第10話
一番星が瞬いたあの夜から、俺たちの時間は急速に動き出した。
それは、まるで止まっていた砂時計が、突然逆さまにされたような感覚だった。
寧々が書き上げた脚本『習作_01』は、俺たちの聖書になった。
埃をかぶっていたその言葉の束は、俺という監督と、寧々という脚本家自身の情熱によって、再び命の息吹を取り戻したのだ。
一枚一枚のページをめくるたびに、乾いた紙の中から、色鮮やかな情景が立ち上るようだった。
寧々の言葉には、確かな熱と、そして何よりも「魂」が宿っていた。
「この喫茶店、脚本のイメージにぴったりじゃないか?」
俺がそう言って指差したのは、駅前の古びた商店街の路地裏にひっそりと佇む純喫茶だった。
蔦の絡まるレンガ造りの外観。
磨りガラスの向こう側には、温かいオレンジ色の光が灯っている。
どこかノスタルジックで、時間の流れが緩やかに感じられるような、不思議な空気を纏っていた。
「……はい。私も、ここだと思ってました」
隣を歩く寧々が、こくりと頷いた。
彼女の瞳には、すでにその店で展開される物語が映し出されているようだった。
彼女は首から提げた祖父の形見だという八ミリカメラを、まるで宝物のようにそっと胸元で抱きしめている。
その小さなファインダーを覗き込む時の彼女の横顔は、普段の物静かさとは別人のように真剣で、そしてどこか楽しそうだった。
まるで、カメラを通して、この世界の秘密を覗き見ているかのようだった。
俺たちは脚本の舞台となる場所を探して、何日もこの町を歩き回った。
ロケーション・ハンティング――通称ロケハン。
それは映画制作における、地味だが最も重要な工程の一つだ。
寧々の脚本に描かれた世界を、現実の風景の中に探し出す。
それは、宝探しにも似た、わくわくするような作業だった。
「ウェイトレスの彼女が、窓の外を眺めるシーン。あそこの席がいいな。西陽が差し込んで、テーブルに影を落とす感じ」
「……あそこです。光と影が、彼女の心を表してる。そして、風鈴の音……それが、微かな、希望みたいに、聞こえませんか?」
二人で店の外からガラス越しに中を覗き込み、ひそひそと囁き合う。
その姿は端から見ればただの怪しい二人組だったかもしれない。
だが、俺たちの胸には確かな高揚感が満ちていた。
世界が、二人だけのために物語の舞台へと変貌していく。
その確かな手応えがあった。
機材は俺のスマートフォンと、寧々の八ミリカメラだけ。スタッフは俺たち二人きり。
それでも、何も足りないとは思わなかった。
むしろ、余計なものが何もないからこそ、俺たちは映画そのものと純粋に向き合えている気がしたのだ。
ファインダー越しに世界を見る。
寧々が描いた物語のフィルターを通して町を眺めると、見慣れたはずの風景が全く違う表情を見せ始めた。
通学路の何気ない電信柱も、公園の錆びついたブランコも、すべてが物語のワンシーンになり得る。
一つ一つの風景に、寧々の言葉が息吹を吹き込んでいくようだった。
「先輩。今の光、綺麗です」
寧々が不意にカメラを俺に向けた。
逆光に照らされた俺の姿を、彼女はじっとレンズ越しに見つめている。
その視線には、探求心と、そして少しのいたずらっぽさが混じっていた。
「おい、やめろって。変に意識するだろ……」
俺は少し照れくさくなって、そう返した。
「主人公の目線を、記録しておきたいんです。監督が何を見て、何を感じているのか。それが、きっと映画の魂になるから」
そう言って悪戯っぽく笑う寧々の表情は、俺が今まで見たことがないほど、生き生きとしていた。
花が綻ぶような、まぶしい笑顔だった。
彼女は自分の殻を破り、新しい自分を見つけようとしている。
俺もまた、彼女という鏡を通して、失いかけていた自分自身を取り戻しつつあった。
この時間が、永遠に続けばいい。
柄にもなく、そんなことを思った。
澄み切った秋の空に、飛行機雲が一直線に伸びていく。
俺たちは、今、間違いなく、最高の場所に立っている。
だが、俺たちのささやかな幸福を嘲笑うかのように、その声は唐突に背後から響いた。
「うわ、まだそんなガラクタで映画ごっこしてんの?」
その声を聞いた瞬間、俺の全身が凍り付いた。
振り返るまでもない。
忘れたくても忘れられない、あの男の声だ。
そして、彼の隣には、坂田日葵が立っていた。
気まずそうに視線を彷徨わせる日葵と、俺たちを値踏みするように見下す親友。
数週間前まで、俺の世界の中心だった二人がそこにいた。
「お前が大事にしてた『魂』だの『メッセージ』だのって、結局誰も見向きもしないんだな。惨めにならないわけ? 才能ない奴に価値はないんだよ」
親友はあざけり笑った。
その言葉は、俺の過去の失敗、誰も俺の映画を理解してくれなかったというコンプレックスを的確に抉った。
「まだそんな子供の遊びしてんの? 優。俺たちの『Astra』、もう見たんだろ? あれが”本物”の才能ってやつだよ。お前には一生撮れない、な」
親友は得意げに自分のスマートフォンを取り出し、画面を俺たちに見せつける。
そこには、先日SNSで公開され、瞬く間に話題となった映画研究部の新作ティザーPVが映し出されていた。
動画生成AIを駆使したというその映像は、確かに技術的には圧倒的だった。
壮大な宇宙空間、緻密に描かれた未来都市、そして美しく舞うヒロインたち。
だが、俺の目は、その映像の片隅に映る日葵の姿を捉えていた。
彼女は、AIが生成した他の幾人もの美しい少女たちの中に紛れ、その他大勢の一人として扱われているように見えた。
かつて俺が、俺だけが見つめていたはずの特別な輝きは、そこにはなかった。
彼女の瞳には、かつてあった情熱の炎が宿っていないように思えた。
「……行こう、相葉」
俺は親友を無視し、寧々の腕を引いてその場を去ろうとした。
これ以上、こいつらの自己満足に付き合うつもりはない。
「待ってよ、優!」
不意に、日葵が声を上げた。
その声は、微かに震えていた。
「……何だよ」
俺は冷たく言い放った。
「……その人、誰なの?」
日葵の視線は、俺の隣に立つ寧々に突き刺さっていた。
それは嫉妬とも焦りともつかない、複雑な感情が入り混じった色をしていた。
彼女の目が、微かに揺れているのが分かった。
「見ての通りだ。俺の相棒で、俺の映画の本物の主役だよ」
俺は寧々の肩を抱き寄せ、はっきりとそう告げた。
寧々の体がびくりと震えるのが分かった。
しかし、彼女は逃げようとはしなかった。
「もう俺は、過去の物語には興味ない。お前たちの場所は、もうここにはない」
今度こそ、俺は背を向けた。
背後で日葵が何かを言おうとしていた気がしたが、もうどうでもよかった。
俺たちの物語のエンドロールは、もうとっくに流れたんだ。
二人の姿が見えなくなると、寧々がそっと俺の腕から離れた。
「……すみません、私」
寧々は申し訳なさそうに、視線を伏せた。
「なんでお前が謝るんだよ。悪いのは俺だ。嫌なもの見せたな」
「いえ……」
寧々は俯いたまま、小さな声で呟いた。
「……先輩の、横に立てたから。それで、十分です…」
その言葉に、俺は胸が締め付けられるような思いがした。
こいつの才能を、俺が絶対に証明してやらなければならない。
あの連中に、本物の物語の力を、見せつけてやらなければ。
俺たちは、どちらからともなく、再び歩き出した。
夕陽が、俺たち二人の影を長く、長くアスファルトに伸ばしていた。
その影は、まるで一つの未来へ向かって進む意志のようにも見えた。
◇
坂田日葵は、遠ざかっていく二つの影を、呆然と見送っていた。
優の隣に立つ、見慣れない後輩の少女。
優が、あんなふうに誰かの肩を抱くなんて知らなかった。
彼のあの眼差しは、自分に向けられていたものとは明らかに違う。
それは、映画のヒロインに向けるものではない。
共に戦うパートナーに向ける、信頼と尊敬の眼差しだった。
「なーんだ、あいつ。まだ未練がましく映画なんて撮ってんのか。しかも、あんな地味な子と」
隣で、彼――日葵が優の代わりに選んだ男が、つまらなそうに吐き捨てた。
「……地味、かな」
日葵は、心の中でその言葉を繰り返した。
優の隣にいた少女が、本当に「地味」だったのか、自信が持てなかった。
「地味だろ。華がないっていうかさ。やっぱ、ヒロインは日葵じゃないとダメだな」
彼はそう言って日葵の腰に腕を回す。
以前なら、その言葉に胸が高鳴ったはずだった。
自分が特別な存在だと、認められた気がしたから。
でも、今は違った。
彼の言葉は、どこか薄っぺらく響いた。
ちっとも、嬉しくなかった。
「ねぇ、『Astra』のクレジット、見たんだけど……」
日葵は思い切って切り出した。
胸の奥に引っかかっていた、小さな棘のような疑問を投げかけた。
「ああ、見た見た! 俺の名前が一番上! 最高だよな!」
彼は自分の手柄を誇るように、顔を輝かせた。
「そうじゃなくて……私の名前、結構下の方だったよね? 他の女の子たちと一緒で……」
日葵の言葉に、彼は一瞬、面倒くさそうな顔をした。
「あー……あれな。五十音順だから、しょうがないだろ。それに、今回は群像劇ってテイだからさ。メインヒロインっていうより、キャストの一人って感じ?」
「嘘よ! 私、メインだって言ったじゃない! 私を、主役だって言ってくれたのに…!」
「言ったっけ? まぁ、プロモーション的には日葵が一番目立ってるからいいじゃん。それより、次のコンテ考えなきゃ。AIにどういう指示出せば、もっとバズる映像作れるかな」
彼はもう日葵の顔を見ていなかった。
スマートフォンの画面をスワイプしながら、次の「作品」のことしか考えていない。
彼にとって、自分は「主演女優」ではなかった。
彼の才能を飾り立てるための、大勢いる駒の一つに過ぎなかったのだ。
自室のベッドに倒れ込み、日葵はスマートフォンの画面を開く。
メッセージアプリを閉じ、『Astra』のティザーPVの動画を再び開いた。
何度か再生ボタンを押す。
壮大な音楽が流れ、華麗な映像が次々と映し出される。
そこに、自分の姿があった。
AIが生成した、完璧な顔立ちの少女たちの中に紛れて、確かに日葵は映っていた。
美しかった。完璧だった。
だけど、それはまるで、自分自身のコピーが何人もいるような感覚だった。
誰が自分なのか、分からなくなる。
彼が撮る映像の中の自分は、美しく輝いていたけれど、それは魂のない、記号のような存在に思えた。
――優の映画って、ちょっと難しいんだもん。もっと、私を見て撮ってほしかったな。
かつて、自分が優に放った言葉が、ブーメランのように胸に突き刺さる。
その言葉の愚かさに、今さらながら気づく。
優は確かに、映画の話ばかりするオタクだった。
小難しい理屈を並べて、自分の知らない監督の名前を挙げて、悦に入っていることもあった。
だけど、彼のカメラのレンズは、いつも真っ直ぐに自分だけを見ていた。
夕暮れの教室で、一人で居残って課題をしていた時。
彼は何も言わずにカメラを回し始めた。
窓から差し込む西陽が、日葵の横顔を金色に染め上げていた。
「……何撮ってるの?」
日葵は気のないふりをして、そっと尋ねた。
「別に。……ただ、今日の光は、お前を綺麗に撮れる気がしただけだ」
ぶっきらぼうにそう言う彼の耳は、少しだけ赤かった。
彼は、自分の感情を表現するのは下手だったけれど、そのファインダー越しに伝わってくる想いは、いつも本物だった。
彼が撮る自分は、いつも少しだけ不機嫌そうで、少しだけ退屈そうで、だけど、世界の誰よりも大切にされている顔をしていた。
あの頃の自分は、その価値に気づけなかった。
彼が与えてくれる特別な場所にいることに慣れきって、それが当たり前だと思っていた。
もっと分かりやすい言葉で、もっと甘い態度で、「主役」として扱ってくれる隣の男に、いとも簡単に乗り換えてしまった。
SNSには、今も『Astra』への賞賛のコメントが溢れている。
『映像革命!』
『天才現る!』
『もはやハリウッド超え!』
その熱狂の中に、自分の居場所はどこにもなかった。
ちやほやされ、賞賛される。でも、誰も本当の自分を見てはいない。
AIが作った美しい虚像の一つとして、消費されているだけ。
震える指で、メッセージアプリを開く。
トーク履歴の一番上には、もう何日もやり取りのない『天音 優』の名前がある。
最後に交わした会話は、あの日、部室で全てが壊れた時のものだ。
『才能があるのは彼の方なの』
自分で送ったその残酷なメッセージが、今さら自分を切り刻む。
何て馬鹿なことをしたんだろう。
本当の才能がどちらにあったのか。本物の輝きを自分に与えてくれていたのが誰だったのか。今なら、痛いほど分かる。
失って初めて、その大切さに気づくなんて、まるで三流の恋愛ドラマだ。
そして、そのドラマのヒロインは、もう自分ではない。
衝動的に、指が動いていた。
『話があるの』
たった一言。
送信ボタンを押してから、心臓が大きく跳ねた。
すぐに後悔が押し寄せる。
今さら、どんな顔をして彼に会うというのか。何を話すというのか。
だけど、もう指は止まらなかった。
『少しだけ、時間もらえないかな?』
追撃するように、二通目のメッセージを送る。
画面を見つめる。
一秒が、一分のように長い。
やがて、画面の片隅に、その無慈悲な文字が浮かび上がった。
――既読。
日葵は息を呑んだ。
見てくれた。読んでくれた。
きっと、返事が来る。
彼は優しいから。なんだかんだ言っても、昔みたいに話を聞いてくれるはずだ。
そうすれば、やり直せるかもしれない。
あの地味な後輩より、自分の方がヒロインに相応しいと、彼も分かってくれるはずだ。
一分が過ぎた。
五分が過ぎた。
十分が過ぎた。
スマホの画面は、沈黙したままだった。
新着メッセージを知らせる通知は、一向に現れない。
ただ、『既読』という二文字だけが、日葵の最後の望みを、静かに、そして残酷に否定し続けていた。
彼の時間は、もう自分とは違う場所で流れている。
彼の物語の新しいページには、自分の名前が記される余白は、一行たりとも残されていないのだ。
日葵は、返信のないスマートフォンを胸に抱きしめたまま、声を殺して泣いた。
枕に顔を埋め、嗚咽を漏らした。
窓の外は、もうすっかり暗くなっていた。
優と寧々が二人で歩いて行った、あの夕焼けの残光も、どこにも見当たらなかった。
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