無実の罪で追放された鑑定士、追放先でのんびり工房を開いたら国を救う英雄に。今更故郷に泣きつかれても知りません
藤宮かすみ
第1話「石ころの追放」
サーベリアン地方の片隅、エーデン村。
使い古された石畳の道は月の光を鈍く反射し、家々の壁には蔦が老人の皺のように絡みついている。主な産業は農業。夜明けと共に土の匂いが立ち込め、人々は日が暮れるまで畑仕事に精を出す。
そんな、どこにでもある小さな村に、リオン・ベルトという名の青年がいた。
彼は、風景に溶けてしまうほど目立たない男だった。
幼くして両親を亡くし、村の教会に引き取られてからは、掃除や鐘つきといった雑用をこなし、影のように静かに生きてきた。燃えるような赤毛は彼の唯一の色彩だったが、それすらもいつもぼさぼさだった。少し猫背気味に歩く姿は、彼の控えめな性格を物語っていた。誰と話すときも相手の目をまっすぐ見ることができず、少しうつむきながら、必要以上に丁寧な言葉を選んだ。
村の若者たちが酒場で未来の夢を熱っぽく語り合う夜も、リオンは一人、教会の裏手で古びた農具に油を差しているような男だった。その態度は村人たちの目に「臆病」「覇気がない」と映り、彼の価値を認める者はいなかった。
「リオンの奴、何を考えているのかさっぱりわからんな」
「ああ、いつも何かに怯えているようだ」
風に乗って届く陰口に、彼は気づかないふりをした。何も言い返さず、ただ困ったように微笑むだけ。それが、彼が身につけた処世術だった。
彼には、誰にも話したことのない秘密があった。物心ついた頃から、奇妙な「感覚」があったのだ。
例えば、教会に寄進された古い剣に指先が触れると、屈強な騎士がそれを振るい、戦場で雄叫びを上げる光景が瞼の裏に焼き付く。道端に捨てられた人形を拾えば、それを抱きしめて泣いていた少女の、胸が張り裂けそうな悲しみが自分のもののように流れ込んでくる。
リオンは、これを「能力」だとは認識していなかった。ただの白昼夢か、人一倍感受性が強いだけなのだろう。そう自分に言い聞かせ、心の奥底に蓋をしていた。
幼い頃、一度だけ勇気を振り絞って教会の神父に打ち明けたことがある。
「神父様。この石に触ると、昔ここで焚き火をしていた人たちの笑い声が聞こえるんです」
神父は慈愛に満ちた、それでいてどこか困惑したような笑みを浮かべ、「それは神の導きかもしれませんね」と曖昧に答えただけだった。
それ以来、リオンはこの感覚について口を閉ざした。「変なやつ」だと思われることが、彼にとっては世界の終わりと同じくらい恐ろしかったのだ。
そんなリオンにとって、唯一の光は幼なじみの少女・ミラだった。パン屋の娘である彼女だけは、リオンを馬鹿にすることなく、いつも気にかけてくれた。
「リオン、また教会の掃除? はい、これ。焼きたてのパン、休憩の時に食べてね」
太陽のような笑顔でパンを手渡してくれる彼女の前でだけ、リオンは強張った心を少しだけ解くことができた。
だが、そんなささやかな平穏は、ある日唐突に引き裂かれた。
村の有力貴族ヴァイン家の嫡男・ゲオルグが、狩りの最中に崖から転落死したのだ。村は蜂の巣をつついたような騒ぎになり、捜索隊が組まれた。そして、無残な姿で発見された遺体のすぐそばから、一本の小刀が見つかった。
それは、リオンが普段、木を削ったり薬草を摘んだりするのに使っている見慣れた小刀だった。数日前、森で落としてしまったものだ。
しかし、ヴァイン家はそうは考えなかった。
「これはリオン・ベルトの小刀に相違ない! 普段からゲオルグ様を妬んでいた奴が、恨みを晴らすために突き落としたのだ!」
ヴァイン家当主の断罪の声が、村中に響き渡った。
ゲオルグは傲慢な男で、リオンも何度か因縁をつけられたことがあった。そのたびに頭を下げてやり過ごしてきたが、そんな事実さえ、今や動かぬ殺意の証拠として扱われてしまった。
村の長老たちは、ヴァイン家の権力に逆らえない。ろくな調査もされぬまま、リオンは広場の中央に引きずり出された。
「リオン・ベルト! 貴様を、ゲオルグ様殺害の容疑で、このエーデン村から永久に追放する!」
長老の一人が、震える声で宣告した。村人たちは、遠巻きにリオンを見ている。誰もが心のどこかで彼が犯人のはずがないと思っていても、ヴァイン家の権勢を恐れて石のように沈黙していた。
「今すぐ出て行け。二度とこの村の土を踏むな!」
(違う、僕じゃない)
声にならない叫びが喉を塞ぎ、石になったように動けなかった。わずかな食料と着替えを詰め込んだ袋を背負わされ、彼は村の門へと追いやられる。
誰も彼を庇わず、誰も彼の無実を信じない。
門をくぐり、あてどなく歩き始めた、その時だった。
「リオン!」
息を切らして走ってきたのは、ミラだった。彼女は衛兵の目を盗み、リオンの冷え切った手に小さな布包みを握らせた。焼きたてのパンの、温かい香りがした。
「信じてる。リオンは、人を殺すような人じゃない。絶対に」
涙を浮かべながらも、まっすぐな瞳で告げるミラの顔を、リオンは生涯忘れないだろうと思った。
「……ありがとう、ミラ」
それが、彼が故郷で発した最後の言葉だった。
ミラの言葉と、手のひらに残るパンの温もりだけを道しるべに、彼はあてのない旅へと足を踏み出す。背後で、エーデン村の門がごとりと音を立て、彼の世界を無慈悲に閉ざした。
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