第21話 仲夏五月 東市にて 櫛を売る媼

 雨期に入ったものの、今年は雨が少ないのかと人々は危ぶむ。それでも五月の声を聞けば、ようやく本格的な降雨を見る。降れば降ったでままならぬもの、多すぎる雨に水路が溢れた、橋桁はしげたが流された、挙句に路肩ろかたも崩れたと、都の内外で騒がしい。殊に土地の低い右京では、西堀川が増水して大路にまで溢れる。そして薬師寺の西の低地には、にわかな池が出来上がる。それでも例年の事だと慣れている右京住まいの官人は、開き直った顔で出仕して来る。


佐保さぼ辺りならば土地が高い故に、水が漬いた事はなかろう」右京に屋敷がある内舎人うどねり仲間はうらやむ。

「佐保どころか、春日野ならば絶対に漬かぬだろう」と戯言ざれごとを誰かが横から言う。

「あそこに住むのは遠慮したいな。風向きによっては、造仏所の煙がまともに吹いて来るぞ」真剣な答えが返る。

 毘盧遮那びるしゃな仏の開眼供養はとうに終わっていても、蓮華座れんげざやら光背こうはいやらの鋳造ちゅうぞうは終わっていない。更には本尊を囲む諸仏や、伽藍内外の諸院の造営も続く。つい先頃までも、先帝の一周忌法要に間に合わせるためと、金堂の回廊建設に休む間もなかったと聞いている。造寺司長官の佐伯今毛人さえきのいまえみしも、この長雨で少しは休めているのか。もしかしたら義兄の第でのみやび話に、辟易へきえきしながら付き合っているのかもしれない。


 梅雨の晴れ間は、例年に漏れず蒸し暑い。五月半ば、一月ぶりに東市ひがしいちに足を運ぶ。ようやくの晴天のお陰か、予想以上の賑わいを見せている。

「おやまあ、今日は違う資人とねりを御連れにございますか」どこかで聞いた声に振り向く。

 板屋根の一番端の店で、白い髪のおうなが、いた歯を見せて笑い掛ける。昔はふくよかだったであろう頬は、すっかり張りを失って垂れさがり、口元のしわを深くする。さて、先日に声をかけて来た媼は、この様な顔だったか。並べられた細工物に気を取られて、満足に顔は見ていなかったようだ。

「良い御方への贈り物は、御決まりになられましたか」目じりにも皴を刻んで媼は笑い、売り台の上をあごで示す。

「もしかして、あの時の立ち回りの若子わくごかな」隣の土器かわらけ売りの男が声をかけて来る。

 何なのだ、立ち回りとは。内心で笑い飛ばす。同行する若い資人は、我関せずで向かいの刀子とうす売りを覗いている。

「あの時のやっこはどうなさいました」土器売りは疎らな顎髭あごひげを撫でる。

「ああ、かなり具合も良うなった」

御身おみ様の御屋敷に居るのですかね」

「詳細は知らぬが、家の者に知り合いがいるらしい。そうなれば無碍むげにもできぬ。我が家か知己ちきの家かで雇う事になるやも知れぬな」適当に無難な事を答える。

「御偉い御方は、ふところが深うございますな。その御慈悲、このばばにも賜りたいものですわ」媼は抜け目なく笑う。

 笑い返したつもりが、気の抜けた溜息になる。そしてすくめめかけた肩を叩く手がある。おもむろに振り向けば見慣れた顔に会う。

 すっきりと切れ上がった一重の大きな目が、問い掛けるように瞬く。そして薄く整った唇の両端が笑いに上がる。

「いつから、そこにいたのだ」私は振り向いたまま問いかける。

「いつ、気付くのかと思うていた」組んでいた腕をほどき、手嶋王てしまのみこは可笑しそうに口元を押さえる。

「おやまあ、御身おみ様方は御兄弟かえ」媼が甲高く言い、口元を尖らせて見比べる。

 私たち兄弟は、いずれも父親似だと言われる。しかし、手嶋の一重瞼ひとえまぶたに比べ、私はやけにはっきりした二重瞼だ。この目元が、かなり互いの印象を変えているらしい。

「分かるか」手嶋は私の肩越しに愛想良く答える。

「分かりますとも、良う似ておいでですわ。御身様が兄君に在られましょう。御内室ごないしつ如何いかがでしょうか」と、何処までも商魂たくましい。

「生憎と、俺はまだ独り身だ。まあ、通う女の二人や三人には事欠かぬ。少し見せてもらおうか」

 何を自慢したいのか、私を押し退けながら抜け抜けと答え、売り台に屈みこむ。

「弟君は如何でしょうかな」

「こいつはダメだ。以前に惚れた女に逃げられて、それ以来、他には目も行かぬ」

 こちらを見もせずに首を横に振ってくれる。

「おやまあ、愁傷しゅうしょうな」媼も手嶋に向いてうなずく。

「人聞きの悪い事を言うな。俺とて通う相手くらいいる」つい買い言葉が口を突く。

 手嶋の肩越しに媼の笑い顔が見え、私は少しばかりむきになって、台の上の釵子さいし(かんざし)を手を延ばす。

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