第3話 遭遇


 小川に沿って、山を下っていく。


 人里に近づいているという安心感で足が軽く感じる。


「まず事情を説明、次に電話を借りて家族、警察は最後だな」


 心に刺さった棘を誤魔化すように口を動かす。


「待てよ、スマホが壊れてたんじゃないか。」


「そうだよ。なんだそんなことか。こりゃ帰ったら笑い話だ。」


 もしスマホの電子マネーが使えたら何か食べさせてもらおう。

 昨日から食べてないからガッツリと食べたい。

 いや、遭難してここまで来たんだ。

 何か食べものくらい出してくれる。


 心の奥で鳴り響くアラームを消すために、どうでもいいことを考える。

 思考を止めると違和感に飲み込まれてしまう。


 そんなことを考えながら歩く。

 だんだんと足元が砂利道のようになり、小川は川に変わっていた。

 スリッパが脱げないようにした。

 スマホの充電ケーブルを二つに切り足に結び付けた。

 尖った石で何度も傷を付け、中の銅線を岩の角に押し付けてちぎるように切った。

 思ったよりも、足の痛みがない。

 スリッパのクッションが厚いのが救いだった。


「さすがに、お値段以上だ。」


 スリッパのメーカーを見てつぶやく。

 渇いた笑いはすぐに消え、アラーム音が再び心に鳴り響く。

 このまま進んでいいのか。


 景色が開けてきた。

 山間の集落。


 川は村より低いところを流れ、山と村を区切る境界線のようになっていた。

 村が見えてくると河原に不思議なものがあった。


「十字架。なんでこんなところに沢山あるんだ」


 村側の河原に木や獣の骨で作ったと思われる十字架が地面に所狭しと並んでいた。


「キリシタンの隠れ里だったりして」


 軽口をたたいて違和感に蓋をする。

 胸を突き破ろうと心臓が跳ねる。

 唾も飲み込めず、嫌な汗が止まらない。

 そろそろ河原から村へ上がろう。

 ごつごつした岩と砂利の坂を村に向かって上る。


「暑い!」


 思わず叫んでしまう。

 今になって気付いた、季節は夏のようだ。


 なんで冬用のスリッパとパジャマなんだ。


 茅葺き屋根の家屋が見える。

 ただやはりサイズがおかしい。


 その時ガラリと引き戸が開き子供が外に出てきた。

 小学生ぐらいの身長で、浴衣のようなものを着てる。


 娘と行った国立博物館を思い出す。

 そうだあれは夏休みの自由研究の調べものだ。

 日本の服の歴史。

 そうそう、そんなテーマだった。


 江戸の庶民。そんな展示物のマネキンが着てた着物。

 その小さな子供のマネキンが戸口から出てきた気がした。


 こっちを見た。

 セミの声も、川の音も聞こえない。

 キーンという耳鳴りだけがした。

 頬に汗が伝い地面に落ちた。


 戸を閉め、振り返った瞬間、純朴な少年がこちらに笑いかけた気がした。


 違う。


 子供じゃない。

 口ひげ、頭には手ぬぐい。

 顔に幼さのかけらなんて微塵みじんもない。

 説明できない違和感に首を絞められているようだ。


 その目は怪訝そうに細められている。

 何かを決意したように強い意志を宿した目が大きく見開かれた。


「アァァーーッ! アアァァーー! ガァッ……!」


 声変わり前の少年の声に鉄粉を混ぜたような、異質な声。

 驚愕の声ではなく明らかな敵意。

 叫びは村を通り越して河原の十字架まで震わせた。

 夜を明かした廃村まで届いたかもしれない。

 あいつの激しい呼吸もこちらまで聞こえた。

 耳元に息を感じたような気もする。


 あいつは片手を振り上げ一歩、また一歩、叫びながらこちらに近づいてきた。

 振り上げた腕は短くて太い。腕の中の血管が稲妻のように見えた。


 セミの声が戻り、叫び声に負けまいと大合唱が始まる。


 走る。


 小石が跳ね、頬に当たる。

 道の先に木々が見えた。

 パジャマの中を風が通り抜ける。

 右目に汗が入った。

 視界が半分ぼやける。

 痛いけど目をつぶれない。

 早く、山へ。

 背中を流れる汗が冷たい。

 足の裏まで汗をかいてスリッパの中で足が泳ぐ。

 生命の危機を感じる。

 追い付かれたらそこで終わりだ。


 後ろを振り返るなんて到底無理な話だった。


 山の中に入り大きな木のうろに身を隠す。

 村落のほうからカーン、カーン、カーンと乾いた木を叩き付けるような音が聞こえる。

 その音は数を増やし、激しさを増し、突然鳴り止む。


 セミが負けじと大合唱を響かせる。

 その大合唱を切り裂くような叫びが聞こえる。


「ワッタ!、ワッター」

「イネ、アイム!アイム!」

「アイム」「オー、アイム」


 意味の分かる言葉ではない。未開の地に迷い込んだかのような感覚。

 冷たい木の洞に体を委ねているのにフワフワと浮いているようだ。


 大きな扉を開けたような音がかすかにする。

 金属同士をぶつけたようなガチャガチャと耳障りな音に耳を塞ぐ。


 もう走れないんだ。

 肺が裂けたみたいに唾に血の味が混じる。

 足の指に何かが刺さった感覚がある。

 腕には枝で作った細かな傷がいくつも線を引いている。


「オープファ!」


 叫び声が上がった。一人。


「オープファ!」


 複数。

 同じ叫びが繰り返されている。

 一人が叫ぶと同じことを全員が叫ぶ。


「オープファ!」


 同じ言葉を同じ抑揚で。

 地獄の鬼が集団で押し寄せてくるような気がする。

 頭を抱え小さくなる。


 スマホの電源を入れた。

 ロック画面に写った幸せの残滓を目に焼き付けた。


「ごめんな。ごめんよ。」


 泣きながら何度も謝り続けた。

 足音が聞こえ始めるまで。


 チーン、チーンと鐘の音が聞こえる。


 息をひそめる、瞬きすらやつらに音を知らせてしまう。


 叫びながら何かを振り回す音、ザー、ザーっと何かをばら撒く音もする。

 足音が最後の時を告げるかのように近づいてきた。


 ギュッとスマホを握り目を閉じる。

 湿った森の匂いを強く感じる。

 近くで草を踏む音がした。


 チーン、チーン。


 もう鐘の音が耳元で聞こえる。

 さーっと風が吹くように全ての音が遠ざかった。


 薄く目を開けようとする。

 汗が鼻筋を通り過ぎていく。


 突然左脛に穴を開けられた。

 皮膚ごと肉を抉られ、骨まで届いた気がした。


 今度は右太ももだ。血が噴き出しているに違いない。

 息ができない。


「アッ、アイムー!」


 叫び声。目を開けたくない。

 終わりだ。お終いだ。


 こちらに向かってくる沢山の足音。

 顔を手で覆い自然と顔面を守る。

 小さくなって岩のように身構える。

 もう穴を開けないでくれ。


 チーン、チーンと鐘の音のリズムが早くなる。


 顔を覆った手首に何かが絡みつく。


 右手、左手。


 猛烈な力が、顔から手を引きはがす。

 掌に鼻水がくっついて地面に落ちる。


 恐る恐る目を開けた。


 綱引き。

 娘の運動会、保護者対抗種目。

 記憶が一瞬脳内を焼いた。


 そんな太い縄が手首に巻かれている。

 顔を上げた。


 あいつだ私が見た大人子供。小さな大人。

 あいつがニヤリと笑った。

 笑った口の中にはなぜか上の前歯2本がなかった。


 伸ばした手が縄を掴んだ瞬間。

 温かい感触が下半身に広がる。

 きついアンモニア臭。


 歯抜け男の手が止まる。

 首を傾げ不思議そうな顔をした。

 フーッとため息をついて縄を引っ張り立たされた。


 私は恐怖心がスーッと抜け空っぽになる。

 周りを見渡す余裕すらでてきた。

 空っぽになった心の奥に、ようやく「生きてる」という感覚が戻ってきた。

 惨めさとともにどこか解放感すら感じた。

 体に空いたはずの穴を確認した。

 ……いや、実際には棒で突かれただけだった。

 穴なんて開いていない。

 でもあの瞬間の私は、本当に貫かれたと思った。


 周りには小さな大人の男が三人いた。

 一人は村で見たやつだ。

 もう二人のうち一人は仮面を被っている。

 仮面には穴が三つ空いている。

 表情すら描かれていない。

 この仮面が鐘を叩いている。

 鐘を強くたたき始めるとあたりに足音が増えていく。

 小さな大人たちは叫び声をあげるのをやめた。

 他の小さな大人が来ても会話すらしない。


 20人近い小さな大人が列をなし、無言で私の縄を引いて村へと連れていった。

 村の入り口に差し掛かったとき、突然隊列が止まる。

 面を付けた男が赤い粉を次々と小さな大人たちにかけていく。

 最後の一人、最初に村で遭遇した歯抜け男の番がきた。

 仮面の男が呟く。


「アバタメ」


 歯抜け男は答える。


「ンニ」


 返事をしたように感じた。

 私はあいつの名前だと直感的に感じる。

 アバタメの頭の上から、残っていたすべての粉をかける。

 かけ終わるとまた縄を引かれ村へと歩き出す。


 その時、私のスマホがパジャマからポロリと落ちた。

 アバタメが慎重に拾い上げ、ロック画面を見つめた。

 少し悲しそうな顔をしていた。

 真顔に戻ると、そっと私のポケットにスマホを戻した。


「アバタメ」


 私は思わずつぶやいていた。

 アバタメは何か痛みを堪えるような顔で私を見ると顔を背けた。


 村の中央に祭られている、大きな墓石のような巨岩に、私は縛り付けられた。



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