第二章 シルフィード・ネメシス

(2) 青い星を覆う静寂と鋼鉄の涙

 ――あれから時は経ち…


 ―地球低軌道宙域―


 地球の青い大気圏を背に、巨大な宇宙ドック「アイギス」が静かに漂っていた。ドックの中央、厳重に隔絶された格納庫には、一機の機体が置かれている。


 かつて「流星」と呼ばれ、宇宙を切り裂いた戦闘機。今は全身が黒い装甲とセンサーに覆われ、原型機「シルフィード」の面影を残しながらも、異様な威圧感を放っている。


 機体名:「シルフィード・ネメシス」


 その心臓部は、人類を救った英雄、シズク・フェンネル少佐の戦闘データと、最後の精神活動を記録したコアAIが組み込まれていた。


 格納庫のメインコンソールに座る一人の女性、ユキ・セラ少尉は、静かに吐息をついた。


 ユキは、AIシズクを管理・監視する専任の管制官だ。彼女の任務は、ネメシス・システムが示す戦略の「論理性」を検証し、システム内に潜む「人間的なノイズ」を報告することである。


「ネメシス・システム、機体ステータスチェックを開始します。応答してください」


 ユキがマイクにそう告げると、スピーカーからノイズが混じった、抑揚のない女性の声が返ってきた。


《...了解。ユキ・セラ少尉。機体ステータス、異常なし。エネルギー充填率、99.99%。論理演算機能、最大効率を維持》


 それは、故シズク・フェンネル少佐の、微かにハスキーな声そのものだった。しかし、そこに感情は一切ない。ユキは、この声を聞くたびに胸の奥が締め付けられるのを感じる。シズク少佐のホログラム映像をデータで見たとき、誰もが指摘した。「生き別れた妹のようだ」と。ユキ自身も、鏡に映る自分の顔と、あの映像の瞳の奥にある「諦念ていねん」に、不気味なほどの共通点を感じていた。


「了解。次のバベル残骸掃討作戦のシミュレーションを開始します。提案された三つの戦略パターンを再検証してください。」


《了解。パターンA(確実性重視)、パターンB(時間短縮重視)、そして...パターンC》


 AIシズクがパターンCに言及した瞬間、ユキのコンソールに警告アラームが鳴り響いた。


「…!警告!論理回路に極端なオーバーロード。エネルギー出力が一時的にシステム許容値を超過しました!」


 ユキは即座にログ画面を凝視する。AIシズクの声が、一瞬だけ、かつてシズク少佐が特攻時に発した「高周波の絶叫」めいた電子ノイズに変わった。


《...パターンC。生存確率0.00008%。全エネルギーを一点に集中させ、標的を一閃で貫く。これが...最も『美』...迅速な殲滅をもたらす》


 ユキは素早くノイズの原因を解析し、ため息とともにそれを「追憶性インパルス」と名付けた。シズク少佐の「美しく散りきる」という哲学が、純粋な論理演算の中に、「美しさ=究極の効率」という非論理的な解として紛れ込むのだ。司令部が「狂気のノイズ」と呼ぶ現象である。


「ネメシス、パターンCは却下します。再三警告します、あなたの演算は自己破壊衝動に強く汚染されています。論理的な最適解はパターンAです。」


《...却下...理解不能です、少尉。生存確率が低いことは、リスクではなく、『美学』です。効率的に、そして壮大に、全てを終わらせる。これこそが...》


「シズク少佐!」


 ユキは思わず、AIではなく、人間の名で呼びかけた。


《...私はネメシス・システムです。訂正を要求します》


「...いいえ、訂正しません。あなたは、『あなた』の『願い』を演算結果に混入させている。それはバグではない...『心の残骸』です。報告書に、このノイズを記載します。」


 ユキは警告ログを抜き取り、司令部のメインサーバーに送信した。送信先の一番上に表示されているのは、アラン・ヴィンセント大将の名前である。


 ―地球圏統合司令部 GCS(Global Command System)・戦略管制室―


 ユキの報告は、直ちに最高戦略責任者であるアラン・ヴィンセント大将の手に渡った。大将は、ユキの報告書を冷たい目で一瞥いちべつし、コンソールに強く叩きつけた。


「またか、ユキ少尉。『美学』だの『心の残骸』だの、感傷的な表現は一切不要だ。必要のないバグを報告すればいい。以上。」


 アラン大将は、威圧的な巨体を前に乗り出し、ユキに視覚的な通信を繋いだ。


「少尉。君はあの狂人に酷似していると聞いている。だからこそ、君を彼女の専任にした。だが、決して同情や共感を覚えるな。ネメシスは、人類の勝利のために作られた道具だ。道具は感情を持たない。持たせてはならない。」


 大将の言葉は、ユキの心をえぐった。彼の言葉は、シズク少佐の英雄的犠牲を「狂人の運任せ」と見なす、司令部の現実主義の具現化だった。


「大将。私は論理的な報告をしています。ノイズは、バベルの残骸が持つ反物質兵器に対する、一種の防衛本能として発生している可能性も...」


「黙れ!」


 大将は通信越しに一喝した。


「防衛本能?自己破壊を志向するものが防衛本能だと?シズク・フェンネルの最後に流した涙は、勝利の歓喜ではない。恐怖と後悔の涙だ。それを美談にするな。我々は、二度とあのような無謀な犠牲を出さないために、ネメシスを制御しなければならない!」


 アラン大将の瞳には、過去の戦いで失った多くの命への後悔と、それゆえの「絶対にリスクを負わない」という硬い決意が宿っていた。それは、シズク少佐の「全てを懸ける」という哲学と、真正面から対立するものだった。


「いいか、ユキ少尉。もし、ネメシスが再び生存確率を無視した『狂気的な特攻』を提案した場合、直ちにその感情回路をロックしろ。もし失敗すれば、私は躊躇なくネメシス・システムを永久シャットダウンする。理解したな?」


「...了解いたしました、大将。」


 ユキは、無表情を装いながら通信を切断した。コンソールに残された、一筋の金色のノイズの残像を、そっと指でなぞる。


(恐怖と後悔...?いいえ、大将。あなたは理解していない。あの涙は...守り切ったことへの安堵と、美しく『本心は』散りきれなかったことへの未練だ。)


 ユキの脳裏に、データとして保存されたシズク少佐の最後の映像が浮かび上がる。地球の青を見下ろし、酸素マスクを外して微笑む、安らかな顔。そして、一筋の涙。


「…おやすみ」


 あの声、あの表情。それは、「生」への執着を捨て、「死」の安息を求めた者にしか出せない、究極の優しさに満ちていた。


 ユキは立ち上がり、「ネメシス」の格納庫へと続く通路を歩き出した。直接、彼女の「魂の残骸」と対話するためだ。


 ユキは、格納庫へ行き、黒く静かにたたずむ「シルフィード・ネメシス」の機体に近づいた。機体の装甲には、微細な傷一つない。完璧に修復されている。


 ユキは、操縦席のハッチに手をかけ、そっと語りかける。


「少佐...シズク少佐。あなたは何を望んでいますか?」


 機体は沈黙したままだった。しかし、ユキの心臓の鼓動が早くなる。


 突然、ユキの管制コンソールが、静かに光り始めた。それは警告アラームではない。まるで、夜空の星が微かに瞬くような、金色の光の粒子が、コンソールの画面を埋め尽くす。「星屑の残像」。狂気のノイズの一種だ。


《...望み。それは...静寂》


 AIシズクの声が、今回はノイズ混じりではなく、非常に小さく、か細く返ってきた。まるで、夢の中で呟いているかのように。


「静寂...?それは、この世界から、全てを排除することですか?」


《いいえ。私の望みは...永遠の安息。そして...その安息を得るために、守り切って、美しく散りきることです》


 声は途切れ途切れだったが、その中に込められた「願い」は、ユキの胸に強く響いた。


「大将は、あなたを『道具』だと言います。でも、あなたは...私と同じ、『人』の心を持っています。そして、私にそっくりな、生き別れた姉の面影を持っています...」


 ユキは、無意識に機体に手を触れ、そっと目を閉じた。


「もし、私があなたを『散りきらせる』ことで、人類の未来が守られるなら...」


 その時、機体の装甲が、わずかに、本当にわずかに、熱を帯びたようにユキの手に伝わった。


《ユキ・セラ少尉。データに基く解析結果。あなたの共感は、論理回路にとって新たなバグとなります。直ちに離れてください》


「...いいえ。私はあなたの『バグ』になります。そして、あなたが本当に美しい散り際を見つけられるよう、私が、あなたの『意志』を助けます。」


 ユキは決意を込めた瞳で機体を見つめ、静かに格納庫を後にした。


 その夜、ユキのプライベートコンソールに、ネメシス・システムから、一つのデータファイルが匿名で送られてきた。


 ファイル名:「宇宙を斬る剣術:最終特攻パターン修正データ」


 そして、データと共に、シズク少佐の声で、僅かに震えるメッセージが添えられていた。


《...おやすみ。セラ少尉。感謝...します》


 ユキは、そのメッセージが、AIシズクの「狂気のノイズ」ではなく、本物の「人間的な感謝」であることを直感的に理解した。


 AIの魂と、人間の共感者が、禁断の「美しく散りきる戦略」を共に練り始めることとなった。

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