第28話 segue(セグエ)ー結果と、その先

ステージ袖に引き上げてきた、その後の記憶は、ひどく曖昧だった。

誰かに肩を支えられ、誰かの嗚咽をすぐ耳元で聞いたような気もする。

私たちは、まるで集団で夢遊病にでもかかったかのように、ふらふらとした足取りで控え室へと戻った。扉が閉まった瞬間、外の喧騒が遠ざかり、私たちは再び静寂の中に取り残された。


誰も口を開かなかった。

ただ、そこにいる全員が、仲間の誰かの顔を見つめ、また見つめられていた。

私に、詩織さんの肩にもたれかかったまま、じっと動けずにいた。

アドレナリンの激しい奔流が過ぎ去った後の身体は、まるで水に濡れた綿のように重かった。


そして奇妙な感覚が私を支配していた。

残響酔い(ざんきょうよい)。

私たちはその症状をよく知っている。Affectionの高い曲を歌った後に訪れる微熱と倦怠感、そして隣で歌った相手への一時的な、しかし狂おしいほど強い愛慕、親和性。


だが、今、私が感じているのは、それとはまったく違うものだった。

熱狂ではない。むしろ逆だ。

心がどこまでもどこまでも凪いでいる。静まり返っている。

だが、その静寂の水面があまりにも広がりすぎて、自分の輪郭がどこまでなのかわからなくなってしまっている。

隣にいる詩織さんの悲しみも、向こうで顔を覆っている玲奈の悔しさも、壁にもたれて震えている美紀の安堵も。

そのすべての感情が区別なく私の心に流れ込んできて、そしてただ静かに通り過ぎていく。

それは美しい感覚であると同時に、ひどく無防備で心許ない感覚でもあった。

私は今、傷つきやすい柔らかな粘膜を剥き出しにして世界と対峙していた。


その静かで危うい均衡を破ったのは、控え室の扉が開く音だった。

入ってきたのは綾先輩だった。

その姿を認めた瞬間、部屋の空気がぴんと張り詰める。

私たちは、まるで判決を待つ被告人のように、彼女の次の一言を待っていた。

叱責か。賞賛か。あるいはただの無視か。


だが、彼女が口にしたのは、そのどれでもなかった。

「……全員、座りなさい。そして、目を閉じて」

その声は驚くほど穏やかだった。指揮台の上で響くあの鋭利な刃物のような響きはどこにもない。ただ、ひどく疲れた一人の人間の声がそこにはあった。


私たちは言われた通り、床や椅子に座り込む。

そして目を閉じた。

綾先輩は私たちの中心に立つと、静かな声で語り始めた。

「……ゆっくり息を吸って」

私たちはその声に導かれるように呼吸を始める。

「そして吐いて。……ホールに置いてきなさい。歌の記憶を。感情の光を。審査員の視線も、観客の拍手も。……すべて置いてくるの」


それはデタッチング・ブレスだった。

だが、私たちが今まで行ってきたどんな後処置とも違っていた。

これは儀式ではない。

彼女の言葉一つ一つが、傷ついた私たちの心をいたわる処方箋だった。


「……今は、ただ自分だけに戻りなさい。あなたはあなた。私は私。……それでいいのよ」

その最後の言葉を聞いた時、私の目から堪えていた涙が一筋こぼれ落ちた。

彼女は、すべてわかってくれていたのだ。

私たちがステージの上で何と戦っていたのか。そして、その戦いの後でどれほど深く傷つき、消耗していたのかを。


どれくらいの時間が経っただろう。

綾先輩の穏やかな声に導かれて、私たちのバラバラになりかけていた自己の輪郭は、ゆっくりとその形を取り戻していった。

心が自分の身体という器の中に、ちゃんと収まっていく感覚。


その時だった。

控え室の扉が勢いよく開いた。

息を切らして飛び込んできたのは、結果を見に行っていた真帆先輩だった。

彼女は手にした一枚の紙を握りしめ、震える声で言った。


「……一位……」

その言葉に部屋中が息を飲む。

「……私たち、一位よ。……全国大会、出場決定……!」


わあ、という歓声が上がる。

だが、その歓声はどこか現実感がなかった。

勝利の実感よりも、まだあのステージの上の濃密な記憶の方がずっとリアルだったからだ。


「でも、それだけじゃない……!」

真帆先輩は続けた。その瞳は涙で潤んでいる。

「審査員からの特別コメントが出てる……!」

彼女はその一枚の紙を震える手で広げた。

そして、そこに書かれた言葉を一言一言、噛みしめるように読み上げていった。


『――本演奏は、単なる技術的評価の枠を超え、合唱薬理学における「制御」から「解放」への新たな可能性を提示した、極めて重要なパフォーマンスである』


『解放』。

その言葉。

私と詩織さん、そして叔父さんだけが知っていたはずのその言葉が、今、公式の文書として読み上げられている。


『――特に、越境相の境界における意図的な情動エネルギーの転換は、今後の連盟の倫理指針にも大きな一石を投じるものとなるだろう。その静かなる勇気に最大限の敬意を表する』


静かなる勇気。

その最後の一文を聞いた時、詩織さんが隣で静かに肩を震わせているのに気づいた。

彼女の瞳から大粒の涙が、とめどなく溢れ出していた。

叔父さんの孤独な研究が、その最期の祈りが、今この瞬間、確かに報われたのだ。


部屋中が静まり返った。

誰もがただ、その言葉の持つあまりの重さに打ちのめされていた。

私たちは、ただ勝っただけではなかった。

私たちは、この世界のルールを、ほんの少しだけ変えてしまったのかもしれないのだ。


私はそっと綾先輩の方を見た。

彼女はそのコメントが書かれた紙を真帆先輩の手から受け取ると、ただ黙ってその文字を見つめていた。

そして、その唇の端に――ほんのわずかに、私が今まで一度も見たことのない、複雑で、どこか寂しげな微笑みが浮かんだ。


彼女は顔を上げると、私と詩織さんをまっすぐに見つめ、静かに言った。


「……あなたたちの、勝ちね」


それは完全な敗北宣言だった。

だが、その声には不思議と悔しさの色はなかった。

むしろ、どこか重荷を下ろしたかのような安堵の響きさえあった。


「いいえ」

私は首を横に振った。

「……先輩が最後に私たちを信じてくれたからです。あの指揮、忘れません」


私たちの間に言葉はなかった。

だが確かに何かが通い合った。

長く、そして困難だった私たちと彼女との戦いが、今、本当に終わったのだ。


控え室の窓から夕日が差し込んでいた。

それはまるで私たちの新しい未来を祝福するかのように、どこまでもどこまでも優しい光だった。


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