第11話

 夜の帳が、天音優の部屋を静かに包んでいた。


 開け放した窓からは、虫の音と、夏の夜特有の湿った空気が流れ込む。蛍光灯は消され、部屋の主役は、デスクトップPCのモニターが放つ青白い光だけだった。


 タイムラインに並んだ映像クリップの断片が、優と相葉寧々の二人だけが共有する世界を照らし出している。


 カタ、カタ、とマウスをクリックする乾いた音。


 時折、キーボードを叩く規則正しいリズム。それ以外には、お互いの微かな息遣いしか聞こえない。濃密な沈黙が、まるで一つの言葉のように二人の間に横たわっていた。


 その沈黙は、優にとって心地よいものだった。


 かつての創作現場にあったような、互いの思惑が渦巻くような重苦しさはない。ただ純粋に、目の前の映像と向き合う、研ぎ澄まされた集中があった。


 不意に、テーブルの端に置かれた優のスマートフォンが、ぶるりと短く震えた。画面に浮かび上がったのは、坂田日葵の名前と、懇願するようなメッセージのプレビューだった。


 優の指が一瞬、止まる。


 隣に座る寧々は、モニターに全神経を集中させており、その小さな振動には気づいていないようだった。彼女の黒髪のボブカットが、モニターの光を吸い込んで、深い藍色に染まっている。


 優は無言でスマホを手に取ると、メッセージを開いた。画面に表示されたのは、後悔と自己憐憫に満ちた、あまりにも身勝手な言葉の羅列。


 『どうして無視するの? まさか、あの女のせいでしょ?』


 『私が悪かったって言ってるじゃない。私だって、優がいないと辛いんだよ?』


 『私を一人にしないで。お願い、優……』


 『こんなことになるなら、最初からやり直したい。私のこと、見捨てないで』――。


 画面いっぱいに広がるその文字列を最後まで目で追うと、画面の片隅に『既読』の二文字が灯った。


 返信は、しない。


 優は小さく、誰にも聞こえないほどの息を吐き、スマホの画面を伏せてテーブルに置いた。かつての自分なら、きっと甘い言葉で慰めていたかもしれない。あるいは、一方的に責め立てられて、言い訳を探しただろう。


 だが、もうそんな感情は沸き上がらなかった。


 終わった物語の登場人物に、かける言葉など持ち合わせていない。エピローグの後のページは、白紙であるべきだ。未練も、後悔も、懺悔も、すべては過去の残滓に過ぎない。


 彼の物語は、今、ここにある。


 モニターの中で、タイムラインの上で、そして隣で真剣な眼差しを向ける、この少女と共に、新しく紡がれているのだから。


「……先輩?」


 不意に、寧々が顔を上げた。心配そうに優の顔を覗き込んでいる。モニターの青白い光が、彼女の大きな瞳に反射して、きらりと揺れた。


「どうか、しましたか?」


「いや、なんでもない」


 優は努めて穏やかに微笑んでみせた。日葵のメッセージによってざわついた心の波が、寧々の心配する声によって、まるで穏やかな凪へと戻っていくようだった。


「それより、今のカット。もう少しだけ後から入った方が、感情の余韻が残る気がするんだ。どう思う?」


「……はい。そう、思います。その方が……、余韻が、残る、ような気がします」


 寧々はこくりと頷き、再びモニターに視線を戻した。彼女が自分の意見を肯定してくれたことに、優は胸の奥が温かくなるのを感じた。


 これは、対話だ。


 かつて、日葵としていたような、一方的な講釈ではない。彼女の感情の起伏に振り回され、優の言葉がすべて肯定されることを要求するような関係ではなかった。親友と交わしていた、上辺だけの同調でもない。彼らはいつも、見栄えや流行を追いかけ、互いの心の奥底にある「本物」の感情に蓋をしていた。


 互いの感性を尊重し、一つの答えを探していく、創造的な対話。それは、優がずっと渇望していたものだった。


 編集作業は、深夜まで続いた。


 二人はコンビニで買ってきた肉まんと缶コーヒーで簡単な夜食を済ませ、再びPCの前に戻る。撮影した膨大な素材を、一つ一つ吟味していく地道な作業。映像の欠片を繋ぎ合わせ、物語の骨格を組み立て、そこに感情の血肉を与えていく。しかし、不思議と苦痛ではなかった。


 むしろ、一つ一つのカットに意味を見出し、それが物語の中で輝きを放つ瞬間を見つけるたびに、胸の奥が満たされていくのを感じた。


「あ、このカット、覚えてますか」


 寧々が、タイムライン上のあるクリップを指さした。そこには、河原の土手で、寧々の8ミリカメラを覗き込んでいる優の姿が映っていた。逆光に照らされた彼の横顔は、自分でも見たことのないほど、穏やかで、少しだけ楽しそうに見えた。


「私が撮ったやつです。先輩、この時、すごく集中してました」


「……俺、こんな顔してたんだな」


 少し照れくさくて、優は自分の頬を掻いた。寧々が捉えたのは、優自身すら気づいていなかった、無防備で純粋な一瞬だった。


「寧々が撮る時って、気配を消すのが上手いよな。撮られてるって、全然気づかなかった」


「先輩が、撮られる側に慣れてないだけです」


 優はぶっきらぼうに返しつつも、口元が緩むのを止められなかった。彼女の言葉は、彼の内側にある、まだ見ぬ自分を引き出してくれるようだった。


「……ふふっ」


 寧々は、その小さな笑い声で、優の照れを優しく受け止めた。


「でも、いい顔、してます。映画の主人公みたい」


「……からかうなよ」


 優は、さらに照れが増して、頬を掻いた。彼女の言葉は、彼の内側にある、まだ見ぬ自分を引き出してくれるようだった。


 次に画面に映し出されたのは、優が撮った寧々の姿だった。古本屋の店先で、難しそうな哲学書を真剣な表情で眺めている。ふと、こちらに気づいた彼女が、少し驚いたように目を見開き、はにかむように微笑む。


 その瞬間、優は息を呑んだ。


 優は、そのカットを何度も繰り返し再生した。


 日葵を撮っていた時とは、明らかに違う感覚があった。日葵を撮る時は、常に「どうすれば彼女がより美しく、よりヒロインらしく見えるか」という演出家の視点が働いていた。構図、ライティング、アングル。すべては計算の上に成り立っていた。それは、世間の評価や「バズる」ための綿密な計画であり、決して彼女自身の本質を映し出すものではなかった。


 だが、寧々を撮ったこの映像は違う。


 計算なんてなかった。ただ、ファインダー越しに見えた彼女の表情を、その一瞬を、永遠に焼き付けておきたいという衝動だけがあった。それは、彼の心が、寧々という人間そのものに引き寄せられている証拠だった。


「……このシーンの、このセリフ」


 優は、寧々が書いた脚本の一節を指さした。モニターに表示された言葉を、ゆっくりと目で追う。


「『世界が全部嘘でも、この光だけは本物だって思った』……これ、すごいよな。どうやったら、こんな言葉が出てくるんだ?」


 優が心からの賞賛を口にすると、寧々は驚いたように顔を上げた。その瞳には、自分の言葉が認められたことへの、控えめな喜びが浮かんでいた。


「……別に、すごくなんてないです。ただ、そう見えたから、書いただけ……」


「それがすごいんだよ。俺には絶対に書けない」


 優は心の底からそう思った。この言葉は、計算では生まれない。見栄えを気にして装飾された、空虚な言葉ではない。寧々自身の魂から紡ぎ出された、紛れもない「本物」の感情が込められていた。


 かつて、彼女の言葉を「地味で売れない」と一蹴した男がいた。その男は、優のかつての「親友」であり、共にインディーズ映画界で名を上げようとしたパートナーだった。彼は、今頃、AIにプロンプトを打ち込み、見栄えのいいだけの、心の無い映像を生成しているのだろう。


 本物は、ここにあるのに。


 他の誰にも見つけられなかった宝物を、自分だけが見つけたような、そんな誇らしい気持ちが込み上げてくる。この少女の才能を、真っ直ぐな感性を、自分だけは信じ抜きたい。


 作業は佳境に入っていた。


 物語のクライマックス。傷ついた主人公が、ヒロインの言葉によって再び立ち上がる、最も重要なシークエンスだ。


 優は、ヒロインの感情が爆発するアップのカットを、タイムラインに配置した。


 モニターいっぱいに、寧々の顔が映し出される。


 夕陽の光を浴びて、彼女の瞳が潤んでいた。何かを堪えるように固く結ばれていた唇が、微かに震えている。それは演技ではあったが、彼女の内面から滲み出た、紛れもない本物の感情だった。感情の波が、モニター越しに優の胸に直接、押し寄せるようだった。


 優は、息を呑んだ。


 自分が撮りたかったものは、これだ。


 スコセッシの模倣でも、ゴダールの引用でもない。世間の評価や流行に媚びた、AIが生成するような無機質な映像ではない。目の前にいる、この不器用で、けれど誰よりも純粋な魂が放つ、一瞬の煌めき。


 それこそが、自分が追い求めていた「本物」の映画なのだと、確信した。


「……ここの繋がり、どうしましょうか」


 寧々が、身を乗り出すようにしてPCの画面を覗き込んできた。彼女の肩が、優の肩に、そっと触れる。シャンプーの、石鹸のような清潔な香りが、ふわりと鼻をかすめた。


 近い。


 その事実に気づいた瞬間、優の心臓が大きく跳ねた。モニターの光に照らされた彼女の横顔は、驚くほど整っていて、普段の物静かな雰囲気とは違う、どこか艶めかしい色を帯びていた。その近さに、鼓動が早まるのを感じた。


 寧々もまた、画面に映る自分の姿から目が離せないようだった。どこか信じられないといった表情で、ぽつりと呟く。


「……私、こんな顔、してるんですね」


 その声は、ひどくか細く、彼女自身の耳にすら届いていないのではないかと思えるほどだった。それは、羞恥と、戸惑いと、そしてほんの少しの喜びが混じり合った、複雑な響きを持っていた。優は、そんな寧々の内面の揺らぎを、まざまざと感じ取っていた。


 優の口から、言葉が滑り落ちたのは、ほとんど無意識だった。心の中で幾度も反芻した言葉が、何の躊躇いもなく、声となって紡ぎ出された。


「……綺麗だよ」


 言ってから、ハッとした。


 違う。そんな、ありきたりな言葉で表現できるものではない。これは、映画の登場人物への賛辞ではない。もっと、個人的で、もっと、心の深い場所から溢れ出た、衝動的な言葉だった。寧々という一人の女性に向けられた、優自身の本心だった。


 部屋の空気が、凍り付いた。


 あれほど鳴り響いていたキーボードの音も、マウスのクリック音も、完全に止んでいた。聞こえるのは、壁にかけられた時計の秒針が、時を刻む音だけ。


 カチ、カチ、と。


 その一秒一秒が、永遠のように長く感じられた。


 優は、自分の失言に気づき、慌てて視線をモニターに戻した。心臓が早鐘のように鳴り響き、耳の奥が熱い。何を言えばいいのか、全く分からなかった。


 隣の寧々は、顔を真っ赤にして俯いていた。長い前髪が彼女の表情を隠してしまっているが、耳まで赤くなっているのが、モニターの反射光で見て取れた。彼女は、自分の膝の上で、小さな拳をぎゅっと握りしめている。その震える拳が、彼女のどれほどの緊張と羞恥を表しているかを、優は悟った。


 気まずい。


 だが、それは不快な気まずさではなかった。むしろ、これまで感じたことのないような、甘く、そして少しだけ切ない空気が、狭い部屋を満たしていた。この張り詰めた空気すら、優には宝物のように思えた。


 どれくらいの時間が、過ぎただろうか。


 やがて、寧々が俯いたまま、蚊の鳴くような声で言った。


「……ありがとう、ございます」


 その一言が、優の心に、じんわりと染み渡っていく。羞恥に押し殺された声の中にも、確かに喜びの響きが感じられた。それは、優の言葉が、寧々にも届いた証だった。


 その時だった。


 突然、モニターに赤色の警告メッセージが点滅した。


 『システムエラーが発生しました。データを保存して、アプリケーションを終了してください』。


「えっ!?」


 寧々が、はっと顔を上げた。焦りの色を浮かべた彼女の瞳が、優と視線が合う。


 まるで氷が溶けるように、張り詰めていた空気が、あっけなく霧散した。


「まじかよ……!」


 優は思わず、間抜けな声を上げた。


 最悪のタイミングだ。いや、もしかしたら、最高のタイミングだったのかもしれない。


「……え、こんな、時に……? どう、しましょう……!」


 寧々は慌ててマウスを操作し、保存ボタンをクリックしようとする。だが、マウスカーソルは砂時計のアイコンに変わり、動かなくなってしまった。


「あ、動かない……!」


「嘘だろ!? これ、まさか、保存できてないとかないよな……!?」


 優と寧々は顔を見合わせ、同時に吹き出した。


「……はは、はははっ」


「……ふふっ」


 二人分の笑い声が、夜の部屋に重なった。先ほどまでの甘く気まずい空気が、一瞬で霧散していく。そして、その代わりに、もっと柔らかく、親密な絆が二人の間に生まれたような気がした。予期せぬトラブルが、二人の間の見えない壁を、あっけなく取り払ってくれたのだ。


「……なんか、腹減ったな。もう一回、コンビニ行くか?」


「……はい」


 寧々は、まだ少し赤い顔で、それでもはっきりと頷いた。その瞳には、さっきまでの戸惑いではなく、確かな光が宿っていた。優の誘いを、迷うことなく受け入れる純粋な眼差し。


「最後まで、一緒に」


 その言葉は、単なる映画の編集作業のことだけを指しているのではないと、優には分かった。それは、これからも、共に物語を紡いでいきたいという、寧々からの、そして優自身が望む、二人の未来への確かな誓いのように聞こえた。


 優は力強く頷き返し、再びモニターに向き直る。


 タイムラインの上に並んだ、光の断片。


 それは、二人の痛みと、希望と、そして芽生え始めたばかりの温かい感情が刻まれた、かけがえのない物語の設計図だった。誰かの模倣でも、計算された虚構でもない。二人の魂がぶつかり合い、共鳴し、生み出された、唯一無二の「本物」の物語。


 窓の外では、東の空が、ほんの少しだけ白み始めていた。


 長い夜が明けようとしている。


 それは、彼らの新しい物語の、本当の始まりを告げる夜明けだった。


 その頃、遠い場所で、優の元親友は、AIが生成した「完璧な」映像を見つめ、不敵な笑みを浮かべていた。彼の瞳には、世間の賞賛だけが映っていた。しかし、そこに、かつて優と共有したはずの情熱の光は、もはや宿っていなかった。

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