第4話 朝の新しい出来事を前に

 佐藤さとう家の玄関先に、朝の柔らかな日差しが降り注いでいた。


 佐藤征人さとう/ゆきひとは、課題や教科書を詰め込んだ通学用のリュックを背負い、すでに通学の準備を整えて立っていた。だが、征人の足を止めていたのは、妹の千恵里の存在だった。


 千恵里ちえりはまだ部屋で制服の準備に手間取っているらしく、二階からドタバタと慌ただしい物音が響いてくる。


「千恵里―、そろそろ準備できたかー?」


 征人が玄関先から少し大きめの声で呼びかけると、遠くから千恵里の声が弾むように返ってきた。


「ご、ごめん! あとちょっと! 五分くらいで済むから!」


 その声には焦りの色が混じりつつも、どこかマイペースな雰囲気が漂っていたのだ。


「んー……五分かぁ……まあ、一応、それでもバスには間に合うには間に合うと思うけど。でも、少し早めにな」


 征人が大きな声で言うと、分かったという声が二階から返ってきた。


 征人は小さく肩をすくめ、玄関の壁に背を預けたのだ。


 少しの間だけ時間を潰そうと、制服のポケットからスマホを取り出し、SNSのタイムラインを流し見た。

 ネットの雑多な話題に目を滑らせながら、妹の準備が終わるのを気長に待ったのだ。


 やがて、階段を駆け下りる軽やかな足音が響く。

 振り返ると、千恵里が制服姿で勢いよく現れた。

 ショートボブの髪は少し乱れ、ネクタイのリボンが微妙にズレている。


「お兄さん、待たせてごめん!」


 千恵里は息を弾ませながら、申し訳なさそうに笑みを浮かべた。


「まあ、いいけどさ。でも、リボン、ちょっと曲がってるぞ。髪もなんか跳ねてるし」


 征人が冷静に指摘すると、千恵里はあっと小さく声を上げ、慌てて首元を整えた。

 近くの鏡で髪をササッと直すその手際の良さに、征人はつい小さく笑みを零すのだった。




 家を出た二人は、近所のバス停へと向かった。

 朝の通勤ラッシュでバスはぎゅうぎゅうだ。


 征人はつり革に掴まり、千恵里は近くの手すりを握りしめている。

 揺れる車内で、兄妹は肩を寄せ合うようにして立っていた。


 高校生になってからのバス通学は、征人にとって新鮮な日常だった。

 中学時代は徒歩で通えた学校だったから、この朝の喧騒は少しだけ息苦しく、でもどこか活気を感じさせる。

 窓の外を流れる街並みをぼんやり眺めながら、征人は少し考え事をしていた。


「お兄さん、今日の放課後って空いてる?」


 千恵里の声が、車内のざわめきを軽やかに切り裂いた。妹の瞳には、どこかワクワクした光が宿っていた。


「ん? まあ、予定はないかな」


 征人は少々考え、首を傾げて答えた。

 昨日から責任を取る一環で付き合い始めた桜井綾乃さくらい/あやのからも特に連絡はなく、部活も週一か二回のゆるいペース。


「じゃあ、帰りにちょっと寄り道しない?」


 千恵里の声が弾む。妹の笑顔には、どこか企みを隠したような輝きがあった。


「寄り道? どこ行くつもりだよ」

「それはちょっとね! まあ、お兄さんに見てほしいものがあるの!」


 千恵里はニヤリと笑い、詳しいことは明かさない。

 征人は、ふーんと気のない返事をしながらも、内心では妹の企みにちょっとした好奇心をくすぐられていた。




 バスはガタゴトと揺れながら、隣街の高校近くのバス停に到着した。

 征人と千恵里は、混み合う乗客の間を器用にすり抜け、定期券を運転手にピッと見せて降車する。


 外に出ると、朝の清涼な空気が二人を迎えた。

 バス停から学校までは徒歩五分ほど。通学路には、同じ制服を着た生徒たちがちらほらと歩いていた。


「そういえば、お兄さんの部活ってどんな感じなの?」


 千恵里が歩きながら軽い口調で尋ねてきた。妹の声は、朝の静けさに軽やかなリズムを添える。


「んー、ゆるいよ。週に一回か二回で。あとは、たまに皆で集まって何かやるくらい。そこまで本格的なの部活じゃないから、気楽なんだよね」


 征人は淡々と答えた。

 所属している部活はプレッシャーが少なく、征人の性格にちょうどいいバランスだった。


「へえ、そうなんだ。でも、具体的には何やってるの?」

「まあ、本読んだり、感想言い合ったり、たまに短い小説書いたり。基本、個人作業が多いけどな。部活ってより、同好会って感じかな」

「へえ、なんかお兄さんらしいね! その部活」


 千恵里が笑顔で相槌を打つと、突然、後ろから軽快な足音が近づいてきた。

 征人が何気なく振り返ると、見知らぬ少女が千恵里に飛びつくように抱きついていたのだ。


「ちえりー! おはよーっ!」

「うわっ、結海ちゃん! お、おはよう!」


 千恵里は驚きつつも、笑顔で応じた。

 少女はツインテールがトレードマークの、元気いっぱいな雰囲気をまとった子だった。彼女は千恵里から離れると、隣に立つ征人にキラキラした視線を向けた。


「ねえ、ちえり。この人って例の兄さん?」


 少女の目は好奇心で輝き、新しいお砂遊びキットを見つけた子供のようだ。


「うん、そう! これが私のお兄さんだよ!」


 千恵里が誇らしげに紹介すると、少女はパッと笑顔を咲かせ、征人に軽く手を振った。


「初めまして! 私、椿結海つばき/ゆうみ。ちえりとはいつも仲良くやっておりますので! そこは心配しないでね、兄さん。まあ、これからよろしくね♪」


 結海の声は弾けるように明るく、どこか小悪魔的な響きを帯びていた。彼女の視線は、征人をじーっと値踏みするように向けられている。

 征人はその勢いに少し気圧されつつ、軽く会釈を返す。


「お、俺は、佐藤征人。よろしく……」


 短く答えたが、内心では結海の底抜けの明るさにちょっとたじろいでいた。


「ふーん、ちえりの兄さんって、なんか大人しい感じ? でも、そういうのもありだよね」


 結海は勝手に評価を下し、くすくす笑う。

 千恵里はそんな彼女を軽く肘でつつき、照れ笑いを浮かべた。


「まあ、そんな事より、早く学校に行こ、結海ちゃん」

「そうね、行こっか!」


 征人の前にいた二人が通学路を歩き出す。




 朝の通学路は、どこか穏やかで、でも少しだけ特別な空気に満ちている。

 征人は、妹と結海の賑やかな会話を聞きながら、校門へと向かっていくのだ。


 結海の声が弾み、千恵里の笑い声が響く。

 征人はその二人を少し後ろから見つめながら、ふと思う。


 今日の放課後に千恵里が見せたいって言ってた事って一体なんだろうな?


 そんな事をモヤモヤと考えながらも、征人らは学校の昇降口へ到着するのだった。

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