深く増幅された感情は、ときに自分を成長させることを僕らはまだ知らない。

αβーアルファベーター

episode 1

◇◆◇


 怒りはいつだって僕を壊すものだと思っていた。

 悲しみは、立ち止まらせるだけの無駄な時間だと思っていた。


 けれど、あの日——母がいなくなったあの日だけは、

 何も感じない自分の方が壊れているように思えた。


 病室の白。

 鳴り止まない機械音。

 何もできなかった自分。


 「泣いてもいいんだよ」と言われても、涙は出なかった。

 心が壊れた音だけが、ずっと耳の奥で響いていた。


◇◆◇


 ——それから季節は流れ、

 僕は“感情を抑える方法”ばかりを学んだ。

 平静を装う。笑う。誰にも心を見せない。

 感情なんて弱さの証明だと思っていた。


 感情を出さなければ、誰も僕を傷つけられない。

 そう信じて、笑い方だけを覚えた。


 母の葬式の日も、僕は泣かなかった。

 いや、泣けなかった。


 冷たくなった手を握っても、涙が一滴も出なかった。

 「強い子ね」と親戚たちは言った。

 でも、強いわけじゃなかった。ただ、壊れ方を知らなかっただけだ。


◇◆◇


 ——更に時間は流れた。


 高校に入っても、僕は感情のない人間を演じ続けた。

 淡々と過ぎていく毎日。

 笑い声の中にいても、どこか透明な壁があった。


 そんな僕に、転機が訪れたのは秋だった。


 文化祭の準備期間。

 クラスの演劇を手伝っていた後輩の女の子——

 みなとが、誰もいない教室で泣いていた。


 机の上にはぐしゃぐしゃになった脚本。


 「頑張っても、誰も見てくれないんです……」

 声が震えて、顔が涙でぐしゃぐしゃだった。


 その姿を見た瞬間、胸が軋んだ。

 懐かしい痛み。

 あの日の自分を見ているようで、何かが弾けた。


 気づけば僕は言っていた。

 「俺は、見たよ」

 「え?」

 「君が、誰より頑張ってたの、ちゃんと見てた」


 湊は、ぽかんと僕を見たあと、また泣き出した。

 今度は少しだけ優しい涙だった。


 その瞬間、不意に涙がこみ上げた。

 止めようとしても、無理だった。

 ——泣くなんて、何年ぶりだろう。

 涙は痛みと一緒に、心の奥の氷を溶かしていった。


 「大丈夫、泣いていいんですよ」

 湊がそう言った。


 その言葉に、僕は完全に崩れた。

 息が詰まるほど泣いて、嗚咽が止まらなかった。


 あのとき初めて、僕は理解した。

 感情は“弱さ”じゃない。

 感情は、“生きようとする力”なんだ。


 怒りがあるから、理不尽に抗おうとする。

 悲しみがあるから、優しくなれる。

 悔しさがあるから、前に進もうとする。


 もしそれらを切り捨てたまま生きるなら、

 人は「成長」という名の痛みを永遠に知らないまま終わるのかもしれない。


 ——それから僕は、少しずつ感情を出すようになった。

 腹が立てばちゃんと怒る。

 嬉しいときは声を出して笑う。

 悲しいときは隠さず泣く。


 周りは驚いた。

 でも、不思議と僕の世界は鮮やかになった。

 まるで、モノクロだった日々に色が戻ったみたいに。


 そして気づく。

 感情は人を壊すんじゃない。

 人を“つくる”ものなんだ。


 ——深く増幅された感情は、ときに自分を成長させる。

 それを知るのは、誰かの痛みに手を伸ばしたとき。

 誰かの涙を、自分の心で受け止めたとき。


 僕らはまだ、その瞬間を知らないだけだ。


 でも、いつか必ず気づく。

 感情の中にこそ、「生きる力」があることを。


◇◆◇


……涙が出るのは、弱いからじゃない。

  ちゃんと、心が生きている証拠だ。

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