第3話 未来の帳簿が告げるもの
薄暮の光が石造りの壁を染め、茶屋の奥でカップの縁に映る自分の瞳を見た。
エレナ・ヴァン=ローゼ。──二度目の人生を生きる女。
目の前には、冷ややかに茶を口にする隣国の将軍レオン・ヴァルネア。
契約を交わしてから、まだ数分しか経っていないというのに、私の中では一年分の時間が過ぎたように感じられた。
彼の手袋は黒革で、装飾も紋章もない。
だが、その無言の“質”が、どんな宝石よりも威圧を放っていた。
剣を抜かずとも人を屈服させる男──その空気を纏っている。
「……未来を知るという帳簿。信じ難いが、いまの状況がそれを裏づけている。」
彼は低く言い、視線を窓の外にやった。
通りでは王国兵の列が通過している。金色の紋章、王冠を掲げた旗。
その中心に見えるのは、王太子セドリックの護衛隊。
今日の“会合”のため、庭園へ向かっているのだ。
あの瞬間に、私はそこにいなければ──罠は成立しない。
つまり、私はいま、未来を確かに“書き換えた”。
私は帳簿を開いた。
黒革のページに、新しい文字が刻まれている。
《王太子の計画は乱れた。彼は代替の証拠を捏造するため、宰相に命じる。
そしてその夜、宰相の私邸で“密談”が行われる。》
ページの隅に淡い光が脈打つ。
私は指先でなぞりながら、深呼吸をした。
「今夜、宰相の屋敷で密談があるわ。」
「内容は?」
「王妃暗殺──つまり、私の抹消計画。その最初の打ち合わせ。」
「……三年前の王国は、そこまで腐っていたのか。」
レオンの声に微かな怒気が混じる。
彼の国ヴァルネアは厳格な軍制国家だ。裏切りや陰謀は“処刑”で終わる。
その目から見れば、この国の宮廷はまるで腐った庭園だろう。
「あなたは、その密談をどうしたい?」
「記録を手に入れる。彼らがどんな言葉を交わしたのか。証拠を“未来”に残す。」
「無謀だ。宰相の屋敷は警備が固い。」
「だからこそ、あなたに頼むの。」
私がそう言うと、彼は眉をわずかに上げた。
その表情は、薄く冷たいが、どこか愉快そうでもあった。
「なるほど。最初の仕事が潜入か。」
「契約相手を試すには、これが一番でしょう?」
彼の口角が、ほんの少しだけ、笑みに歪む。
「いいだろう。だが条件がある。」
「何かしら?」
「お前も来い。」
「……私が?」
「王国の腐敗を正したいのなら、他人の報告ではなく、自分の目で見ろ。
それが“現実”を変える第一歩だ。」
言葉の重さに、一瞬だけ息を止めた。
たしかに私は、これまで“帳簿の指示”に従うだけの存在だった。
しかし、書かれた運命を越えていくためには、自分自身で“記す”ことが必要だ。
そう──私はこの物語の“書き手”なのだから。
「分かったわ。行きましょう。今夜、宰相の屋敷へ。」
◇
夜。
王都の北区。
宰相ロルド・ベルドマンの屋敷は、王宮に次ぐ広さを誇っていた。
白い石造りの門に二重の鉄柵。
その外に立つ影は、私とレオンの二人だけ。
風が乾いた土を巻き上げ、月が静かに屋根瓦を照らしている。
「ここの警備は、表の三倍はいる。どうやって入るつもり?」
「帳簿に聞いてみるわ。」
私は黒革を開く。
すぐに新しい文が現れた。
《南の塀、三番目の燭台の下。
そこには“宰相の孫娘”が夜な夜な脱出に使う小扉がある。》
「……便利な本だな。」
「便利だけれど、万能じゃない。
この頁にも“成功率七割”って書かれているわ。」
レオンが小さく笑う。
「残り三割は?」
「死ぬ、って。」
「なら、当たるなよ。」
私たちは影のように動いた。
南の塀の三番目の燭台。その下に確かに石の継ぎ目があった。
レオンが短剣の柄で軽く押すと、金具が音もなく外れる。
中には細い通路。使用人の抜け道。
中は冷たい石の匂い。
油の切れた燭台が壁に並び、足音が響かぬよう、彼が私の手を取った。
その指の感触は意外なほど温かい。
“冷徹”と呼ばれる男の手が、こんなにも確かな体温を持っているとは。
(ああ、そうか。私がこの男に惹かれた理由は、きっとここにあったのね)
やがて、通路の先に小さな明かりが見えた。
戸の隙間から、宰相と数名の男たちの声が漏れている。
「……王妃を失脚させねばならん。今のうちに。
王はもう、我らの操り糸の上だ。」
「だが、証拠は?」
「金庫の帳簿だ。書き換え済み。あの女が横領したと誰もが信じる。」
私は歯を食いしばった。
“金庫の帳簿”。
それが、あの“罪状”の根拠。
ここで手に入れれば、三年後の断罪を止められる。
「レオン、行くわ。」
彼は無言で頷き、扉の影から中へ滑り込む。
私も続いた。
松明の光が頬を照らす。
宰相が振り向き、驚愕の表情を見せた瞬間、
レオンの手がすでに彼の肩を押さえ、短剣を喉元に当てていた。
「声を出すな。」
氷のような声。
その一言で、部屋の空気が凍った。
他の男たちは狼狽し、腰を抜かす。
私は机の上の帳簿をつかみ、ページをめくる。
そこには、見覚えのある筆跡。
王妃エレナの名、そして虚偽の数字。
私の未来を奪った“証拠”が、ここにあった。
その瞬間、黒革の帳簿が再び光った。
新たな文が現れる。
《この帳簿を守れ。燃やされれば、未来は再び“書き換え”られる。》
私は即座に命じた。
「レオン、逃げるわ。ここから!」
彼は宰相を突き飛ばし、私の腕をつかむ。
窓を破る音、叫び声。
衛兵の笛が夜を切り裂く。
石畳を走る。
背後で炎が上がる。
宰相の屋敷が赤く染まるのを見て、私は気づいた。
──運命は、もう既に動いている。
◇
夜明け前。
古い鐘楼の屋根に身を潜め、息を整える。
東の空が白み始め、レオンの影が隣に座る。
彼の頬に血がついている。
それを布で拭いながら、私は問う。
「あなた……本当に私を信じていいの?」
「信じる、ではなく“選ぶ”。」
「選ぶ?」
「未来を共に作る者を選ぶ。それが、俺のやり方だ。」
その言葉は、炎の音よりも深く胸に響いた。
私は微笑み、黒革の帳簿を膝の上に置いた。
次の頁には、新しい文字が浮かんでいる。
《王暦四二一年・初夏。
宰相の屋敷は炎上し、王妃の汚名は一時的に消える。
だが、王は不審を抱き、王妃の監視を強化する。
その監視役こそ──レオン・ヴァルネア。》
私は息を呑んだ。
横でレオンが、わずかに唇を歪めて言う。
「どうやら、これから俺はあなたの“護衛”になるらしい。」
朝の光が差し込む。
帳簿の頁が、ゆっくりと閉じた。
(ここからが本当の戦い──そして、二度目の人生の幕開け)
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