第2章 花ある君と思ひけり
それは、夏休みに入ってすぐの午後だった。
借りたばかりの本を手に、近くの公園のベンチに腰を下ろした。
日差しは強かったけれど、木陰は思ったよりも涼しかった。
ページをめくるたびに、遠くからセミの声が鳴いてくる。
ときおり風が吹いて、ページがめくれる。僕はそのたびに指でそっと押さえた。
――そのときだった。
小さなすすり泣く声が、風に混じって聞こえた気がした。
顔を上げると、奥のブランコに、ひとりの女の子が座っていた。
髪を結んだ後ろ姿。
膝を抱え、うつむいて、揺れるでもなく、ただそこにいた。
それが誰なのか、僕にはすぐにわかった。
隣家のあの少女だ。
鼓動が高鳴った。
僕はそっと本を閉じ、ベンチを立ち、恐る恐るブランコの方へ歩いていった。
近づくにつれて、彼女の肩がほんの少しだけ震えているのがわかった。
泣いている――そう、確かに。
だけど、なぜかその姿が、とても小さく見えた。
いつもは、まぶしいくらい大人びて見えた彼女が、
そのときだけ、僕よりもずっと年下の女の子みたいに見えた。
「……だいじょうぶ?」
自分でも驚くくらい、小さな声だった。
でも、彼女はちゃんと聞こえたらしく、顔を上げて、目を見開いた。
その目が、赤かった。
「あ……ごめん。見てた?」
そう言って、彼女はあわてて涙を拭った。
「ううん、たまたま……。」
僕も、どこかあわてていた。
沈黙が落ちる。
何か言わなくちゃ、と思っても、言葉が出てこない。
彼女がぽつりと口を開いたのは、それから少し経ってからだった。
「人に泣いてるとこ見られるの、恥ずかしいね。でも……。」
「……でも?」
「見てほしかったのかもしれない。誰かに。」
その言葉が、僕の胸にすとんと落ちた。
意味はよくわからなかったけれど、彼女がそのとき、とても遠いところにいる気がして、
でも、ほんのすこしだけ、近づけたような気もした。
「そっか……じゃあ、見ちゃってよかった?」
そう言うと、彼女はふっと笑った。
「うん。ありがと。君は……。」
「
彼女は少し驚いたような顔をして、そして微笑んだ。
「そっか、名乗るんだ。えらいね。」
「……そっちも、名乗ってください。」
「はいはい。
――夕子。
その名前は、夏の空気にやさしく溶けて、
僕の胸の奥に、そっと沈んだ。
まるで、さっきまで知らなかった一編の詩のように。
その日、夕子さんはブランコを降りて、僕の横に並んで歩いた。
僕たちは、何を話したかあまり覚えていない。
でも、あのとき彼女と歩いた道の、木漏れ日だけは、今でもよく覚えている。
その日から、僕にとって彼女は“知らない人”じゃなくなった。
風に揺れるカーテンの向こうのひとじゃなくて、
すぐとなりにいて、言葉を交わせる、
――そんな人になった。
◇◆◇◆
【次回予告】
「第3章 やさしく白き手をのべて」
隆も夕子さんも本が好きだった。
ある日、彼女が差し出した「藤村詩集」――
そして、やさしく白き手で赤い林檎を剥いてくれた。
――それが、彼にとっての“初恋”の始まりだった。
【作者メモ】
夕子が初めて登場した。
隆にとって彼女は、単なる“初恋の人”ではなく、
生涯にわたって追い求める“理想の女性”でもある。
彼女との出会いは、彼が大人になるために避けて通れない――
ひとつの通過儀礼だった……。
この夕子さんのキャラクターのイメージは、
村下孝蔵の曲「ゆうこ」(1982年)から着想を得ている。
窓越しに見ていたピアノを弾く年上の女性――
そのモチーフは、ほとんどそのまま重なっている。
名前を「ゆうこ」としたのも、もちろんそこからだ。
僕の中では、藤村の“初恋の女性”と村下孝蔵の“ゆうこ”が、
いつしか一人の女性として重なって見えている。
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