Episode0 『二人の魔法使い』1/6
――2005年12月25日(日)。
今思えば、すべてはこの日から始まった。
現実界では年に一度のクリスマス。街はまるで星の海のように光り輝き、イルミネーションが夜空を優しく照らしていた。あちこちから笑い声が溢れ、幸せそうな人々が行き交う。
現代では、魔法界でもクリスマスを祝う人々が多くなり、一緒に行事を楽しむため、多くの魔法使い達が現実界に足を運んでいた。
——誰もがこの日だけは、明るく、美しい世界を信じていた。
だが、その光の裏には、闇を望む者たちもいる。幸福を壊し、穢れた世界を見ようと、己の命すら差し出す者たち。そして、その闇に立ち向かい、命を賭して人々を守ろうとする者もまた存在した。——たとえ、“守るべきもの”が本来なら逆であっても。
――雪が静かに降り始めた夜23時。
ここは郊外の工場地帯。東京の海沿いにある
【
主な業務は石油化学製品の
現在の時間帯、稼働しているのは現場のみ。管理棟は灯りが落ち、ほとんど無人だった。
静まり返る夜の空気に混じって聞こえるのは、機械の低いうなりと蒸気が抜ける音。
まるで工場そのものが呼吸をしているかのようだった。
そんな中、
「……石油臭いな、ここは。」
鼻下の髭を擦りながら低く押し殺した声で言ったのは、全身を黒のスーツで包んだ男。
「あ、そ、そうですね……」
小さな声で返したのは、彼の隣にいる黒髪ショートヘアの少女。
忍び込んだのは、いくつもの修羅場をくぐりぬけてきた、指導役を務めるベテランの男——カン55歳。そして、10歳という若さでこの世界に入り、まだ二ヶ月目である新米の少女。
――ゴォォ……ヴゥゥゥン……。
機械音が鳴り響く工場内。2人の存在を隠すと同時に、周囲にいる存在をも隠してしまう。
「これじゃあうるさくて集中できないな。聞こえる音を絞り込むぞ」カンは少女に指示を出した。
「は、はい」
二人は頭上に
「周りに注意しながら俺についてこい。」
カンがそういうと、二人は身を低くしながら進み始めた。
二人の目的地は、
――ゴォォ……ゴゴォ……
プラント施設の稼働音。さらに、「シューッ」と蒸気が抜ける
――ようやく二人はオフィス棟の前にたどり着いた。カンは外灯の影に身を隠しながらポケットから携帯を取り出す。
――ピッ。
画面には一通の新着メール。仲介人からの指示だった。短い時間で読み終えると彼は画面を閉じ、少女を振り返った。
「いいか? さっきも言ったが、もう一度今回の依頼を確認しておくぞ。」
「……え、あ、はい。」
「おいおい、緊張してんのか? 見た目によらずだな。まぁ初仕事みたいなもんだ、無理もないが、興奮すると正しい判断ができなくなる。落ち着け。」
「……あ、はい。そうですね。」少女は人見知りだった。突然話しかけられて言葉に詰まっただけだった。表情の起伏が乏しいせいで、誤解されることも多い。
カンは満足げに頷くと、淡々と説明を続けた。
「今回のターゲットは、この工場の工場長・
彼の声が少し低くなった。
「仲介人から新しい情報が入った。どうも、俺たちが来ることがバレてたらしい。誰がチクったかはまだ調査中だが、とにかく護衛を雇ったって話だ。」
「えっと、その……こっちの世界の人、ですよね?」
「ボディーガードか? ああ、魔法使いじゃない。そもそも現実界の人間が魔法を使うなんて聞いたことがないからな。問題はない。……ただし注意しろ。奴らは“拳銃”ってやつを使う。当たり所が悪けりゃ、俺たちでも死ぬ。」
少女は黙って頷いた。
魔法界での任務は危険度が高く、新人はまず現実界の仕事で経験を積むのが常だ。本来なら一年の訓練が必要なところを、彼女はわずか二ヶ月で修了していた。理由は単純。——天才だったのだ。
今回の仕事も、建物の構造、動線、物資の配置はすでに把握済み。護衛の存在も予測しており、相手の配置を読むように、最適な動きを頭の中で何度もシミュレーションしていた。
「……あの、多分、」
少女が何か言いかけたが、カンが割り込む。
「俺に任せろ。ボディーガードの位置は読めてる。ターゲットの周囲を隠れて固めてるはずだ。だから今ここには誰もいない。まったく警戒が甘い、さすが現実界の連中だ、間抜けなもんだ。」
「いや、そうじゃなくて——」
「いいか! 勝手な行動はするなよ。指示は俺が出す。俺が逃げろと言ったら逃げろよ」
カンは自信満々に言い放った。
だが、少女は言葉を飲み込む。彼が見落としていることがある。実際には、周囲にはすでに護衛が配置されていた。少女は潜入の際にすでに数人を無力化していたが、カンはそれにまったく気づいていなかったのだ。
さらに言えば、仲介人からのメールは一時間も前に届いていた。潜入前に確認すべきものだった。
——そう、カンは「ベテラン」と呼ばれてはいたが、実際は平凡以下だった。
カンと
カンは
「さあ、そろそろ始めるぞ。忘れるな、チームプレイだからな。――殺し屋は。」
「……はい。」
彼らは“殺し屋”。依頼を受け、淡々と標的を葬る仕事人。特に“魔法使いの殺し屋”は、ここ現実界ではまだ珍しい存在だった。だからこそ、対策も遅れており、魔法を駆使する彼らの仕事は驚くほど容易に遂行できてしまう。
依頼の流れは単純だ。
依頼者が仲介人に話を持ち込み、仲介人が殺し屋に伝える。そして、報酬と条件が合意されれば契約は成立する。目的は一つ——「確実な死」。
カンは口癖のように言う。
「殺し屋はチームプレイだ」と。
だが実際、殺し屋にとって“相棒”はただの足手まといでしかない。息を合わせるより、ひとり静かに動き、淡々と仕事を終える。その孤独な集中こそが、本当の殺し屋の“本領”だった。
現在地は、工場1階・職員専用入り口付近。
ターゲット・
通路には明かりがなく、非常灯のわずかな光が赤く瞬いていた。影が壁を
カンが先頭に立ち、道を選び進む。
だが少女には、すぐに違和感があった。
——通路の選び方が明らかに遠回りだ。
カンが何も言わずに通り過ぎようとした瞬間、少女はそれを感じた。——視線。
確かに、部屋の奥から“誰か”が見ていた。
咄嗟に二人はドアの両脇に身を隠す。カンは左、少女は右。呼吸を殺し、
「……俺が見る。」
カンがそっと部屋を覗く。
中は狭いオフィス。机が一つ、書類棚が二つ。照明は落ち、月明かりが窓から差し込むばかり。
だが、誰もいない。気配も、視線も消えていた。
「異常は、無さそうだな…」
「そ、そうみたいですね。」少女の胸には小さな疑問が残っていた。
(ひと部屋だけ開いてる……偶然じゃない。さっきの視線、あれは……誘い? 監視?)
思考を巡らせる間もなく、時間は過ぎていく。
結局、少女はその疑念を胸にしまい、カンの指示に従って先へ進むことにした。
やがて二人は地下へと続く階段を発見し、慎重に降りていく。しかし、地下一階に足を踏み入れた瞬間、異変に気づいた。
構造が違う。
事前に入手していた建物の見取り図と、目の前の光景がまるで一致しないのだ。本来なら階段を降りれば、すぐに地下2階へ続く通路があるはず。だがそこには壁が立ちはだかり、道は不自然に曲がっていた。
「……あれ? おかしいな。」カンが小声で呟く。
歩けば歩くほど、景色が同じに見えてくる。
曲がっても、戻っても、まるで“同じ通路”を何度も通っているような錯覚。いや、錯覚ではない。出口がない。進んでも進んでも、終わりが見えない。
少女は周囲を観察し、眉を寄せた。
護衛の姿もない。奇妙なほどに静かすぎる。
「異様だな、この地下…」
「こ、これって……
「バカ言え。そんなはずあるか。魔法が使われてたら、俺たちは地下に降りる前に気づいてるはずだ。きっと“テクノロジー”ってやつさ。現実界の奴らも、意外とやるじゃねえか!」
カンは軽く笑った。
だが少女は笑えなかった。
肌が粟立つほどの違和感。空気の密度、足元の影、壁の質感までもがどこか“偽物”のように感じられる。
二人は足を止めた。
なぜカンがここまで頑なに「魔法使いの護衛」の存在を否定するのか――少女には理解できなかった。しかし、魔法の痕跡が一切見つからないのも事実であり、完全にその可能性を否定することもできない。
この状況をどう打開するか、少女は迷った末に
「
呟いた瞬間、杖の先から淡い緑の光が走り出す。光はまるで生き物のように壁面を這い、目に見えない魔力の痕跡を一つ残らず探り出していく。やがて、十数メートル先の曲がり角――その奥に、ふわりと微かな光が浮かび上がった。
少女は息を呑み、その場所まで駆け寄った。角を曲がると、すぐ目の前に見覚えのある階段。間違いない。そこは二人が最初に降りてきた、あの1階への階段だった。
「おぉ! お前やるじゃないか。元の場所に戻ってこれたぞ!」
カンが声を上げ、嬉しそうに笑った。
少女は小さく安堵の息を吐いたが、胸の奥に残る違和感は消えない。彼女はくるりと振り返り、まだ薄く光を放つ壁を見つめた。
「一部分だけ痕跡が残ってる……。もし空間魔法なら、もっと全体が反応するはず……。ということは――」独り言のように呟く声を、カンが聞き逃さなかった。
「おいおい、独り言の時はスラスラ言葉出んのな、君は」
「あ、いや、すいません……」
カンは苦笑を浮かべ、少女に促した。
「なんかわかったんだろ。言いたいことは言え」
少女は少し俯きながらも、勇気を出して口を開いた。
「あ、あの……最初、
「幻覚魔法? なんでそれを見ただけでわかるんだ?」
少女は後ろを振り返り、階段を三段ほど登った。「ここから見てください」
そう言って、階段の内側に身を寄せる。わずかな隙間から覗いた先――そこには、はっきりと地下2階へと続く階段が見えた。
「……やっぱり、繋がってました」
「どう見たって、地下なんて続いてねぇぞ……いや、待て。つまり、君が見てるものと俺が見てるものが違うってことか」
カンは少女の隣に立ち、彼女の視点から同じ景色を覗いた。
すると、自分が見ていたものとはまるで違う。
そこには確かに、先へ続く階段が存在していた。
「なるほどな……痕跡のあった場所を通った奴にだけ発動する設置系の……あれだ、
「はい。一部分だけ設置してあるから、気配にも気づけない。幻覚で迷路化してるように見える……完璧な設置魔法です」
カンは大きくため息を吐いた。
「ったく、面倒なことを……」そう呟くと、痕跡の残る壁に杖を向け、短く詠唱する。
「
低く響く音とともに、壁を覆っていた幻が音もなく剥がれ落ち、封じられていた通路が現れた。
再び二人は階段を降り始める。
薄暗い中、カンがぽつりと呟いた。
「……魔法使い同士でやり合いたくないから現実界の担当にしてもらったのに……あんまりだよな」
その声には、疲労とやるせなさが滲んでいた。
それが“仲間を殺したくない”という葛藤なのか、それとも単なる恐怖なのか――少女にはわからなかった。
けれど、カンの背中から伝わる重い感情に、胸の奥が少し締めつけられる。彼女は何も言わず、静かに頷いた。
地下2階へと辿り着くと、二人は互いに顔を見合わせ、再び気を引き締めた。先ほどのようなトラップがないか慎重に確認する。だが、今回は何も仕掛けられていない。
地下の照明は明るく、上階の薄暗さが嘘のようだった。少女は「
二人は、再び“視線”を感じた。
空気の中に漂う、誰かに見られているような粘ついた圧。思わず周囲を見渡すと、天井の角に小さな赤い光が点滅していた。監視カメラ——それが視線の正体だった。
思い返せば、さきほど一階で感じた視線も同じだ。つまり、最初から通る場所も行動も、すべて監視されていたことになる。しかも今、それを“気づかせる”かのように、あからさまに見える位置に設置されている。まるで――誘われているように。
その瞬間、照明が不意に赤く変わった。耳をつんざくような警報音が建物全体に響き渡る。
——
少女はそう確信すると、迷わず詠唱した。
「
淡い光が
そのとき——。
床を叩くような足音が、通路の奥から近づいてくる。複数人。外にいた者たちとは違い、明らかに訓練された足取りだった。
二人はすぐに左右の部屋に飛び込み、それぞれドアの影から外を覗いた。
暗闇の中を進むのは、拳銃を構えた護衛たち。ライトもなしに、迷いなく動いている。
「なんで見えてるの……?」少女は息を潜めながら眉をひそめる。
護衛たちの顔に光るのは、分厚いゴーグルのようなもの。おそらく暗視機能か、魔力感知機器だろう。だが、今この建物のすべての機器は妨害魔法で停止している。少女の頭に疑問が浮かぶが——すぐに思い出した。
(保護魔法かな……外部妨害を防ぐ防護呪文がかかってるのかも)
その推測が終わるより早く、先頭の男が声を上げた。
「相手が魔法使いだろうが関係ねぇ! 俺たちは最強だッ!!」その太く荒々しい声に、背後の護衛たちが一斉に応じる。
『オウッ!!』声の波が通路を震わせた。
少女は焦りを覚える。
(外の人達より手強い……それに、二人でやるには場所が悪すぎる。どうする……? 一人じゃ、きつい)
迷いを見せる少女の視線を、カンは静かに受け止めた。
そして、手の合図で示す。
——「俺が奴らを引きつける。お前はターゲットの
その意思を理解した少女の胸に、不安と覚悟が同時に宿る。しかし、今は信じるしかない。
少女は一度だけ小さく頷くと、部屋の奥へと姿を消した。
カンはゆっくりと深呼吸をし、構えを取る。
次の瞬間、迫り来る足音の群れへ向け、闇を切り裂くように飛び出した——。
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