その男、只者につき
水野 七緒
エピソード0:モブはかく語りき
1
ああ、いいな、と思ったのだ。
はじめて「彼」を見たとき「この人がいい」「この人を、私のものにしたい」って。
どうして、と訊かれてもうまく説明できない。
強いて言うなら、彼のビジュアル? 可もなく不可もない感じがいいのかなって。それと、ゴールデンレトリバーを思わせる、どこかおっとりとした雰囲気とか?
なんて思った矢先、カウンターの向こうから「モブ、ちょっと来て!」って高めのテノールが響いた。
彼を呼びつけたのは、この店の店長。「イケメン」っていうより「美人」って言葉がしっくりくる、気位が高そうなお嬢様みたいな人だ。──まあ、男性だけど。どこをどう見ても男性だけど。むしろ、なんで「お嬢様っぽさ」を感じるのか、私自身、疑問に思ってるけど。
で、私のお目当ての彼──通称「モブくん」は、銀のトレイを抱えたまま「ハイハイ」と店長のもとに駆けていく。
あのひょこひょことした走り方、可愛いな。でも、ああいうタイプって、洩れなく運動が苦手そうなイメージがあるんだよね。
(そこは、ちょっと減点かも)
頭のなかで「72点」って数字を思い浮かべながら、私はぐるりと店内を見まわした。
このお店には、ソファ席が1つ、ふたりがけのテーブルが3つ、カウンター席が3つある。
なので、定員は13名。まあ、ソファ席に4人座れると仮定した場合だけど。
ちなみに、本日は私の隣のカウンター席がひとつ空いてるのみ。週末だからかな。平日の夜だと、私含めてふたりくらいしかお客さんがいないこともあるんだけど。
といっても、私が初めてこの店を訪れたのはほんの1ヶ月ほど前だ。
パッと見、古い純喫茶って雰囲気だけど、入り口の看板には「貸本屋」とある。
そう、ここは貸本屋「
借りた本を読むことができるのは、あくまでこのお店のなかのみ。
なので、みんなドリンクやフードを頼んで、店内でのんびり読書する。ちなみに1オーダーで3時間まで滞在OKだから、コスパは悪くないんじゃないかな。
ところで、このお店のなかでいちばん目を引くのは、美人な店長でも、あちらこちらにある高そうなアンティークの置物でもなく、カウンター脇にある殴り書きの貼り紙だ。
「店のもの壊したヤツ出禁」──
ということは、以前この店でなにか壊されるような出来事でもあったのだろうか。例えば、いかにもお高そうなアンティークのカップを乱雑に扱われたとか?
ああ、でも「貸本屋」ってことを考えれば、いちばんあり得るのは「本を破かれた」なのかな。
なにせ、この店には絶版本がけっこうある。かくいう私が今借りている本もそうだ。初版が40年以上前の、古い推理小説。パラパラめくると、古い紙の匂いが鼻腔をくすぐってくる。懐かしい、おじいちゃんの家とそっくりなにおい。
では、そろそろ読書を再開するとしようか。お気に入りのモブくんも、当分戻ってくる気配がないし。
カフェオレで口を湿らせた私は、読みかけの推理小説に視線を落とそうとした。
そのときだ。左頬に、ねっとりとした「何か」がぶつかったのは。
たぶん視線──左側にいる人物? 妙なねちっこさを感じたこともあって、私はすぐさま左方向に目を向けた。
──はい、正解。
慌てたように顔を背けたのは、カウンター席の左端にいるおっさんだ。推定年齢40代半ば、薄くまっすぐな髪の毛にはちらほらと白髪が交じっている。
ついでに、彼が借りた本にも目を向けてみた。
──うわ、陰謀論系。ああいうのって、遅くても20代前半には卒業しておくものじゃないの?
(あの人は「ない」な)
うん、ないない。
ジャッジしたとたん、彼の存在は私の中からきれいさっぱりと消える。いつもそう。いらないものはいらない。脳内にすらとどめておきたくない。
その代わり、欲しいものは絶対に欲しい。今なら、例の「モブくん」がそう。
そのモブくんはというと、現在カウンターの奥で絶賛口論中のようだ。
「いや、だから説明したでしょう。この前、本棚の整理をしたって!」
「そんなの聞いてない」
「言いました! そもそも、カナさんが言ったんじゃないですか。『分類Bの棚がごちゃごちゃだから片付けて』って!」
「……覚えてない」
「嘘ですよね。今、ちょっと間がありましたもん」
「……っ、うるさい! モブのくせに生意気すぎ!」
いちおう本人たちは、小声で言い合っているつもりなのだろう。
けれど、ここは貸本屋だ。皆、黙々と本を読んでいるし、店内を流れるジャズも控えめな音量だ。
よって、人の話し声はよく響く。それが口論ともなればなおさらだ。
クスッと小さく笑ったのは、常連客っぽい総白髪ののおじいさん。一方、ソファー席を独り占めしていた私たちと同年代っぽい男性は、忌々しそうに舌打ちしている。
私はといえば、心のなかでひそかに応援するのみだ。
がんばれ、モブくん。負けるな、モブくん。
でも、こうした口論は、いつもたいていモブくんが折れて終わる。
ほら、今日も……
「わかりました、今日中にもう一度整理しなおします。今度は、カナさんレベルでも理解できるような、簡単な分類にしますんで」
――あれ、今日のモブくん、けっこう毒舌?
そう思った矢先「モブのくせに生意気!」と、スパーン!と何かを叩くような音が聞こえた。
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