初恋断章―誰にだって忘れられない胸の林檎がある~逆井先生の国語日和~

智沢蛸(さとざわ・たこる)

第1章 まだあげ初めし前髪の

「先生、えみのこと、好きでしょう?」


放課後の教室。

誰もいなくなった静けさの中で、その言葉は妙に大きく響いた。

黒板の前でプリント整理をしていた逆井さかいは、思わず手を止めた。


「はあ?」

「え、だって、そういう目で見てるって、みんな言ってるよ?」


東京都立浅緋野あさひの高校2年B組の小野おのえみは、担任の逆井たかしの方をじっと見上げていた。

小悪魔のような目で、いたずらっぽく笑みを浮かべている。


「……バカ言え。」


そう返すと、逆井はあえて大きなため息をついてみせた。


「だいたい俺はな、おこちゃまには興味ない。」

「ふ~ん。じゃあ、どんな人が好きなの。

「そうだな……。」


窓の外に目をやる。

夕暮れの光が、まだ少し残っている校庭を、オレンジ色に染めていた。


「やっぱり、歳上の女性だな。」

「へえ……。」


笑は、わざと意味ありげに眉を上げた。


「あれは、もう二十年以上も前の話だ。」

「先生、意外とマセてたんだ。」

「いや、違う。」


言った後で、逆井は思わず口をつぐんだ。

笑が見つめていることに気づきながら、彼は静かに目を伏せた。

あの夏の日の光と、風に揺れる白いカーテン。

それは、今でもふとした瞬間に胸の奥をくすぐる――忘れられない景色だった。





最初に彼女を見たのは、小学5年生の夏だった。

宿題に飽きて、なんとなく窓の外を見たときだった。

隣家の2階、開け放たれた窓辺で、カーテンが風に揺れていた。

そのすき間から、彼女の姿が見えた。

ピアノの前に座る横顔。

髪を後ろでまとめ、細い指が鍵盤をなぞっていた。

その音は、僕の知っていたどんな音楽よりも、ずっと静かで、悲しくて、美しかった。

あれがショパンだと知ったのは、ずっとあとになってからのことだった。


それからというもの、僕は何度か、彼女の姿を見かけた。

朝、ゴミ出しをしているとき。

夕方、郵便受けに新聞を取りに行ったとき。

隣家の門を出て、彼女が歩いていく背中を、何度も見送った。


制服を着ていた。

白いブラウスに、濃紺のスカート。

胸元には、公立中学の校章がついていた。

その姿は、まるで別の世界の人のように見えた。


「隣の桐島きりしまさんとこの娘さん、中1なんだってよ。あんたと2つしか違わないのにずいぶん大人びてるわよね。」


ある日、夕食のときに母が言った。

僕は、平然を装って頷きながら、箸を止めていた。

味噌汁の湯気の向こうに、彼女の顔が浮かんだ。

2つしか歳は違わないのに、その距離は、僕にはとても遠いものに思えた。



次の日、学校の帰り道。

ランドセルを揺らしながら歩いていると、向こうから同じクラスの女の子が駆けてきた。


「たかしー!」


日向子ひなこだ。

中原なかはら日向子。

家も近くで、小さいころからよく一緒に遊んでいた。


「今日、公園行こ。蝉の抜け殻、いっぱいあったよ。」

「うーん、今日はいいや。」

「またあの隣の人の家、見てたでしょ?」


ドキッとした。

彼女は、口をとがらせて笑う。


「ほんと、わかりやすいんだから。……あの人、きれいだもんね。」

「べ、別に!」

「ふーん、そういうことにしとく。」


日向子は笑って駆け出した。

その背中を見送りながら、なぜだか胸の奥がざわついた。

僕が彼女のことを見ていることは、誰も知らない秘密だったはずなのに…。



その夜、窓の外からピアノの音が聞こえた。

隣家の二階。

開け放たれたカーテンの向こう。

見えたのは、あの少女の横顔だった。

白いブラウスの肩越しに、指が鍵盤をなぞる。

風がカーテンを揺らすたび、その姿が一瞬、光に溶けた。


――それが恋なのだと、気づいたのは、もっとずっとあとのことだった。




◇◆◇




【次回予告】

「第2章 花ある君と思ひけり」


隆少年は、公園で泣いている少女と出会う。

それは、いつも隣家でピアノを弾く少女――夕子。

その日から、彼にとって彼女は“知らない人”ではなくなった。



【作者メモ】


この小説は島崎藤村の詩「初恋」をモチーフとしている。

初めて読んだのは中学生の頃だったか――読んで胸がキュンとした。

この物語を読んで、あの時の僕と同じ気持ちを、

少しでも感じてくれたら嬉しい。


もっとも、これは全てフィクションだ。

僕には、少年時代に憧れた年上女性も、自分を慕う幼馴染も存在しない。

けれど、そんな人たちがいてくれたら――。

そんな想いから、この物語は生まれた。


隆少年の初恋の顛末がどうなるのか。

あなた自身の“初恋”とともに見届けてほしい。

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