第2話 過去への帰還:契約の条件
まぶたを開くと、淡い光が天蓋のレース越しに差し込んでいた。
鳥の声。朝露の匂い。燃えかけの蝋燭。
夢ではない──私は、本当に“あの日”へ戻ってきた。
鏡台の前、若い私がいた。
指で頬を触れる。
滑らかで、傷一つない。処刑の日の煤も、炎の匂いもない。
白い寝衣の袖口に刺繍された薔薇の紋。王妃ではなく、“公爵令嬢”としての私の印だ。
胸の奥が、強く打つ。
──三年前。
断罪の始まりよりも前。王太子セドリックの“婚約式”を控えた朝。
机の上には、封をされていない白紙の手紙。
差出人は、王太子。
この朝に届いた手紙が、やがて“陰謀”の第一歩になる。
私は覚えている。内容も、行間の匂いも、差し出された笑顔の裏も。
ゆっくりと封筒を手に取り、まだ震える指で開いた。
「親愛なるエレナへ。今日、式の前に君と話したい。
どうか、王都の庭園にて待っていてほしい。──セドリック」
“話したい”──その一文が、すべての罠だった。
彼はそこで、私を「国費横領の疑い」として誘い出し、証拠を差し替える。
私はこの朝にそれを止めなければならない。
そう、あの“黒革の帳簿”が教えてくれたように。
机の引き出しを開ける。
そこに、確かにあった。
黒革の帳簿。
表紙には金文字で《記録》。
私はそっと頁を開く。
《王暦四二一年・初夏。王都の庭園。セドリックと会えば“贈り物の箱”を受け取る。その箱が、後に証拠となる。》
短い一行の下に、まだ余白がある。
その余白に、私は新しい一文を書いた。
《会わない。代わりに、彼の動きを監視する者を置く。》
瞬間、帳簿の頁がわずかに光を放ち、文字が淡く沈んだ。
──未来が、書き換わったのだ。
私は息を整え、衣装箪笥の扉を開いた。
深紅のドレスを避け、目立たぬ灰青の外出着を手に取る。
そのとき、扉の向こうでノックの音がした。
「お嬢様、朝食のお支度ができました」
乳母代わりの侍女、メイラの声。
あの日、彼女は私の“最後の味方”として最期まで泣いてくれた。
扉を開けると、いつものように柔らかい笑顔。
しかし、私はもう“無知な令嬢”ではない。
「メイラ。頼みがあるの。今日、庭園に行く人の姿を見張ってほしい。
特に──王太子の従者たち。彼らの手に“小箱”があったら、報せて」
メイラは戸惑いながらも、真剣に頷いた。
私の目に宿るものが、もはや冗談ではないと悟ったのだろう。
◇
昼下がり。
王都の南端、石畳の通りに面した小さな茶屋。
私はその窓辺に腰を下ろして、通りの向こうを観察していた。
帳簿には次の頁が開かれている。
《午後二時、王太子の使者が“隣国ヴァルネアの使節団”と接触する。
その男が、やがてあなたの運命を変える“レオン・ヴァルネア”である。》
ヴァルネア──冷徹な鉄の国。
王国の政治では“敵国”とされ、同盟を結ぶなど夢物語。
だが、この頁に書かれているなら、運命は“会わせる”つもりなのだ。
私はカップを置き、視線を上げた。
通りの向こうに、黒い外套の一団が馬を引いている。
その中心に、銀灰色の髪が陽光を弾く男。
あの目。断罪台で私を見ていた“黒い影”。
──彼だったのだ。
彼は足を止め、私の方を見た。
冷たい青灰の瞳。
表情のない顔が、わずかに頷く。
まるで、すべてを知っているように。
「……あなたが、レオン・ヴァルネア、ですか?」
私の問いに、彼は一歩近づいた。
鎧の金具が静かに鳴る。
口元に浮かんだ微笑は、氷のように硬い。
「そう呼ばれることもあります。
あなたは──未来を知る女、エレナ・ヴァン=ローゼか?」
心臓が跳ねた。
帳簿の頁の余白が、光を帯びる。
そこに新たな一行が浮かび上がった。
《ここから先、彼は“共犯者”となる。》
私はその文字を見て、静かに息を吸った。
そして答えた。
「……そう。私は未来を知る女。そして、あなたに“契約”を求めに来たのです。」
彼は一瞬だけ眉を上げた。
次の瞬間、表情を緩めるでもなく、冷静に問う。
「契約の内容は?」
「この国を、共に変えること。──あなたの国の“利益”にもなるはずです。」
レオンはしばし黙し、やがて小さく頷いた。
「ならば、条件を二つ。
一つ、互いに嘘をつかないこと。
二つ、いかなる時も、目的を見失わないこと。」
「承知しました。では、三つ目をこちらから。
裏切りの代償は、“命”で払ってもらうわ。」
互いの視線が交わる。
風が吹き、灰色の外套が翻った。
その下で、彼の右手が私に差し出される。
「契約成立だ、王妃殿下。」
私は笑い、静かにその手を握った。
黒革の帳簿が、微かに震える。
そして、新たな頁が開く。
《契約成立。ここから、歴史は二度目の流れに入る。》
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