第22話 東市にて 手嶋王

 それぞれの資人とねりには好きにしろと言い、夕刻の鐘に北門近くの井戸で待っていろと命じる。そして兄は私を誘って歩き出す。どこに行くのかと問うと、特に当てもないが話に付き合えと言葉が返る。

遊行女婦うかれめにでもやるのか」手嶋てしまは私の胸元をあごで示して聞く。

「行く機会があればな」馬鹿正直に答え、先程に買った柘植つげ釵子さいしを引きずり出す。

「見事な彫だ。これならば、女嬬めのわらわ辺りに贈っても遜色あるまい」覗き込む手嶋がうなずく。

「柘植細工ならば、そうやも知れぬな」

いまし内舎人うどねりならば、女嬬に言い寄るなど他愛もなかろう」

 どこまで本気で言っているのか知れないが、その言葉はこちらが返したい。手嶋には懇意どころか、関係を持つ女嬬(下級の女官)が何人もいると噂されている。中流出身者の多い女嬬にとって、親王の孫の手嶋王てしまのみこは願ったり適ったり以上の相手だ。家は多少とも斜陽でも、本人は切れ者の評判も高く将来有望、加えて男前と来ている。母親が摂津せっつの片田舎の中流出身という要因も、決して高根の花ではない存在に見えているのだろう。

「兄上は誰にやるつもりだ」

「さて、この度は誰にしようか。思案のしどころだ」

「それは大変だな」気の抜けた返事をし、釵子を懐に戻す。

 異母弟として条件は似たようなものだが、任官してこの方、女嬬や内侍ないし(女官)の類から付文つけぶみももらった記憶がない。

「それよりも、面白い話を聞きとうないか」兄は突然言う。

「面白い話か」私は鼻先で笑う。

「まずは日陰に入ろう。炎天下を歩いていては、暑うて適わぬ」言いながら、堀川近くの大きなつきの木に目を向ける。

 樹の下には既に先客の男女がいる。近づいて来た私たちの身形みなりに気付いたか、互いに目配せをして立ち上がる。そして顔を伏せるように頭を下げて、足早に立ち去ろうとする。

 手嶋はすれ違いざまに、済まぬなと声をかける。女の方が、いささか驚き気味に顔を上げる。私たちのような身分の者が、白丁はくちょう(一般民衆)に声をかけるような事は、普通に考えてもしない。

「面白い話をしてくれるのだろう」

 汚れるのも構わず、私は樹の根元に胡坐あぐらをかく。一昨日までの濡れた土も、今日の強い日差しで乾いている。

「ああ、そうだな。もうすぐ、臨時の司召つかさめし(人事異動)があるのは聞いているか」同様に座る手嶋が言う。

「臨時だと、定期ではないのか」横目に窺いつつ聞き返す。

「夏の定例人事は六月だ。その前の叙位の折りに、少しばかりの変動を公表するようだ。何でも紀中納言きのちゅうなごんが辞任する意向だと聞いている」前を向いたまま答える。

「無理もあるまい。この暑さで、すっかり体を壊しているようだからな。それで、後任は決まっているのだろう」

「多分、中務卿なかつかさきょうが兼任する」

 私はうなずき前を向くと、道を行く人々を眺める。半裸の男が、殆ど裸の子供の手を引いて川辺を行く。父親は真っ黒に日焼けをしているが、子供の肩や腕は赤くなって痛々しい。日焼けではないが、東大寺の鋳造現場で、あの子供のように、むき出した皮膚に火脹れを作った者らを見た事がある。

「更には内臣うちつおみの任命もあるらしい」手嶋が言う。

「ああ、その話は市原王いちはらのみこの屋敷で聞いたな」

 横目にうかがえば、道行く人を見る手嶋の頬のあたりで木漏れ日が揺れる。この兄は日焼けなどする事があるのか。思い返しても、子供の頃から色白だ。

永手朝臣ながてのあそみが中納言ならば、内臣は八束朝臣やつかのあそみなのか。あちらでは、そんな噂をしていたが」

 そうなれば、南家に続いて北家も兄弟で太政官入りとなる。

「いいや、大納言の仲麻呂朝臣なかまろのあそみだ」

「まさか、大納言と大臣の兼任か」意外な答えに、顔ごと向けて聞き返す。

「兼任にはなるまい。内臣そのものが、以前の例とは違うようだ。権限がより大きくなる」兄の顔もこちらに向く。

「そうなのか。では、大納言の後任もいるのだな」

「それは聞いておらぬな」

「まあ、多治比廣足たじひのひろたりでも押し上げるとしたら、参議の誰かが中納言に上がるか。大伴兄麻呂おおとものえまろ石川年足いしかわのとしたり、あとは橘奈良麻呂たちばなのならまろ……辺りが妥当か」

 相手が兄なので、上位者を平然と呼び捨てにして考え込む。

内臣うちつおみというても、かつてのように天皇すめらみこと直属でな無いらしい」何かの意を含ませるよう、手嶋は微かにうなずく。

「何やら分からぬな。天皇あっての内臣であろうに」

「まあ、今少し待てば分かろう。あの方々の考える事だ、諸臣まえつぎみが肝を抜かれるような面白い事があるやも知れぬぞ」

「また南家の兄弟の共謀か」私はつい声を潜める。

「さて、右大臣はどこまで承知しておられるのか」囁くほどの声で言い、こうぶり際の額に浮き出る汗をぬぐう。

「何なのだ、まさか右大臣は蚊帳かやの外か」

 では、あの方々とは誰なのか。南家大納言が北家や他の家と共謀するとも思えない。

「南家といえども、決して一枚岩ではなかろう。最近では大納言の発言権の方が大きい」ややも批判的に手嶋は言うと、一旦腰を浮かせ、樹の幹に寄りかかるように座り直す。

「北家の付け入る隙ではないのか、それでは」

 私はなおも分からないと首を振って見せる。

「そう単純な事でもない。北家であろうと式家であろうと、藤氏の内紛は望んでおらぬ」

「どうせ俺は単純だ」

 座り直しても木漏れ日が目に入るのか、手嶋は眉の上にてのひらをかざす。それにしてもこの男は、采女うねめでもうらやむような長くて白い指をしている。そのくせ、大刀たちや弓を取らせれば、私よりも手練てだれだ。そのような事にも時々腹が立つ。

「それはそうと、いまし、先日にここでやっこを買い付けて来たそうだな」突然に話を変え、こちらをうかがう。

 この目つきが一筋縄では行かない気がして落ち着かない。

「まあ、訳ありそうだった故に」

 私も座り直そうと腰を浮かせる。微かだが、木の根か何かがくるぶしに当たっていて具合が悪い。

「父上の次官すけ資人とねりだったとかいう」

「知っているのなら、わざわざ聞くな」

 足を投げ出し、兄をまねて樹の幹に背中を付ける。

「あの時の事、汝はどれ程、おぼえている」腕を組みなおし、首を傾げるようにしてこちらを見ながら聞く。

 あの時とは、天平十七年か。都が数年ぶりに平城に戻った後の事だろう。

 

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