて、玲花の顔を見つめていました。オレンジ色の灯りの中で、玲花は柔らかに微笑んでいました。

 いやだと言いたいのに、それ以上を望んでいたと思ったのに、それ以上がないことに安堵しているわたしがいます。わたしの腕の力も抜けて、玲花の体温と体臭が遠ざかっていくようでした。

 腕の力を抜いたとはいえ、玲花を抱きしめることはやめませんでした。

 はしたない娘だと思われたのかもしれない。

 欲情のままに玲花を求めていると思われたのかもしれない。

 どんなに蔑まされてもいい。

 嫌いにならないでほしい。

 わたしのことを嫌いになって、どこかに行ってしまったら、わたしはどうなってしまうのでしょう。その思いだけで、玲花を繋ぎ止めたい一心だけで、玲花を抱きしめ続けていました。

「どこにも行かないで……」

 涙声のわたしの頭を、玲花は優しく撫で続けます。

 無言で、何も言ってくれません。

 だから、わたしは再び玲花の胸に顔を埋めます。そこに安心と安らぎを求めます。

 玲花の汗にわたしの涙が混ざり合う。

 耳元でシャラリと微かな音が鳴りました。わたしがプレゼントしたネックレスだと気がつくのに、少し時間がかかりました。

 まだ、つけてくれている、小さな小さな繋がりに、小さく小さく安堵しました。

 わたしはいつしか、眠っていました。

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