第3話 妹は何かと鋭いかもしれない

 学校帰りの佐藤征人さとう/ゆきひとはその日、いつもより軽やかな足取りで自宅近くのバス停に降り立った。

 時刻は夕方六時半過ぎ。住宅街の静かな通りを歩きながら、頬を撫でる涼やかな春風が心地よかった。


 クラス委員長の桜井綾乃さくらい/あやのと付き合うことになった今日という日は、征人の心に特別な輝きを刻んでいた。

 自宅の玄関にたどり着いた征人は、背負ったリュックを軽く揺らしつつ鍵を差し込み、ドアを静かに開けた。


「ただいまー」


 声をかけると、靴を脱ぐ音が小さく響く。すると、リビングのドアが勢いよく開き、エプロン姿の妹――佐藤千恵里さとう/ちえりがひょっこり顔を出したのである。

 ショートボブの髪が揺れる妹は、今年から征人と同じ高校に通っている一年生。

 少し幼さを残した笑顔で、元気いっぱいに兄を迎えた。


「おかえり、お兄さん! ね、夕ご飯どうする? 今すぐ食べる?」


 千恵里の弾んだ声に、征人は少し照れながら口元を緩めた。


「うん、食べるよ。なんか、リビングからめっちゃいい匂いがしてるな」

「でしょ! 今日ね、凄く気合い入れて作ったの!」


 千恵里は得意げに笑うと、キッチンへと小走りで戻って行った。

 その背中を見ながら、征人の脳裏に今日の出来事がふっとよみがえる。


 綾乃と交際を始めたこと。そして、放課後のあのドキッとする出来事。彼女の柔らかな感触が頭をよぎり、思わず顔が熱くなる。

 慌てて首を振ってその記憶を振り払い、征人はリビングへと足を進めたのだ。


 リビングに入ると、千恵里がキッチンの方からひょいっと顔を出し、じいっと征人を観察するような視線を向けてきた。


「ど、どうした? 俺の顔に何かついてるか?」

「んん、違うよ。ねえ、お兄さん。なんか今日、いつもよりニコニコしてる気がするんだけど。何かいいことでもあったのかなって?」


 さすがは妹。兄である征人のちょっとした変化に敏感らしい。

 征人は一瞬ドキリとしたが、平静を装って肩をすくめたのだ。


 誤ってクラス委員長の女子を押し倒してしまい、おっぱいを揉んでしまったとは口が裂けても言えない出来事であり、征人は上手く誤魔化す事にした。


「え、そ、そんなことないって。まあ、ちょっとだけいいことあった……かな?」


 如何わしい経験をしてしまったことが、顔に出ていたようだ。

 妹の前では、表情に気を付けようと思った。


「ふーん? 怪しいなあ。まあいいや! おかず用意するから、お兄さんはご飯と味噌汁お願いね!」


 千恵里はそう言うと、キッチンで器をガチャガチャと準備し始めた。

 征人は内心ホッとしつつ、リュックをダイニングテーブルの下に置き、キッチンへ向かった。


 炊きたてのご飯を茶碗にふんわり盛り、味噌汁を椀に注ぐ。

 トレーに乗せてテーブルに戻ると、すでに千恵里が肉じゃがやブロッコリーのマヨネーズ和えをテーブル上に彩りよく並べていた。

 食卓の鮮やかな色合いに、征人の胃が小さく唸った。


 準備を終えた二人はダイニングテーブルを挟んで向き合うように座る。


「いただきます!」


 二人の声がハモり、箸が動き始める。

 肉じゃがの甘辛い香りが漂い、征人は一口頬張って目を細めた。


「これ、うまいな。千恵里、料理の腕が上がったんじゃないか?」

「え、ほんと? やった! 最近ね、料理部の見学に行ってるから、そこでコツとか学んだのかも! それと、その肉じゃがは料理部の先輩と一緒に作ったものなの」


 妹は目を輝かせて笑った。


 千恵里は高校に入学してからまだ二週間ほどしか経っていないが、すでに新しい環境に馴染もうと全力で動いている様子だ。

 部活選びの期限が来週に迫っているらしく、どの部活に入るかまだ迷っていると話していた。


「そういえば、どこの部活に入部するんだ? 何かいい感じのとこ見つかった?」


 征人が何気なく尋ねると、千恵里は箸を止めて少し考え込むように首をかしげた。


「うーん、候補はいくつかあるんだけど。テニス部は楽しそうだけど、めっちゃ体力使うっぽいし。軽音部はカッコいいけど、楽器全然できないし……料理部もいい感じなんだけど、うーん、悩むなあ。お兄さんから、なんかアドバイスない?」

「んー、千恵里ってめっちゃ人懐っこいから、どの部活でもすぐ友達できそうだろ。自分がやりたいことを好きに選べばいいんじゃないかな?」

「そっか。うん、その方がいいかもね! じゃあもうちょっと考えてみるね!」


 千恵里はパッと明るく頷いた。その屈託のない笑顔と愛嬌は、誰からも好かれるタイプだと征人は改めて思った。

 そんな妹を見ながら、ふと自分の高校生活を振り返る。


 新しいクラスでの日々。そして今日のあのドタバタ劇。

 思い出すたびに、黒歴史のような感覚が胸に広がる。


「そういえば、お兄さんのクラスはどう? 新しい環境には慣れた?」


 千恵里の突然の質問に、征人は一瞬言葉に詰まった。

 綾乃とのハプニングが脳裏をよぎり、咄嗟にご飯を口に放り込んで誤魔化す。


「ま、まあ、ぼちぼちだよ。普通、普通」

「ほんとー? なんか誤魔化してるっぽいけど? 大丈夫そ?」


 千恵里がニヤリと笑い、探るような視線を向けてくる。征人は慌てて味噌汁をすすり、話題をそらした。


「それより、千恵里の方はどうなんだよ。友達とか出来た?」

「うん! 気が合う子が一人できたんだよね! 今日も一緒に放課後を過ごしたし。その子とは料理部で知り合ったんだよね~」

「へえ、それはよかったな」


 征人は心からそう思った。

 千恵里の明るさは、周りの人を自然と引き寄せる力がある。自分もそんな風に人と関われたらいいなと思う一方で、今日の綾乃との出来事が頭から離れなかった。


 綾乃の真剣な眼差し、ちょっと怒った声、そしてあの柔らかな感触。思い出すたびに顔が熱くなり、征人は慌ててブロッコリーを口に放り込んだ。

 食事が進む中、千恵里がふと真剣な表情で口を開いた。


「ね、お兄さん。私、いつも思ってるんだけど、なんか悩みとかあったら、ちゃんと話してよね。昔みたいに、一人で抱え込まないで」


 その言葉に、征人は箸を止めた。

 妹の優しさが、胸の奥にじんわりと染み込んでくる。確かに、昔はいろんなことを一人で抱え込んで、千恵里に心配をかけたこともあった。


「……ありがとな、千恵里」


 征人は小さく微笑んだ。

 千恵里も満足そうに笑い返す。その日のリビングの食卓には穏やかな空気が広がっていたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る