第27話 pizzicato, poi tacet(ピチカート、タチェット)ー指先、そして沈黙
私の手が下ろされる。
闇の中で、それは世界の終わりか、あるいは始まりのように感じられた。
指先から、すう、と最後の熱が引いていく。詩織さんの気配だけが、すぐ隣にある。触れてはいない。だが、これほどまでに強く彼女の存在を感じたことはなかった。
――終わった。
戦いは終わったのだ。
アイマスクの内側。私の閉じた瞼の裏で、私は確かに見ていた。
私たちの歌がたどり着いた景色を。
それは、熱狂の赤でも蜜色の黄でもない。
ただ、どこまでもどこまでも広がる穏やかな青い海の色。
その静かな、凪いだ水面のイメージ。
どれくらいの時間が経ったのだろう。
数秒か、あるいは数分か。闇の中では時間の感覚さえも曖昧になる。
不意に指揮台の方から微かな衣擦れの音がした。
綾先輩だ。彼女が動いた。
その気配を合図に、私たちは最後の息を吸った。
それはもう循環のための呼吸ではない。
ただ、この奇跡のような瞬間を自分の身体に刻み込むための、静かな静かな呼吸。
そして、私たちは歌った。
最後の数小節。エピローグとなるコーダを。
それはもはや歌というよりも祈りだった。
あるいは鎮魂歌(レクイエム)。
私たちの歌によって乱されたすべての心を、元のあるべき場所へとそっと還していくための、慈しみの響き。
私の声は自分でも驚くほど澄み切っていた。まるで嵐が過ぎ去った後の朝の空気のように。傷つき、疲れ果ててはいたが、同時に洗い流され、浄化された魂の音。
最後のユニゾン。
二十数名分の声が、完全に一つに溶け合う。
その透明な音の結晶がホールに響き渡り――そして、ゆっくりと、ゆっくりと、闇の中へと消えていった。
音がなくなった。
今度こそ本当に、すべてが終わったのだ。
そして訪れたのは静寂。
私が今まで人生で一度も経験したことのない種類の、深く、重く、そして豊かな沈黙だった。
数百人がこのホールにいるはずなのに、誰一人、咳払い一つしない。
身じろぎする音も聞こえない。
それは気まずい沈黙ではなかった。困惑の沈黙でもない。
ホール全体が一つの大きな耳となって、今消えていった音の最後の残響を、そしてその残響が残していった巨大な感動の余韻を、ただひたすらに味わっている。
そんな濃密な時間が流れていた。
私はゆっくりと手を顔へと持っていった。
そして、アイマスクを外した。
まばゆい光が私の瞳に飛び込んでくる。
数秒間、視界は白く飛んだ。
やがて網膜が光に慣れてくる。
そして私は見た。
最初に目に飛び込んできたのは、壁のIDSランプだった。
その色を見て、私は息を飲んだ。
蜜色ではない。緋色でもない。第一楽章のあの深い青色とも違う。
それは、私が今まで一度も見たことのない色だった。
――浅葱色(あさぎいろ)。
雨上がりの空の色。
あるいは、遠い南の海のサンゴ礁の色。
Cohesionの青と、完全に浄化され純化されたAffectionのごく淡い黄色とが、完璧なバランスで混じり合った奇跡の色。
その穏やかで静謐な光が、私たちの歌の答えを示すように、ホール全体を優しく照らし出していた。
次に私は客席を見た。
観客たちは、まるで魔法にかかってしまったかのように凍りついていた。
そして、その多くの瞳から、ぽろぽろと静かに涙がこぼれ落ちているのを私は見た。
それは熱狂の涙ではない。もっと深い場所から――魂が揺さぶられ、洗い流された、人間のもっとも純粋なカタルシスの涙だった。
審査員席。
誰もペンを持っていなかった。
ただ呆然とステージの上を見つめている。その百戦錬磨の専門家たちの表情には、理論では説明のつかない現象に遭遇してしまった学者のような畏怖と興奮の色が浮かんでいた。
そして最後に、私は指揮台の上の綾先輩を見た。
彼女はそこに立っていた。指揮棒はだらりと力なく垂れ下がっている。
その顔からは能面のような仮面が完全に剥がれ落ちていた。
恐怖もない。勝利への渇望もない。
ただ、そこにあったのは、すべてを出し尽くし燃え尽きた後の、灰のような静けさ。
そして、その蒼白な顔の瞳に、私が初めて見る感情の光が宿っていた。
――畏敬。
彼女は私たちを見ていた。
もはや制御すべき教え子としてではない。
自分の理解を、そして理論を遥かに超えてしまった未知の芸術を創造したアーティストたちを見る目で。
彼女は私たちを見ていた。
その時だった。
客席のどこかから、一人、ゆっくりとした拍手が聞こえた。
その乾いた音が、この濃密な静寂を破った。
一人、また一人と、その拍手の輪が広がっていく。
それは決して爆発的な熱狂の拍手ではなかった。嵐のような喝采でもない。
ただ温かく、そしてどこまでも深く、私たちの勇気を、私たちの歌を讃えてくれる、感謝と尊敬に満ちた拍手だった。
綾先輩がようやく客席の方を振り返り、頭を下げた。
それから、もう一度、私たちの方を見た。そしてゆっくりと、一度だけ頷いてみせた。
それは言葉にすれば、おそらくは「お疲れ様」とでもいう意味だったのだろう。
だが、私にはわかった。
あれは彼女の敗北宣言だったのだ、と。
そして同時に、私たちへの最大限の敬意の表明だったのだ、と。
「――行きましょう」
隣で真帆先輩が小さな声で言った。
私たちは一列に並ぶ。
そして、鳴り止まない拍手の中へ、深く深く頭を下げた。
ステージの袖へと歩き出す。
スポットライトの光の輪から一歩、足を踏み出した瞬間、私の膝からがくりと力が抜けた。
隣にいた詩織さんが、とっさに私の腕を支えてくれる。
「……先輩っ」
「……大丈夫」
私はかろうじてそう言った。
「……大丈夫、だから」
大丈夫ではなかった。
足が震えて、もう一歩も歩けそうにない。
私たちが今成し遂げてしまったことの、あまりの重さに。
私の心と身体が、ようやく追いついてきたのだ。
私たちはただ歌っただけではない。
この世界の常識を、そして綾先輩の心を、完全に変えてしまったのかもしれないのだ。
薄暗い舞台袖で、私はその途方もない事実に、ただ立ち尽くしていた。
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